「これらの者には、一切をつつみ隠さず正直に打ちあけ、羽柴家のゆく末を安堵するために骨身をおしまないとの、誓いをたてさせましょう。行長(当時二十五歳)なんどをもふくめ、まだわかき者たちゆえ、心はまっすぐにござれば…」
官兵衛は、かれらを信じるか、皆殺しにするしかないとかんがえた末、信じることにしたのである。それしかないと決めたのは、かれらが働かなければどの道、羽柴家は成りたっていかないとの洞察によった。
企業の創業時においては、上下に相互信頼がなければ、成長はおろか、生きのこりすらもむずかしい、との方程式に似ている。
百姓の立場から裸一貫で興した秀吉ゆえに、ほんらいの意味での譜代をもたない。かれらをこそ譜代にしていかねば、将来はないのである。
それには隠しごとは禁物で、情報を完全に共有する道しかないとした。
年若と侮(あなず)りかるくあつかえば、多感なかれらは、敏感にかんじとるであろう。
信頼していない相手をば、信用するものがいるだろうか?逆に、秘事中の秘事とはいえ、いやだからこそそれをすべて明かされたならば、意気にかんじ与力するであろう。
これが官兵衛一流の、人心収攬術であった。
秀長も苦労人で、この方程式に異議はなかった。ただし問題は、その「羽柴家のゆく末」にたいする不安である。
主を消失した羽柴家のゆく末を本気で案じ、そのうえで、主家安堵のための与力を、愚直にしてくれるものたちであるのかどうか?
「その心配ならば、おそれながらご無用かと。虎之助や市松、佐吉をはじめ皆のものが、御台盤所の寧々様にはこのうえなく可愛がられておりますゆえ、母者人(ははじゃひと)のように慕っております」
秀吉亡きあとは、ねねこそが羽柴家のゆく末そのものだから、まず当面は大丈夫、というのである。
「さらには秀勝様がおわします。上様(信長)直系のお方であり、上様より殿がうけたる恩義、いまは、秀勝様からの恩顧であると説きわからせます。で、亡き殿になりかわり恩にむくいる道こそ、武人の誉れであり忠義だとおしえてみせまする」
道をとく資格において、官兵衛以上の適任者はほかにいなかった。
信長を裏切った荒木村重(すくなくとも信長陣営はそう見ている)に、友誼から翻意させようと単身で、いまは敵と化した主城、有岡城におもむき、かえって囚われの身となり、食事もふくめ家畜以下のまま一年余の牢獄生活にたえ、それでも主君を裏切らなかった。
そんな経歴をもつ人物、とされ、また、それを知らないものはいないからだ。
しかし、まだ心配げの秀長。
「こういうことは本来憚るべきことなれど…、秀勝様は病弱であり……、そのうえ、義姉(あね)上にもしもの事あらば」秀勝とねね、二人とも長生きする保証などないとおもうと気掛かりで、つい、洩らしてしまったのである。
富士山のような兄の突然の消滅は、賢弟の日ごろの沈着冷静をうばうに、じゅうぶんな事態だったのだ。
「さればその前に、足元の地を固めてしまいましょう。この戦はもはや勝ちにござりまする。よってかれら近習には、いっそう特別の、おしみない恩賞をあたえますれば…」
「なるほど。それが良い」おもわず膝をたたくと、「羽柴家にたいし、新たな恩義をつくりだすのじゃな」安堵の眉でいった。
軍師も無言で自賛のうなずきをいれると、「さすれば、欲が出てまいりましょう。欲のない人間はおりませぬゆえ」ひとの習性について語った。その欲を、よそにむける愚はしますまいとも。
「かれらは、他家では無名。だれもが、路傍の石あつかいは、必定」
ところで二人ともが少欲知足、世人にくらべれば欲望はかなり少なくても足りるを知るほうだった。それだけに冷静に、戦国の世なればこその、欲ぶかき人間をばいやというほど見てきていた。
欲をいったんは満たしたと笑むが、新たにうまれたより大きな欲に惑(まど)い堕ちゆくガキそのものの姿を。やがては身をほろぼす、哀れな餓鬼道のひとびどをだ。
欲望とは、いかにも人間を駆りたて突きうごかす源の力ともなろうが、すぎると、身を炭にするまで焼きつくす鬼火にもなると、身に沁みて知悉していたのである。
「欲強きものならば、主がだれであるかではなく、じぶんを重用し加増してくれることを第一義にかんがえ、その主につかえます」
ひとりやふたりが、欲深さのゆえに向後たとえ裏切ったとしても、かれらはまだ若年ゆえおおきな脅威にはならないだろうとも、ふんでいる。それで当面、対策や処置にまではその必要をかんじなかった、
そんな側面もすでに計算ずくであった、善悪あわせもって。
だから、杞憂に労力の無駄づかいをするよりも、かれらの成長以上に羽柴家の勢力を拡充させていく。そうすれば、造反者などでるはずないとの算段だった。事実、十六年が間はそのとおりになるのだ。が、
ただ十七年後、竹中半兵衛の機智により命を救われた、嫡男の長政がまさか、豊家分断のその核になろうとは…。
して、秀吉子飼いで武断派と称されるかれらが、愚かにもその先どうなるかもかんがえずに感情のまま対立をおこし、戦の因をつくるとまでは名軍師も、さすがに読みきれなかったのである。
だが今は、そんなさきの話、どころではない。
官兵衛は、ひとの習いにしたがい、利と理にもとづいていけば、それを核とし、エネルギーはそこに集約されていくとみている。ひとは保全のために力あるものを頼り、より添いたい生きものなのだと。
つまり、羽柴家が力を増幅できるはずと信じ、具体論としてつづけた。
「また、恩をしるものならば、出世させてくれたものが誰であれ、そのものに忠義をつくしましょう」
だから、過誤なく論功行賞をすれば、このあとも羽柴家は安泰、なだけでなくやがては、天下をとれるはずというのである。
こうして、
談合の当初、瞳の光彩いかにもよわく、眉間には深いしわがより、世事の難問いっさいを、一身に背負ったふうであった秀長だったが、いまはまるで別人のよう。
官兵衛の立案に眉はおおきく開き、軍師の手をつよく握ったのである。はからずもでた感謝のあらわれであった。
「さすがでござる。いやはや、お見事!」初恋がみのった少年のように、おもわず破願した。
「軍師のいわれるがままに。で、責任はこの秀長がうけるとしましょう」これ以上の案などありえないと判断し、大成の風格でいったのである。