ちなみに曲直瀬玄朔は、重篤だったり危篤状態となったふたりの天皇や重病の毛利輝元(元就の孫)を完治させるなど、名医の誉れたかい漢方医であり、秀吉や徳川秀忠などからも重用されていた。
ところで病因は秀秋の飲酒癖によるのだが、叔母であり秀吉の正室でもあるねねの、頭痛のタネであったとも。
悪癖は、ねねが養育していた時期(1585年から約九年間)からであろうし、だとしたら、今日ではかんがえられないことだが、満で十一歳前後より酒浸りであったことになる(生誕は1582年で、小早川家の養子となったのは1594年。ただし、飲酒開始年齢はあくまでも推測)。
なるほど、たしかに若すぎる肝臓は、アルコールを分解するに臓器自体の大きさもふくめ、成育度においてまだ不充分である。ゆえに負担はかなりだ。そのぶん肝臓を痛めてしまい、疾患の因ともなろう。
大正十一年にいたり、二十歳未満の飲酒を法令で禁止(非行防止のためでもあった)するのだが、その医学的根拠をここにもとめているようである。
“よう”、と表現したのはあたり前のことで、個人差があるからだ。また昭和期までは、高校卒業後であれば飲酒には寛大であった、暴力をふくむ犯罪行為や不健康な飲みっぷりなど、問題をおこさないかぎりにおいてだが。
ついでなので、肝機能のひとつであるアルコールの分解について、科学的な概説をさせていただく。
アルコールを分解しやがて無毒化するに必要となるのは、まずはアルコール脱水素酵素、ついで、アセトアルデヒド(アルコール分解後にできる物質で毒素の一種。二日酔いなどの因)脱水素酵素、およそこのふたつである。
でようやく、この二種類のおかげで弱酸性の無害な酢酸へと、化学的変化がなされるのだ。
そして最終的にアルコールを、水および炭酸ガスへとかえられるかは、その化学反応の速度をもふくめ、肝臓内での両酵素の量(ゼロの場合もある)によるのである。
だから人それぞれ、うけつけが可能となる飲酒量の差も、また日本人に5パーセントほど存在するとされる下戸(げこ)も、持って生まれたものなのだ。酒量において個人差があり、医師いわく、正真正銘の下戸をきたえて酒飲みにせんとのお節介は、よって傷害罪にひとしいと。
ちなみに両酵素を有しない体質は、民俗学的に日本人だけ、らしい。
脱線ついでと甘えさせてもらう。
秀秋の、血液検査をふくむデータなど当然だがあろうはずもない。ならば以下、推定するしかないのだが、まずは飲酒歴。せいぜい十年ていどであったろう。長いとはいえない。
通常、悪化の一途をたどる非代償性、つまりは不可逆的肝硬変にいたるまでには、すくなくみても十数年か、それいじょうの飲酒歴を要する。
卑近な例でもうしわけないが、ボクの祖父は十代後半から深酒を茶飯事としていたと本人。だが、還暦をむかえてもそれでも肝硬変にはならなかった。歴が四十年越え、でもだ。
つまり個人差はあるが、医学的データからみておおむね、中年以降におきる病変なのである。
なるほど秀秋は、たしかにわが祖父よりわかく、というより幼くして飲酒に耽溺(不健全にふける、おぼれる)してきたようで、そのぶん肝臓への負担はおおきかったであろうが。
さらなる余談。