お人好しでたよりなさげな粗忽者の四十路(四十歳を不惑というらしいと、母が「あんたもそろそろ不惑なんやから、もっとしっかりしてえや!」と、いつもお灸をすえているのを、当時なんどもきいて推測した)すこしまえの父を、反面教師にしろということらしい。

十一歳のボクにたいして、母は茶飯事、むずかしい言葉をつかった。すべての家事をこなしながらパートにもでるので、生活のなかで時間を有効に活用し、ボクに勉強させているのだった。

だから、くつろげるはずの家にあって、むずかしい言葉がいつも氾濫していた。機嫌のよいときは意味をおしえてくれるが、そうでもないときは「辞書をひいておぼえなさい」と、それはにべもない。

ほかの同級生よりはやく、漢字表記の五月蝿いとか、ほかに不惑・反面教師などの言葉をしったのは、母の日ごろの訓育によってだ。

ところで、またもやらかした父親ゆずりの粗忽。「一喜一憂ってなに?」とうっかり。母が小言をいっているときは機嫌がわるい、だから訊いてはいけなかったのに。

すでに、叱りつけ段階に足を一歩、踏みいれていたからだ。「わからなかったら、じぶんで調べなさい。そのために辞書があるんでしょう」と。標準語にかわっていたから、まちがいなかった。

しかも恐怖に背筋が凍る、叱責のボルテージがさらに上がったことを、眉と目の色がしめしていたのに。だが、“とき、すでに遅し”だった。

いままでのボクの不行状をさんざんあげつらい、最後に「いつもいつも、ひとをあてにしないの、いーい、わかった!」との、きびしい叱声がとんできたのだ。

夏休みの二日前だった。母の異変がこのときすでにはじまっていたことを、ボクはまだ知らなかった。

平日だった前日、父と母が外出先からかえってきたおり、深刻な顔をしていたことと関係していたとは、迂闊にもこのときは気づかなかったのである。

尖った声と三角形の目。それがとくに強烈だった、真夏の一カ月と余。母親とは、羅刹(鬼)なのか菩薩なのか?わからなくなっていた時期である。

それはともかく、タイガース(往時は大阪タイガースという球団名だった)が存在し、秀吉が商都としての基盤と方向性をきずいた大阪が_好っきやねん_生まれそだった、この、性急な性分のひとたちが氾濫し、本音のぶつかり合う喧騒なまちが_好っきやねん_たとえ緑がすくなく、またゴミゴミした旧都であっても_ええねん、それでも_