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こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(67)

さてその、前関白豊臣秀次一族惨殺の歴史的意味あいを史家は、まちがいなく、豊臣政権の屋台骨をよわらせる愚行であったと。

そのうえでおもう。本物の秀吉であったれば、つまり、聡明でこれほど先をよめる人物ならばまず、姉(日秀)の子という数すくない血縁者をころす愚をせず、それでいて、秀吉自身がえらんだ後継者からははずす方法をとったにちがいないと云々。

なんといっても、肉親なのだ。また赤子のころから面倒をみてきた、妻の甥でもある。

その秀次は武にも智においても、たしかに、一級品との評価はさすがにお世辞にも。

だからこそ、じぶんの死後において、秀頼との権力抗争にならないようにすればよいだけのこと。太閤秀吉ならば、それだけの権力はむろんのこと、知恵もあったはずだ。しかも、さほど難しい手だてはいらない。

秀次が野望をいだけないていどにかれの領地を減封し、やがては天下をうかがうであろう徳川領のちかく、その西側(たとえば現静岡県の沼津あたり)に移封すれば、そして太閤の息のかかった誠実な譜代大名を三人ほど、その周辺に移封しつつそなえておけば、豊臣政権存続の完璧な布石となったにちがいない。

それでも心配ならば、秀次の側近をまずは全員放逐させ、そのかわりとなる有能な家臣を家老として数人、大坂から送りこみ監視役としてかためておけば、もはや秀次には、拾丸(ひろいまる)(のちの秀頼)をまもることで生きていくしか、方途がなくなるではないか。

 しかし影武者には、一族をまもろうとの情愛など、かけらもなかった。血肉は羽柴でも、そだちも心も別で生きつづけてきた“他人”であった。だから、秀次とその眷属(けんぞく)もろとも、かんたん無慈悲に惨殺できたのだ。

 さらにだが、無謀なくわだてであった朝鮮出兵などしていなければ、ほぼまちがいなく、関ヶ原の合戦はおこらなかった、そう断言してもよい。

既述したとおり、朝鮮出兵が原因で、石田三成らの文治派と加藤・福島ら武断派間に、ぬきさしならぬ軋轢が生じたのだから。

つまり影が、国内平定で満足していれば、両者の対立が激化する理由もなかったわけで、そうなれば天下をわけた戦乱は、日本史上にその名をのこすことなく、家康は野望をもったまま、無聊として手をこまねいているしかなかったはず、だった。

関ヶ原の合戦というのは、くどいが、外地で命をかけた武断派と内地で後方支援にあたった文治派(小西行長は出兵の軍に加わっていたが)の、あくまでも豊臣政権における内部間抗争に、その因があるのだ。

 ということは、大和など百十万石の大大名になっていた秀長が、かりに十七世紀初頭まで健在であったならば、豊臣政権内部の抗争を、そうなる以前にふせいだであろう。

立場からもかれにはそれくらいの力量はあったし、睨みをきかせる重みもじゅうぶんに備えていた。また抗争は、家康を利するだけだとかれらに、説くこともできたにちがいない。

いや、それ以前に、朝鮮出兵という暴挙をさせないか、はじまっても初期段階でやめさせたはずだ。大義も名分も、というより必要性のまったくない愚行なのだからと。

とにもかくにも影秀吉への説諭として、かく。朝鮮の対応が横柄だと激怒するのは、それ自体がまちがいであり、出兵の理由にはならないと云々。そのうえで、これを理解させる能力も、秀長ならばあったであろう。

さらには、「中華思想をもといとする明国は強大で国土も広大、李王朝はその属国なのだから、殿下の命令を無視し、明にのみ服従するのは当たりまえ」として、官兵衛とであれば納得させることもできたはずだ。

 それでもどうしても領土を拡大したいと、影がごねるのであれば、蝦夷地を占領させるという手もあった。

影の口をとおして、徳川軍中心で兵馬をすすめるよう家康にむけ厳命させればよく、ならば徳川家としてはのらりくらりで時間をかせぐだろうし、そのうちに、影の寿命はつきるであろうと。

