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こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 太閤記を読むきっかけなど(4)

ふだんの父は、母の手料理をほおばりながら、美味そうにアサヒビールを飲みほしている。「大阪の人間なら、やっぱ、麦酒(びーる)はアサヒやで」だそうな。

ことに今年は満面の笑みで、「タイガース、強すぎやで。相手投手を粉砕しての勝利に乾杯!」と、母を尻目に、ことのほか美味とのこと。

あまりに美味しそうなので、せがんで一度飲ませてもらった。おおきかった期待は、「うえっ」とて、すぐに裏切られた。_苦っ!こんなもんがなんでウマいねん!_口にふくんだまま後悔しつつトイレにはしった。

そして吐きだしながらおもった、お父んの味覚は狂ってると。_冷えた麦茶のほうが美味いにきまっとるやんけ_

そういえばあの夜。前日の勝利につづき宿敵に勝利した翌夜の、バース・掛布・岡田のバックスクリーンへの三連発(三者連続ホームランのこと)。

父は、のみ干したその手でグラスに注いでは「プッハ―」、ご満悦だった。1985年四月十七日、甲子園球場での歴史的快挙のことだ。

 

それはさておき、二年ほどまえからだが、勝った翌日の夕飯前、嬉々として宿題にのぞんだボク。

それを母は、うしろからギュッと抱きしめたりした。家族三人だけの、しかも家のなかだから、父以外にみられる心配はないが、それでも恥ずかしいからやめてほしかったのだった。

日曜日のデイゲームに勝った日には、母も機嫌がよかった。その日の午後五時台から、月曜日、火曜日の夕飯前まで、ボクが机にむかう時間が長くなるからだ。自然、おやつの量がふえたり、果物を奮発してくれたり、となった。

「勉強に集中しているときの横顔、ほんま、ステキやで。惚れてもええか」と宣う。

_さすが、大阪のオバちゃんや、ただ褒めるだけではすまさへん_

というわけで母は、いかにも幸せにみちた顔になった。

「けどほんまのこと言(ゆ)うたら、たかが野球ごときで一喜一憂してほしゅうないねん、お父ちゃんみたいに。あのひとはもう言(ゆ)うても治らんさかい諦めてるけど、おとこはどしっとして、ちっちゃなことで、気持ちがふらついたらあかん!」

まだまだ子どものボクに、こんな叱咤をすることもあり、そのあとは決まって、

「あんたも、すきな秀吉みたいに大成したいやろ」と、ひとりっ子のボクに多大な期待をよせる、過分な言でしめくくるのだった。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 太閤記を読むきっかけなど(3)

ところでもうひとつ、父からの影響がある。阪神タイガースの大のファンになったことだ。がこれについても、母はけっこうイヤがっている。

勝った負けたと「おとこどもがいちいち五月(うる)蝿(さ)い!」、らしい。

それでもおかまいなしで、二連勝でもしようものなら、父子はお祭りさわぎとなる。そんな日の母は、あきらめて耳栓をしている。ことに、暑い夏場はそれでなくてもまいるのにと、常々こぼしている。

ちなみに母の、横にひろがった体型こそ「暑苦しい」とは、恐ろしくて、もはや、だれも口にできないでいる。すでに、なさけ容赦ない報復を、二度も経験していたからだ。

しかしあの夏は、すこし痩せてきたようにも見うけられた。

いつもはとても陽気な母が、もの憂い顔でテーブルに両肘をつき、左右の手をくんでそのうえに顎をのせ、ため息をついていることが幾度となくあった。涙にぬれた頬を見かけたことも。

_お父(と)んとケンカしたんか?いやいや、ケンカして泣くようなお母(か)んやない。泣くとしたら、それはお父んのほうや。典型的な大阪のオバはんが口ゲンカで負けるはずないし、泣くはずもない_

このときの、母らしからぬ変化の理由をおしえられたのは、一カ月くらいのちのことだった。

おおきく重すぎる苦悩が、変貌の根底にあったのだ。

苦衷だが、過去のものとして解消したとはいえ、それでもはじめてきいたときは、十一歳にはつよい衝撃であった。一年をへることなく、癒えはしたのだが。

ところで前述の、母親の体型についての云々だが、“それを言っちゃあお終(しま)い”で、以前ボクが二度だけ軽口をたたいたことがあり、その都度の夕食において、おもいだすのも忌わしい報復をされたのだった。

それはきまって、“ダイエット”と称しての野菜づくしであった。

不本意にも、俄(にわ)かベジタリアンに仕立てあげられたのだ。

父子ともにキラいな人参・レタス・ピーマン・セロリ・パセリ・オニオンスライスを、マヨネーズやドレッシングは「カロリーが高いからダメ!」ということで、ゆるされた調味料は塩だけであった。

