秀吉の遺徳をたたえ、慰霊と追善のための寺社造営を秀頼親子に推奨(豊家の戦費ともなりうる蓄財を大幅に減少させるのが目的)していたのだが、そのうちのひとつ、1614年、豊臣家が再建した方広寺の梵鐘に、それはかくれていたのである。

のちに“鐘銘事件”と称される、梵鐘にしるされたその一部、“国家安康”と“君臣豊楽”というたった八文字にいちゃもんを、無理やりつけることができたのだ。これが、大義名分である。

いわく、“家康”を“安”の字で分断したのは、身の切断をねがう呪詛であると。このような言いがかり的抗議をし、さらに“君臣豊楽”においては、豊臣の繁栄をねがう文言だ、ときめつけたのだ。

自家の繁栄をねがってなにが悪いのか、理解にくるしむが。

つまり難癖でしかないのだが、むろんケンカをうる口実として利用したのである。

それにしても家康、高齢のゆえに、あせっていたにちがいない。目の黒いうちに、根こそぎ消しさらねばならないと。二代目将軍にすえた秀忠では、“荷がおもすぎる”と、そう考えたのだ。

理由だが、十一年前にさかのぼらねばならない。

“天下わけめ”の開戦前夜、江戸を発したのち、別働隊として上杉勢ににらみをきかせつつ、信濃一帯を傘下におさめておいて、そののち,関ヶ原へとむかう目算であった。

初戦として、東軍側から西軍へ寝返った真田本家に、眼にもの見せんとしたのだ(第二次上田合戦)。

ニ・三日で片がつくはずだった。ところが、十倍以上の圧倒的兵力にもかかわらず、真田昌幸ひきいる約三千に手こずり、けっか、関が原に参戦できなかったのである。遅刻のせいで、東軍が敗北していたかもしれないのだ。

ちなみに、東西の陣だてをみたドイツの将は、西軍が勝ったはずと自信をもってこたえたという。

ひとえに、小早川や脇坂家・朽木家をうらぎらせた家康の周到さが、三成より数倍うえだったということだ。

それはそれであって、参陣できずの大失態のゆえに、秀忠の評価を低くしていたからだった。

長男信康亡きあとの三男秀忠(ちなみに秀吉の命名により、その一字だけでなく、豊臣姓までも付与されている)ではあったが、最悪のばあい、後継者候補からはずされる可能性すらあったとの話は有名だ。

それはいいとして、猜疑心がつよく慎重居士でもある家康のこと、秀頼への脅威をかんじたのは二条城での再会直後、ではなかっただろうとボクは思う。

いよいよ会見がせまったその段階となって、秀頼という存在にたいしなんらかの思索をしはじめた。直後かそれとも以前か、たいした違いではないだろうが、以前の可能性のほうがつよいとみるべきではないか。

それまでは徳川体制の確立に日夜、余念がないほどに家康は、忙殺されていたにちがいない。政権を手放さざるをえなかった豊家の二の舞だけは、演じまいと必死であった。

その最大の施策が、1605年の、秀忠への将軍職移譲だった。秀吉との約束を反故にし、豊臣にはけっして実権をわたさないぞと、天下にむけ檄をとばした、つまり宣言をしたからである。

しかしじつは移譲後も、実権は秀忠にはなく、家康が駿府城にてにぎっていたのだ。禁中並公家諸法度や武家諸法度の制定に代表される、いわゆる、大御所政治である。

だがそのまえに大御所政治の前段階、1603年の征夷大将軍となる以前からとりくんでいた家康の事業についてのべねばなるまい。

関東への移封後、手始めの江戸と近郊の整備がそれだ。具体的には、大規模な埋め立てや治水工事および街づくり、および範囲もひろげていった開墾や灌漑工事などである。

関ヶ原以降も巨大プロジェクトを進行させ、それと並行しつつ、以下は大御所政治であるが、李氏朝鮮との国交回復(文禄・慶長の役の戦後処理)、オランダとの交易の許可、キリスト教にたいする禁教方針の決定、御三家の確立などなど。

そして豊家ならびに、とくに西国外様大名にたいする備え、だ。関が原直後からそれはなされていった。

具体的には国がえである。井伊直政を現滋賀県北東部(彦根城築城は直政の死後)に据え、また家康の次女をめとった池田輝政には、堅牢な姫路城でもって睨みをきかせた(とくに豊家の地盤である、京・大坂を挟みこむためでもあった)、等々。

くわえて、人事や姻戚関係の構築による幕藩体制の強化等がそれだ。

どうじに、豊臣の所領を三分の一以下に減封したのである。また秀吉への追善供養のためと称し寺院の改装や構築をすすめ、蓄財を浪費させるなどの策も講じ、これで力をおとろえさせたと満足、秀頼については思慮する必要性すらかんじないまま、日々忙殺されていたのである。

そんななかで、七年ぶりの再会を機に、無視してきた秀頼という存在をこれからは注視すべしと。

最大の理由はやはり、秀頼が発していた、今でいうオーラである。くわえての、落陽まぢかと旭日の勢いという年齢の落差、鏡に映さずともわかる加齢とおとろえに、湧きいずる恐れをいだいたからであろう。

ならば、どうすべきか?と、当然ながら。で、脅威はのぞくべしと即断したのだ。

その結論だが、豊家には最悪の、清正たちによる和解のその破棄をめざすのではなく、破壊を画策したのである。豊家の完全なる消滅こそが、最大の安全策だからだ。

そしてこれも史実。世紀の会見のあとの清正だが、帰国とちゅうの船上にて発病し、約一カ月ののち、回復することなく死亡したのである。