 そうなれば、攻めるほうも攻められるほうも被害は最小限ですむわけで、影の死でこれにて一件落着と、まあるく収まったにちがいない。

 とはいうものの、これもしつこいようだが、歴史に“もしも”という仮定は非現実であり、バーチャルでしかないのだ。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(66)

秀長は、逝去の一年前から居城にて病床にふせていたのだが、やがて泉下へ。

これを機に影武者の、ぬきさしならない極悪非道、なかでも、関白秀次一族惨殺にはじまり朝鮮出兵におわる、ゆるしがたい悪逆無道があらわとなっていくのだった。

しかしその惨虐をとめる秀長を、のぞむべきもない。

たしかに、影武者政権のもうひとりの立役者である官兵衛は、まだそばにて仕えていた。

だが、しょせんは家臣の身である。天下人だと、そう“日の本”が認知したこのおとこの残虐を、とめることなどできるはずなかった。

これにおいて、官兵衛に非はない。

いやむしろ、つねに正論でなす諫言が皮膚に沁みこむ、は言うにおよばず、影の胃の腑にまでも到達していたのである。

だからこそ影には、鋭利で明智(めいち)な頭脳をもつ有能な官兵衛がしだいに疎ましくなっていった。耳をふさぐだけでよしとは、愚物ゆえにしなかった。目障りと、論客を遠ざける道をえらんだのである。(側近からはずされたのも史実)

ただし、粛清はさすがにむずかしいと。武にも智にもたけた人物なのだ、相手は。 

不測の事態をまねくかもしれないと、能のない影武者といえどもそれを案じた。

戦上手の嫡男長政はむろんのこと、ほかにも敵をつくりすぎる事態をうむことになる、くらいは、愚者でもわかったからだ。

いや、また、智者を必要とする時がくるかもしれないとも。殺すには、不利がおおすぎるのだと、影はそれなりに考えた。

ここに、ひとつの逸話がある。

天下をうばいうる人物はだれかと、影が座興でとうたのだ。家康、利家、政宗、と家臣たちがくちぐちに。それを否定し、即答した名が、官兵衛であった。

だから功労のわりに、軍師は禄がすくないのだと皆、得心した。

さてさて、で、直言のものがいま一人いた。政治顧問のような存在でもあった、千利休(宗易)そのひとである。

かれが発してきた、年月をおうごとに辛辣さを増す諫言に影の、ついに堪忍袋の緒がきれたのだろう、

既述したようにけっか、切腹の刑に処せられてしまったのである。ただし、いいわたされた罪名がなんであったかは、いまだナゾのままだ。おもうに、朝鮮出兵に異を唱えつづけたからではなかったか。

ところで利休は、堺(以前は自衛力と、傭兵をしたがえた武力をもつ自治都市だったが、信長と秀吉により、その機構は解体させられていた)における会合(えごう)衆(かいごうしゅうとの別称あり)とよばれた商人で、このとき、武力をもたない文化人でしかなかった。

影は、いわば素手の利休だから、躊躇せず切腹をめいじたのである。利休を因とする火の粉が飛びちったとしても、天下人には、やけどを負う心配などなかったからだ。

だが、当然の疑問がのこる。突然のこの理不尽としかみえないナゾの切腹命令を、なぜ拒否しなかったのか、である。

憶測するに、家族に難がおよぶのを避けるためではなかったか。自刃しなければ、子らを処刑すると影が脅したからではないかと、ボクは見る。

これで一応の辻褄ならば合うだろうし、判然とはしないまでも、“それならありうるなあ”ていどの納得であるならば可能だとおもう。

 それはそれとして、糟糠の妻(だった)ねねはどうしたであろう。傍若無人なやり口にたいし、傍観していただろうか?と問わずにはおれない。

いやいや、かのじょはことに、秀次助命に奔走しなかったとはかんがえにくい。

しかし影とは、むろん夫婦ではない。というよりはっきり言って、縁の稀薄な、否、まったくの他人と互いにおもっていたはずだ。

ただただ、うるさい婆あだと、謁見すら拒絶しつづけたのだった。かわいい淀のそばこそ、居心地がよかったにちがいない。

 でもって、露呈させた地そのままの暴君となった影である。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(65)