ついで、追いうちをかけるように、「野菜それぞれの持ち味を堪能しなさい」と宣(のたま)った。

ふたりとも、その持ち味自体を大の苦手としているのに、だ。

これはまさに、“精進料理”どころではなかった。ご飯をたべるのに、ふりかけすらも、地獄の獄卒(悪鬼)のごとき形相でもって、みとめてくれなかったのだ。

「二度と口には……」と涙目で。二重の意味での、心底からの後悔をこめた訴えだった。

このとき一層あわれだったのは、父であった。すきなビールすら飲ませてもらえなかったからだ。父親という立場のせいで、連帯責任をとらされたのだ。それとも、夫婦にしかわからない事情があったのかもしれない。

_いやはや、早速やってもた。ごめんなさい、はなしが横道にそれてしもて。粗忽(そそっかしい)なボクの、わるい性癖や_《三つ子の魂百まで》で、父親ゆずりは治らない。閑話休題。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 太閤記を読むきっかけなど(2)

さて、とはいえ、まだ少年にすぎなかったボクは、年相応の知識をもとにした好悪(すききらい)によっていた。というよりたぶんに、父親からの影響のほうがおおきかった。

影響といえば、厚ぼったい一重まぶたとタレ目、それに貧相なまゆ毛は父親からの賜わりもの、いわゆる遺伝というやつで、母親からは、とおった鼻筋とやや厚めのくちびるが、である。

まあ、どうでもいいのだが。残念なはなし、ブ男の代表、ということだ。

その母も1949年生まれの浪速っ子なのだが、ボクら男どもにくらべ、太閤ずきでもなかった。いや、むしろきらっているふうだ。

あるときわけを訊いたら、“血塗(ぬ)られている”からと一言、むずかしい表現でかえしてきたのだった。

そのとき、ゾッとしたとの記憶が鮮明にのこっている。キツい言葉のためというよりむしろ、母の表情のせいだ。

1973年うまれの小学生だったボクには、母のいわんとする意味がわからなかった。ただ、悲しげな風情は、じゅうぶんにみてとれた。

しかし、_戦国武将ならだれもが“血塗られている”_わけで、太閤秀吉だけが特別とはおもえなかった。それで、そんな表情をする理由に首をかしげながら、意味をたずねた。

数秒の沈思ののち、「あんたがわかるようになったら、血のいみ、そんとき教えたげる」それだけいうと背をむけ、洗いものをはじめたのだった。

たしか、小六になってまもない晩春の宵のことであった。_それって、いつのことを指すん?大人になったらってことなん?_おもったが、そのときはなんとなく聞きそびれてしまった。

だが「わかるようになったら」は、意外にも早くやってきたのだ。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 太閤記を読むきっかけなど(1)

 

思いおこせばいまから十八年前。

1985年のあの夏、タイガースもそしてファンも燃えに燃えた、焼けるように暑く、そして熱い日々のことであった。

ボクはしかし…、

 

親子二代、大阪うまれで大阪そだちの父とボク。当時は、太閤秀吉が大すきだった。

 

ところで巻頭早々、この“だった”と過去形にしたのには、甚深?の理由が、じつはある。この私小説のメインテーマとつうておりじ、そもそも執筆の動機だからである。

百姓の出とされる日吉丸(出自も幼名も不確実)が成長し、信長につかえていた時期のかれと、豊臣秀吉と称するころの人格、そこにはとてつもない落差が存在し、おなじ人物なのに”なぜ”、との素朴な疑問に悩み、大げさにいえば支配されつづけることに。

それにしても当時のボクだが、秀吉の人格に、落差があるという事実をしった。そこには経緯(いきさつ)もあり、まあそれで筆者なりに試行錯誤をへながらも、落差のナゾを解明するつもりでいるのだ。

……信長横死直後までは、折衝(このばあいは、敵軍の一部をねらっての懐柔や取りこみ工作)により戦闘能力や意欲をそぐなどして、藤吉郎=秀吉は無益な殺生をできるだけさけてきた。

一例だが、伝説の墨俣一夜城築城は敵の士気をくじく効果も得るため。またべつの例として、ことに備中高松城の水攻めにみられる、できるだけひとを殺さずの勝利を、希(こいねが)っていた人物であったと。

そうとばかりは言えないでしょうとの反論もあろう。見せしめのためとはいえ、女子供まで惨死させている史実はたしかにあるからだ。

懐柔におうじなかった敵にたいし、日の本の安寧がいまだみえてこない戦国期において、断固たる戦闘意思をしめすひつようがあったのではないだろうか。いわゆる、必要悪と解せよう。

だが、天下人となった豊臣秀吉においては、必要性のない、朝鮮半島への二度の出兵を最悪とする、殺戮に血道をあげたのだった。(ここまでは概略として。で、閑話休題)

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