この大名は桓武平氏(桓武天皇の子孫)の流れをくみ、平安時代からつづく、いわゆる名門というやつだ。でもって、桓武平氏にかんたんな注釈をするならば、代表する人物としては大河ドラマの主役ともなった平将門であり、平安末期の清盛であろう。

ところでの話、名門といえども、時のながれには抗うことができず、

そしておとずれた戦国時代真っ只なかの1540年のこと、当主小早川興景は、しかけた城攻めのさなか急な発病により死亡したのである。だけなら問題はさほどではないのだが、この武将には、若かったせいか後継ぎの男子がいなかった。

となるとこのままでは最悪、お家は断絶、家臣も流浪の身という憂き目に。

さけねばと家臣団は協議をかさねた。そしてようやく、関係のふかい大名に話をもちかけることに決したのだった。つまるところ、

現中国地方の覇者、毛利元就の三男徳寿丸が乞われ、養子として、八歳で小早川家の後継者に据えられたのである。推定ではあるが十五歳で元服すると小早川隆景と称しやがて知将として、毛利家をもささえつづけたのだった。

しかし側室をもたなかったためか、かれにも実子ができず、諸般の事情により死の三年前に、二人目の養子をむかえることとなった。

それがのちの小早川秀秋(秀詮)である。そう、後世にまでもかたりつがれる、裏切り者の代名詞となった愚物だ。

ちなみに隆景は1579年、三十四歳下の異母弟をすでに養子にしていた。

さてこの、のちに秀包(かね)と名乗る(改名時は十六歳)年のはなれた弟は、有能なわかき武将として秀吉の寵愛をうけ、やがて独立大名に取りたてられたのである。

さあさあ、面白きはここからで、

こは、これこそは、歴史のイタズラとでもいうべきか。

つまり、秀吉が“良かれ”との行動をおこさなければ、豊家はながく続いたかもしれない、からだ。

換言すると、秀包がそのまま小早川家を継いでいたとすれば、くわうるに“良かれ”のぶんの加増がなされていれば、いやされていなくともだが、九分九厘、江戸が東京となることはなかったであろうと云々。

なぜ?とならば…、おそらく家康のほうの首が、三条河原に晒されていたであろうから。そうなれば、江戸が大規模な埋め立てや同様の都市整備などで、巨大化することはなかった。

えっ?唐突に、なにを意味不明なことを…、であろう。では、補足を少々。

というのも、秀吉恩顧で戦上手(戦勝の数いちじるしい)の秀包。史実では小大名として大阪城の守備についたのだが、信義の兄隆景のあと、小早川の当主として約一万五千の軍勢をもってもし参陣していたならば、関ヶ原にて、ここが秀秋とは逆なのだが、徳川軍をまっさきに蹴散らしたであろうからだ。

なにせ秀包は、恩義を重んじる情誼の人であった。

ああ、またもや過去に、“たられば”をしでかした…。

で、ボクに代わりこれいじょう仮想をつづけたい向きは、人物秀包を調べていただければ、ボクが言わんとした具体を、想像することもむずかしくはないとおもう。

ところで裏切りの件、いまはおくとして、小早川家をついだ秀秋ではあったが、かれもまた世継ぎをもうけないまま、数え二十一歳で早世してしまう。

よって1602年、無嗣(むし)(後継ぎがいない)を理由に取り潰された、とされている。“されている”との表現には、含みをもたせる意図があってのこと。それはおいおいとして、

無嗣改易のさた、家康が征夷大将軍になる一年前だというのにだ。

つまりすでに趨勢は、徳川の世だったからであろう。背景には、武力の格差が。具体的にいうと、五十万石ていどの大名が徳川家にさからえば、家臣たちまでもが壊滅させられてしまうと。

ところで若死にだが、信長の四男で数え十七歳で病死した羽柴於次秀勝(秀吉の養子になった、既述)のように病弱(既述)だった、との説はきかない。

他方、日ごろから酒量はおおかったとする説は、耳にしたことがある。それを証拠づけるような文献も、のこっている。 だけでなく医師の曲直瀬玄朔(まなせげんさく)が、数えで十九歳時(死の二年前)の秀秋を診察したその所見などを記録した「医学天正記」までもが存在…。いうなればカルテともいえるそれをみるに、黄疸(おうだん)が出、肝の臓は固くなっていたとのこと。なるほど、肝硬変をうたがうに足る症状だ。