 羽柴秀吉は、こうして、越前府中城内にて露と落ち(影武者による、辞世にあるように)消えたのである。

跡をうけた秀吉の影武者は、秀長や官兵衛たちの画策が功をそうし、抗うもののすくないなか、時流にのりやがては天下をとるのだが、途上、増大していく権力をば、おのがほしいまま,しかも奢(おご)りもあってか、次第しだいに本性を露わにしていくのだった。

それもある意味、致しかたなきことだったのかもしれない。

登りつめるに、過程や経緯において、人にはいえないほどの辛酸や汗血にまみれた思いが、通常ならばあってこそなのだが、影武者には、ほぼなかった。

所詮は、時流にのっかっての、天下人であった。秀長や官兵衛をはじむ家臣たちがつくってくれた状況のうえに、胡坐をかいていたにすぎない。戦って勝ちとったという裏うちがないのだ、つい先日まで農作業をしていた身の、血闘とは関係のうすい“影”には。

だから、後年の無茶苦茶な悪行・蛮行を、迷うことなくできたのである。

卑近な例になるが、詐欺師の、金銭のつかい方がまさにそうだ。苦汁をなめていないぶん、ばくちや異性にたいし乱用しても平気、まるで湯水のように浪費ができる。豊田商事事件の永野一男はその典型である。

常軌を逸した濫用、それは、惜しむきもちが欠落しているからだ。

流した汗や涙の対価としての収入ならば、ひとは、そんなバカはしないし、いや、できるはずもない。

つまるところ、影の行状は“悪銭身につかず”、簡単に手にいれたものは簡単に使い切ってしまってなにも残らない、とのことわざどおりであった。

でもって、後年の悪虐も、天下平定に心血をそそいだ歴史が影にはない、だからである。

もっといえば、労苦のはての天下ではなかったからこそ、けっか、豊家の滅亡をまねいたのである。

ところで、漸次(しだいに)あらわになったのだった、理性の欠如した本性が。あわれ、その魔性に、日・月・年を追うごとじょじょに残虐性もが加わってゆき、やがて棚ぼたの天下人は、殺人鬼と化すのである。

いきつく果て、朝鮮半島に死人の山をきずいていくのだった.

そしてこの影武者も慶長三年(1598年)八月十八日、満五歳になったばかりでゆくすえ、かぎりなく不安な愛息秀頼をのこし、懼(恐れ)れおののきの心を患(患って)わせつつ、身悶えながら死んでしまうのだ。

で、このおとこが不幸なのは、越前府中城での椿事のせいで余儀なくされた、代替わりの当初ではなく、跡継ぎとなる子息が、かれの晩年に誕生したこと、くわえて、秀長が天正十九年(1591年)の一月に世を去ってしまったこと、のふたつである。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(64)

而(しこう)してこの終日、秀長はじつに冷静かつ忍耐づよく、ことにあたっていた。

しかし、かれが非情だったからでは、決してない。肉親ならではの情が発する悲嘆や苦衷、いかんともしがたい無念を、胸奥にムリに押しこめていただけであった。

ありうべからざる波乱は天のいたずらであろうか、いな、そんなことをかんがえる暇(いとま)もなかった。最良とおもえる善後策をひねり出すべく、ひたすら没頭していたまでである。

唐突に、羽柴家の命運を一身にてになう立場となったため、じぶんをおし殺していたにすぎなかったのだ。

しかしやがてのこと、激情が雷雲のごとく現れるのである。

主の野望をかなえるために、無理やり抑えこんでいた肉親としての情愛が、けっしておおきくはない身体のなかを奔流のごとくに暴れだし、しかも払暁まで、おさまることはなかった。

内外の難事を万事とり仕切りおえ、ほのかな灯(ともしび)がかすかにゆれる薄明かりにたたずむなか、たった独りになったとき、羽柴家でいちばん強固な支柱としての、また秀吉の名代としての羽柴秀長から、ようやくひとりの人間、はだかの小一郎に、戻ることができたのだった。

兄という存在、それをはるかにこえた頂きであった秀吉の面影を知らずしらず思いうかべつつ、涙にくれる、どころではなく、気がふれたかのように野辺を、こぶしが痛くなるのも感じずにたたきつづけ、身悶えしながらただただ号泣したのであった、弟、素の小一郎として…。

