この、利家が肚(はら)におさめた請願はけっかとして、争いごとのない世を希求する民の願望、当時においては日本統一の、その支援となったのである。
肉が肉といさかい、血で血をあらそった戦国の世は、このような有名、だけでなく無名の人々に因(よ)って、終焉をむかえることができたのだ。
極論をいうと泰平とは、民衆がこいねがい続けなければ、実現しえないものなのかもしれない。
だとすれば人とは、なんと因業な生きものであろうか。
哀しいかな、力をえた人間というやつばらが、覇をあらそってきたのだ、それこそ有史以前から。より盛隆をのぞむがゆえに、相手を敵とみなし力でねじ伏せてきたのである。
ま、それはともかくとして、秀吉によってだされた惣無事令(大名間による領土紛争などの私闘を禁止し、罰則を法令化したもの。ただし異論の学説も存在するが、ボクはとらない)は、争いごとを禁じる代表的な和平政策であろう。
それは利家からみて、信長がかかげた“天下布武”の本意、つまるところ武をもって武のない世界を布(し)くにつうじており、敬愛した主君信長へのオマージュであったろう。
ちなみに“武”とは、戈(ほこ)(武器である戈)と止めるから成立する漢字である。軍事力や権力でもって制圧をする覇は、統一の必要悪的な手段で、大切なのはそのあとの天下泰平であり、それこそが、“武”本来の目的なのである。
ところで歴史好きでもないかぎり、羽柴秀長にたいする認識はざんねんながらさほどではない。だが間違いなく、かれはひとかど以上の人物であった。
「影」を耳にした瞬間、利家がなにを訊こうとしたかくらいは即座にわかった。だが強いて、さそい水の言辞を駆使しなかった。むしろどう出るかを見極めるため、利家にその刹那の仕切りをまかせることにしたのである。
どこまで味方になってくれるか、かれの本意をしるためであった。
羽柴家をゆるがす一大事件をおこした直後だけに、卑下は致しかたなしと。されど過ぎたる卑屈な言動があったならば、利家は気骨なしと。また、仕置きをきくまえに腹をきる仕草をしたならば、軽挙な人物と軽視するつもりだった。いっぽう、美辞麗句を弄するようならば、信頼にあたいしないとして見限ろうと。
はたして、そのどちらでもなかった。
かねてより利家のことを知ってはいたが、かれの眸が放った光をみて、信頼できると確信できたのである。
さてこのふたり、傍からだとなにごともなくみえたであろう。しかしながら戦国武将の駆けひきは、まさに命がけだったのである。
しかもこの間ふたりは、眉、その一毛(いちもう)たりともうごかすことはなかった。
これが、天正十一年(1583年)四月二十二日昼前から深夜にかけての全幕である。