何やらいわくありげな死ゆえに、江戸期からのウワサ、毒殺だったとの説をとる(理由は後述する)として、おそらくは遅効性のヒ素による中毒症であったろう。
文献にある病状(高熱・不整脈・皮膚の黒色化・おそらくは意識混濁など)も、ヒ素服用後の症状とおおむね一致しているからだ。
発病後に脈をとった医師の診察(一部にある梅毒説をボクは否定する)の所見では、“しだいに病重くなり、舌不自由にして”と。言語障害は、意識混濁のせいとみてとれる。
そして死の数日前、「嫡男を守り立てよ」とのかんたんな遺言をのこしてはいるが、にもかかわらず辞世はない。清正ほどならする当然の儀式をおこたったのも、意識が混濁していたからではないか。
ちなみに秀吉の影武者も家康も、その辞世は有名だ。
また“熱を病みて卒(しゅっ)す(死亡)”との文献から、高熱がつづいたにちがいない。ほか、“脈よろしからず”とも。ヒ素中毒は低血圧を誘発し、けっか、不整脈となる。
さらには皮膚が黒く変色していた旨も【清正記】に。ヒ素中毒死だったならば末梢血管障害が原因のチアノーゼにより皮膚が、日照をひかえていたであろう病床では青紫色(チアノーゼによる変色)ではなく、黒色にみえたともかんがえられる。あるいは肝障害(これもヒ素中毒の症状)をおこしていれば、どす黒く変色してみえたとしても不思議はない。
ただ侍医の江村専斉はお抱えにもかかわらず、診察の結果をのこしていないもよう。文献が見あたらないからだ。
憶測するに、近しいからこそ後世をはばかり、故意をもって記さなかった、さらにいえばひとかどの人物とみていただけに、名誉を傷つけたくなかったのかもしれない。約ひと月、よほどの苦しみようだったとすれば、みるに忍びなかっただろうし。
というのも、ヒ素中毒がもたらす症状をあえてあげるならば、泌尿器の焼けるような痛み、精神障害、呼吸困難、肝臓をふくむ多臓器不全による嘔吐、はげしい腹痛と頭痛などである。
なるほど、恐ろしいかぎりだ。人情から、書きのこせなかったとしても不思議はない。
さて、その毒殺のやりくちとしてだが、家康いわく、京から肥後までは長旅であることもふくめ、「清正殿、なにかと気苦労もござったであろう。ならば健やかさを保つには、この薬をのむにかぎる」と勧めた…か、あるいは信頼できる家康私設の薬師(くすし)(現行の医師や薬剤師)を帯同させた、のではなかろうか。
これの傍証に値するか、御三家である水戸藩に、二条城での首脳会談ののち、だされた毒入り饅頭が原因で、清正は死んだ(趣旨)との資料が、信頼するかはその人しだいだが存在はしているのだ。
これらから、動機だけでなく、アリバイ的にも、また心証も状況証拠も、クロに近いとボクはおもう。よって家康にたいし、つよい疑惑をもたざるをえないのだ。
ぎゃくに、家康を亡き者にせんと謀ったとされる人物が複数いた。加賀藩二代当主の前田利長もそのひとりである。
これに信憑性がある理由として、浅野長政・大野治長(豊臣家の家臣)らが連座で、他藩へお預けの身という厳しい処分をうけているからだ。
その前田利長にかんしても、手段や事情はちがうが、老獪ダヌキは得意とする手をつかったのである。
利長の父で家康と同格の豊臣政権五大老のひとり、その利家が、関ヶ原の合戦の前年に死去したのだが、それで策謀が可能となった。
とはどんなやり口、いかなる理由で?
前田家が、徳川家領内に攻め入ろうとしているとの流言飛語を、家康はまず、世に撒きちらした。いわれなきの類(たぐい)である。
いっぽうの前田家は、利長の交戦派と回避派で対立。そんな困惑ぶりをみすかすと、つぎに「徳川が大名どもをしたがえ、防衛のために攻めこむ手はずをととのえている」とのウワサを、間者をつかい追加で流したのである。
利家が存命ならば、こんな茶番など粉砕したであろう。だが、戦国乱世における何でもありの、そんな謀略や暗躍に不慣れなボンボン利長は、うろたえた。
どころか、大大名の前田家にもかかわらずビビリまくった。白旗をたかく掲げるがごとく、恭順の意をあらわしたのである。到底勝ち目がないとおもったのだ。
ために母の芳春院(まつ)は、恭順の証しである人質として、江戸にくだっていった。
こうして前田家はいとも簡単に、度しがたい古ダヌキに屈したのだ。関ヶ原において、東軍につかざるをえなかったのである。
そうではあるのだが、
ただ、前田家の良心を垣間見ることもできる。利長の弟利政が、西軍に属したからだ。
おかげで改易させられたのだが。ただしこれには、べつの説もある。東西のどちらが勝っても、前田家の存続が可能となる。
また真田家も分断をしたのだが、穿(うが)つむきは、権謀術数にたけた昌幸が自己防衛をはかったのではととらえている。
ちなみに当時の当主だった真田昌幸は、弱肉強食といわれればそれまでだが、領地のことで煮え湯をのませた家康をにくんでいた。対照的に、所領を安堵してくれたのは秀吉であった。で、恩義もあり、また勝ち馬にのれるだろうと、豊家に加担したのである。
いっぽうで嫡男の信之はすでに、本多忠勝の娘で家康かあるいは秀忠の養女でもある小松姫を正室にしていた。よって、徳川につかざるをえなかった、との見方もできる。そういえば大坂の陣で豊臣に与した弟の信繁(=幸村)は、大谷刑部の娘を正室にむかえていた。
愛情のゆえか兄弟はともに、妻の実家(刑部は関が原にて自刃し、のち改易されているが)に斟酌をし、そちらについたのではとの説も。
当節では、後者とするほうが有力である。
いずれにしろだが、戦国乱世を生き抜くというのは、それほどに並大抵ではなかったということだ。
群雄割拠の大大名ですら、そのほとんどが没落したことからもわかる。
今川家、武田家、後北条家(一万石余の弱小大名に)、織田家(信長の子息が大名として生き残ったが、影響力などはみる影もない)、長宗我部家、豊臣家などがそうだ。
また、上杉家、そして毛利家や島津家も、最大だったかつての領地とは比すべくもないほどに押し込められてしまったのである。
なれど、これらはおくとして、豊臣への恩義をうらぎらせた徳川、であったにもかかわらずその後、問答無用の改易(領地没収など)を無慈悲にもおこなっている。あとでのべる福島正則は、憂き目にあったその代表格だ。
しかし、その正則より酷い目にあった大名が存在した。小早川家である。