 いや、それでは正確でない。じつは、縁のうすかった父親に成りかわる存在、つまりは敬愛する家長とひたすら慕いつつ。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(63)

この、利家が肚(はら)におさめた請願はけっかとして、争いごとのない世を希求する民の願望、当時においては日本統一の、その支援となったのである。

肉が肉といさかい、血で血をあらそった戦国の世は、このような有名、だけでなく無名の人々に因(よ)って、終焉をむかえることができたのだ。

極論をいうと泰平とは、民衆がこいねがい続けなければ、実現しえないものなのかもしれない。

だとすれば人とは、なんと因業な生きものであろうか。

哀しいかな、力をえた人間というやつばらが、覇をあらそってきたのだ、それこそ有史以前から。より盛隆をのぞむがゆえに、相手を敵とみなし力でねじ伏せてきたのである。

ま、それはともかくとして、秀吉によってだされた惣無事令(大名間による領土紛争などの私闘を禁止し、罰則を法令化したもの。ただし異論の学説も存在するが、ボクはとらない)は、争いごとを禁じる代表的な和平政策であろう。

それは利家からみて、信長がかかげた“天下布武”の本意、つまるところ武をもって武のない世界を布(し)くにつうじており、敬愛した主君信長へのオマージュであったろう。

ちなみに“武”とは、戈(ほこ)(武器である戈)と止めるから成立する漢字である。軍事力や権力でもって制圧をする覇は、統一の必要悪的な手段で、大切なのはそのあとの天下泰平であり、それこそが、“武”本来の目的なのである。

ところで歴史好きでもないかぎり、羽柴秀長にたいする認識はざんねんながらさほどではない。だが間違いなく、かれはひとかど以上の人物であった。

「影」を耳にした瞬間、利家がなにを訊こうとしたかくらいは即座にわかった。だが強いて、さそい水の言辞を駆使しなかった。むしろどう出るかを見極めるため、利家にその刹那の仕切りをまかせることにしたのである。

どこまで味方になってくれるか、かれの本意をしるためであった。

羽柴家をゆるがす一大事件をおこした直後だけに、卑下は致しかたなしと。されど過ぎたる卑屈な言動があったならば、利家は気骨なしと。また、仕置きをきくまえに腹をきる仕草をしたならば、軽挙な人物と軽視するつもりだった。いっぽう、美辞麗句を弄するようならば、信頼にあたいしないとして見限ろうと。

はたして、そのどちらでもなかった。

かねてより利家のことを知ってはいたが、かれの眸が放った光をみて、信頼できると確信できたのである。

さてこのふたり、傍からだとなにごともなくみえたであろう。しかしながら戦国武将の駆けひきは、まさに命がけだったのである。

しかもこの間ふたりは、眉、その一毛(いちもう)たりともうごかすことはなかった。

これが、天正十一年(1583年)四月二十二日昼前から深夜にかけての全幕である。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(62)

 ながい時間をまたされた前田家親子三人であった

だが、秀長がすがたをみせるとその横顔を一瞥し、すぐさま平伏したのである。直後かれらは、安堵の表情になっていった。

あらわれた秀長の眼から、先刻のはげしい怒りはきえていたからだ。戦国乱世の戦場にて、命をおとすのはいたしかたなきこと、そうあきらめた表情とみてとったのである。

 秀長ひとり、利家たちの上座にすえられた床几にすわった。

さて、どう切り出すかを思案しおえ、おもむろに口を開いた秀長は、

「北の庄(柴田勝家の居城)への先導をお願いいたす。ご案じめさるな、それだけでござる」寛大にすぎる処置を言いわたしたのだった。(史実、先陣をつとめている)

