つづけて官兵衛は、子飼いについてはあとまわしにすると、ほかの直臣やおもだった役まわり、その一人一人の名前をあげながら、適材適所の人事を披露していった。

こうして、手の内のものへのうつ手について言上したのである。で、つぎにしめした案。外部への手配りやそれ以外においてもだったが、手錬でありそつがなかった。

以下のとおりである。

その一……秀吉と影武者それぞれの顔にある、キズや黒子(ほくろ)などの相違をごまかすため、瘡(かさ)気(け)を患ったことにする。瘡気とは、いまでいう梅毒のことだ。好色でとおっていたから、だれも疑わないとかんがえたのだ。

ちなみに梅毒は、コロンブスの航海により西インド諸島の風土病だったものがヨーロッパに伝わり、バスコ・ダ・ガマのインド航路開拓によりデカン・スルターン朝が支配したころのインドに伝播し、やがては日本に。十五世紀の初めころには流行していたとの文献があるほど。

で曰く(いわく)。医師の治療をうけてはいるが、瘡気の症状が顔面にすこしでたので、回復するまで戦場では頭巾をもちい、城内などでの謁見のさいは、御簾(みす)をつかうを良策と。その状況に、やがては慣れるであろうから、慣習化させればよいとした。

 その二……影武者へは、しぐさや癖を徹底しておしえこみ、習熟させる。性癖や好物・嗜好なども、秀吉流を踏襲させる。「早期に」が肝要ゆえ、秀長さまからそのむね、寧々さまにおねがいする。

 その三……秀吉と同ていどの素養・教養、ことにイロハからはじまる文字と筆づかいを、短期日で身につけさせる。

 その四……秀吉が戦で、上半身や四肢にうけた刀傷については、影武者にも、同所におなじキズをつける。

 そしていよいよ、あまり似ていない声の問題である。

 その五……常日ごろから体格にあわず、ムリに声を張りあげたためノドを痛めてしまったと。生まれつきではなく、じぶんと家臣たちを励ますためムリにデカくしていたのだと。

これは事実である。また、千単位では経験は豊富なれど、万の大軍をひきいての野戦は、毛利攻めにいたるまでは経験がなかったところへ、その直後の山崎の合戦、賤ヶ岳の合戦と二度の大戦で、決死の督励に声をはりあげたため、ノドが潰れたと。

さらには、正常な声にもどるには、はやくとも半年はかかり、そのあとでも多少の声変わりはありうるとの診断をうけたと。ゆえに、お言葉も軍令も、じぶんたちや小姓などをとおすこととする、とした。

多少のムリを承知で、進言したのである。