察せられるはまず、豊臣の主秀吉と豊臣至上主義者の三成への、遺恨なればこそと。もしそうならば忘恩であり、かつ意趣返しにいたっては、幼稚そのものとしかいいようがないが。

さらには、叔母であり育ての母でもあるねね(高台院)が、糟糠の妻として藤吉郎時代からともに苦労して造りあげてきた豊家。それを掠(かす)めつつ牛耳った淀(茶々、信長のめいにあたる)をゆるせず、金吾(秀秋の官職名)や虎之助(清正の幼名)、市松(正則)たち子飼いの武将にむけ、「家康殿にお味方するべし」とそそのかしたため、との説も…。通説として、有名である。

なるほど、単なる説にすぎない。だが大作家である司馬遼太郎が、これを拠(よ)るべに執筆をしている。だからではないが、ありえない暴説だと、無視まではできないだろう。

ちなみに、家康に親近してはいなかったとする異説もむろんある。それは一次史料(当事者がその時々にしるした文書など。ただし、かならずしも信頼性と直結はしないが)とされる“梵舜日記”、および関ヶ原前後の、高台院とその側近の言動にも拠るのだが、詳細は、長くなるので省く。

ただしこの説に拠ると、淀との確執はなかったらしいとなる。

さて、北政所と淀が不仲だったのかそうではなかったのかだが、どちらともとれると言っておこう。ふたりの関係性をしめす信頼にたる文献を、みつけることが困難だからである。

どちらのばあいであれ、武闘派武将らを幼少のころより親身以上に育てていたねねを冷遇すれば、徳川のほうこそ血まみれになるであろうと、家康はかんがえたに違いない。

また、高台院と徳川との関係だが、いぜんは人質の立場として大坂城にて居住した秀忠を、北政所は手厚く遇していた。過去のそんな恩義に報いるため、二代目は物心両面で大切にあつかっている。

ちなみにだが、信長からの厚遇をうけた宣教師ルイス・フロイスは日本史のなかで、「依頼したことに応じてくれる北政所」だとして、“女王”としるしている。だとしても、秀吉存命までの権力であったとみるべきだろうが。

いずれにしろ問題なのは、秀吉没後の、正室と側室の関係性としたが、豊家にとってそれ以上に問題なのは、豊臣を、高台院が死ぬ気で護ろうとまではしていないさまだ。ボクには、そうとしか見えない。

「自分の目の黒いうちはなんとしてでも」との執念があれば、清正や正則などの子飼いにたいし、徳川に加担しないよう必死で説いたであろう。

「嫌悪する三成側に付きなさいはムリ」と承知しているが、しかしせめて、「天下分け目の戦が傍観しなさい」と説得することはできたはず。

それとも家康の、この美学のかけらもない古ダヌキの魂胆が見えなかったのか?

いや、そうはおもえない。戦国時代の女性のなかで、随一の器量だったとの史家の評価に、まちがいはないと見る。

だからこそ、周囲の反対をおしきって、どこの馬の骨ともしれぬしかもブ男と夫婦となり、紆余曲折のすえ、縁の下でついには、天下人へとおしあげる、その支え以上の存在となれたのだ。

糟糠の妻の代表である。この名にあたいする女性が、史上、ほかにいるだろうか。もし欠けること一つあるとすれば、二人で子をなせなかった、くらいだ。

それほどの女性なのだ、とは、穿ちすぎであろうか。

だとしても確信をもっていえるのは、下級といわれている身から、偶然や運だけで、天下人の妻となれるはずもないということだ。