城攻めの先鋒として力をつくしてくれれば、それで片がついたこととする。つまり、処分はおこなわないというのである。

 柔和になった秀長の様子から、すくなからず安堵の気持ちになったとはいえ、それでも当然のごとく、きつい処分をいいわたされるだろうと覚悟していた三人であった。

領地減封および利家の切腹ですむならありがたし、喜んでうけいれるつもりで伺候したのである。

それが、人質をさしだすことさえ要求しないというのだから、三人ともが、わが耳を疑った。

 その怪訝な様子をみつつ、秀長はさらに嬉しき言葉をかけたのである。人誑しの技は、弟であるじぶんが受けつごうと決めたかのように。

「豪姫殿(利家の四女、幼くして秀吉の養女になっていた。しかし、人質としてではない)は播磨の城にて息災でござる。義姉上(ねね)にも可愛がられて、楽しき日々を送っておられる。いずれは秀家殿(宇喜多秀家、こののち加増され五十七万石余となった大大名)と妻合(めあ)わせる所存と、殿は仰せであった」秀長は、あえて亡き殿とはいわなかった。

_恩をうっておき、つよい味方にするが得策_とのもくろみと、利家はみてとった。そしてこの場で豪姫のはなしを持ちだしたのも、羽柴家としてはいつでも人質にできる、とのたがいの暗黙の了解とみた。

_いずれにせよ_これら政略をさし引いても、このうえなくありがたき言辞である。三人は衷心より感謝し、感激したのだった。

「よろこんで、先陣つかまつりまする」与力をした勝家にたいする、いうまでもない裏切りだが、これも世の習いというしかないと。ただ、両手をついた利家にも、上様(信長)の命による与力であって、家臣となったのではないとのいい分はあった。

それはそれとして、一説によると、敗走しつつも府中城にたち寄った勝家であったが、湯漬けを所望したそののち「羽柴家をたよられよ」と、独善勝手な前田陣退却にたいして、恨みごとのひとつもいわずに忠告したとされている。

前田軍退陣が賤ヶ岳の戦いの敗戦のおおきな一因とされるだけに、この逸話がほんとうであれば、戦国の世ならずとも、このうえなき清涼剤となるではないか。

 さて、つねより気丈なまつではある。だが、“豪”の名を耳にしたときはさすがに、つい嗚咽をもらしたのだった。消息をしりたいが訊ける状況ではなかっただけに、望外の報せであった。

母として、戦国武将の妻として、戦にでた城主および領主の代理人(不在の夫にかわって城にのこった家臣団の統率や領民の保護にあたった)を長年務めてきたものとして、すべての感情がせきあげてきたのだった。

羽柴秀長にむけ、おもわず、掌(たなごころ)をあわせたのである。

 利長も顔を伏せたまま、肩をちいさく震わせていた。

 いっぽう、父であるまえに領主である利家は、前田家の行く末をかんがえずにはおれなかった。それで迷ったあげく「恐れながら」と発し、問おうとした、「筑前殿には…影」と。

しかしながら、その先をばいい淀んだのである。さすがに、軽々にすぎると思いなおしたからだ。

すぐさま、「いえ、何でもござりませぬ」とて口をすぼめ、つづきを留めたのだった。でかけた“影武者の存在“など、確証のないあて推量にすぎないためである。

それいじょうに、「前田家にはかかわりなきこと」と一蹴されるだけですめばよいのだが、せっかく消えかけた火に、空気と油をたすことになりかねないと、そう。

立ちいった問いは愚行ゆえに避けるべしとして、以下、_影武者がおり、羽柴家、いな羽柴秀長殿がそのおとこをたてて、天下平定をめざさるるならば_そう、出かかったことばを、喉の奥にもどしたのである。

_さすれば、微力ながらも助太刀いたしまする_との協力誓願はさらに、内腑へとおし込めた。_秀長殿にたいする恩義なればこそ、言葉より行動でしめせばよい_そう改めたのである、秀長の眸にむけて、感謝と敬信の光をおくりながら。

たしかに、無言実行のほうが利家らしい。信長が愛(め)でた、その性格のままだからだ。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(61)

「これらの者には、一切をつつみ隠さず正直に打ちあけ、羽柴家のゆく末を安堵するために骨身をおしまないとの、誓いをたてさせましょう。行長(当時二十五歳)なんどをもふくめ、まだわかき者たちゆえ、心はまっすぐにござれば…」

官兵衛は、かれらを信じるか、皆殺しにするしかないとかんがえた末、信じることにしたのである。それしかないと決めたのは、かれらが働かなければどの道、羽柴家は成りたっていかないとの洞察によった。

 企業の創業時においては、上下に相互信頼がなければ、成長はおろか、生きのこりすらもむずかしい、との方程式に似ている。

百姓の立場から裸一貫で興した秀吉ゆえに、ほんらいの意味での譜代をもたない。かれらをこそ譜代にしていかねば、将来はないのである。

それには隠しごとは禁物で、情報を完全に共有する道しかないとした。

年若と侮(あなず)りかるくあつかえば、多感なかれらは、敏感にかんじとるであろう。

信頼していない相手をば、信用するものがいるだろうか?逆に、秘事中の秘事とはいえ、いやだからこそそれをすべて明かされたならば、意気にかんじ与力するであろう。

これが官兵衛一流の、人心収攬術であった。

 秀長も苦労人で、この方程式に異議はなかった。ただし問題は、その「羽柴家のゆく末」にたいする不安である。

主を消失した羽柴家のゆく末を本気で案じ、そのうえで、主家安堵のための与力を、愚直にしてくれるものたちであるのかどうか?

「その心配ならば、おそれながらご無用かと。虎之助や市松、佐吉をはじめ皆のものが、御台盤所の寧々様にはこのうえなく可愛がられておりますゆえ、母者人(ははじゃひと)のように慕っております」

秀吉亡きあとは、ねねこそが羽柴家のゆく末そのものだから、まず当面は大丈夫、というのである。

「さらには秀勝様がおわします。上様(信長)直系のお方であり、上様より殿がうけたる恩義、いまは、秀勝様からの恩顧であると説きわからせます。で、亡き殿になりかわり恩にむくいる道こそ、武人の誉れであり忠義だとおしえてみせまする」

道をとく資格において、官兵衛以上の適任者はほかにいなかった。

信長を裏切った荒木村重(すくなくとも信長陣営はそう見ている)に、友誼から翻意させようと単身で、いまは敵と化した主城、有岡城におもむき、かえって囚われの身となり、食事もふくめ家畜以下のまま一年余の牢獄生活にたえ、それでも主君を裏切らなかった。

そんな経歴をもつ人物、とされ、また、それを知らないものはいないからだ。

 しかし、まだ心配げの秀長。

「こういうことは本来憚るべきことなれど…、秀勝様は病弱であり……、そのうえ、義姉(あね)上にもしもの事あらば」秀勝とねね、二人とも長生きする保証などないとおもうと気掛かりで、つい、洩らしてしまったのである。

 富士山のような兄の突然の消滅は、賢弟の日ごろの沈着冷静をうばうに、じゅうぶんな事態だったのだ。

「さればその前に、足元の地を固めてしまいましょう。この戦はもはや勝ちにござりまする。よってかれら近習には、いっそう特別の、おしみない恩賞をあたえますれば…」

「なるほど。それが良い」おもわず膝をたたくと、「羽柴家にたいし、新たな恩義をつくりだすのじゃな」安堵の眉でいった。

軍師も無言で自賛のうなずきをいれると、「さすれば、欲が出てまいりましょう。欲のない人間はおりませぬゆえ」ひとの習性について語った。その欲を、よそにむける愚はしますまいとも。

「かれらは、他家では無名。だれもが、路傍の石あつかいは、必定」

ところで二人ともが少欲知足、世人にくらべれば欲望はかなり少なくても足りるを知るほうだった。それだけに冷静に、戦国の世なればこその、欲ぶかき人間をばいやというほど見てきていた。

欲をいったんは満たしたと笑むが、新たにうまれたより大きな欲に惑(まど)い堕ちゆくガキそのものの姿を。やがては身をほろぼす、哀れな餓鬼道のひとびどをだ。

欲望とは、いかにも人間を駆りたて突きうごかす源の力ともなろうが、すぎると、身を炭にするまで焼きつくす鬼火にもなると、身に沁みて知悉していたのである。

「欲強きものならば、主がだれであるかではなく、じぶんを重用し加増してくれることを第一義にかんがえ、その主につかえます」

ひとりやふたりが、欲深さのゆえに向後たとえ裏切ったとしても、かれらはまだ若年ゆえおおきな脅威にはならないだろうとも、ふんでいる。それで当面、対策や処置にまではその必要をかんじなかった、

そんな側面もすでに計算ずくであった、善悪あわせもって。

だから、杞憂に労力の無駄づかいをするよりも、かれらの成長以上に羽柴家の勢力を拡充させていく。そうすれば、造反者などでるはずないとの算段だった。事実、十六年が間はそのとおりになるのだ。が、

ただ十七年後、竹中半兵衛の機智により命を救われた、嫡男の長政がまさか、豊家分断のその核になろうとは…。

して、秀吉子飼いで武断派と称されるかれらが、愚かにもその先どうなるかもかんがえずに感情のまま対立をおこし、戦の因をつくるとまでは名軍師も、さすがに読みきれなかったのである。

 だが今は、そんなさきの話、どころではない。

 官兵衛は、ひとの習いにしたがい、利と理にもとづいていけば、それを核とし、エネルギーはそこに集約されていくとみている。ひとは保全のために力あるものを頼り、より添いたい生きものなのだと。

つまり、羽柴家が力を増幅できるはずと信じ、具体論としてつづけた。

「また、恩をしるものならば、出世させてくれたものが誰であれ、そのものに忠義をつくしましょう」

だから、過誤なく論功行賞をすれば、このあとも羽柴家は安泰、なだけでなくやがては、天下をとれるはずというのである。

 こうして、 

談合の当初、瞳の光彩いかにもよわく、眉間には深いしわがより、世事の難問いっさいを、一身に背負ったふうであった秀長だったが、いまはまるで別人のよう。

官兵衛の立案に眉はおおきく開き、軍師の手をつよく握ったのである。はからずもでた感謝のあらわれであった。

「さすがでござる。いやはや、お見事!」初恋がみのった少年のように、おもわず破願した。

「軍師のいわれるがままに。で、責任はこの秀長がうけるとしましょう」これ以上の案などありえないと判断し、大成の風格でいったのである。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(60)

 いっぽうの後者集団だが、文治派と称される。財政や戦時における兵站などをふくむ行政にたけていた。ちなみに兵站とは、人員・兵器・食料・医薬などを戦地に前送・補給しつつ、後方の本営との連絡をも機能させる後方支援のことだ。

とくに、秀吉の三成への信任はもっとも厚く、そのぶん武断派はおもしろくない、ていどではなかった

ところで“兵站が延びる”という言葉があるように、杜撰(ずさん)だと、戦争を維持・続行することはできなくなってしまうのだ。後方支援の重要性をしりつくした秀吉が、有能な三成を重用したのも、とうぜんといえよう。

 その三成について、いますこし触れておきたい。

武断派に比すまでもなく、欲がすくなかったということだ。

知るひとぞ知るはなしだが島左近、流浪の身とはいえ、とうじから智勇兼備の誉れたかかったこの人物を、大名級の知行二万石(一説だが、三成はちなみに当時は四万石であったから、半分を与えたことになる)で召しかかえている。

自家に、まだなんの功績もしめしていない人物だったにもかかわらず家老として、自領地から割譲するのだから、“大気者”(秀吉も貢物の多種高価でもって、信長をこう感心させた)でなければできない、度量のおおきさだ。

ついで、人物だったとする説をあえて。

有名な旗印、大一大万大吉。意は既述したとおり、万人はひとりのため、また、ひとりが万人のために尽くせば、太平の世となると。生き馬の目を抜く(ひとを出しぬいて利益をえる)戦国時代の武将とはとてもおもえず。その人柄がしのばれよう。

くわえて、朝鮮出兵における後方支援の功が大として、秀吉は筑前・筑後両領地を下賜しようとした。

が、三成はこの加増を辞退している。「殿下がおわす大坂や伏見からみて遠隔地ゆえに、ご奉公に支障がでる」というのが理由である。

家臣の鑑と、泣いて喜んだにちがいない。

さらになのだが、琵琶湖の東岸・滋賀県北東部(長浜市や彦根市など)では、いまだに三成の治世をほめる住民はおおい。年貢をかるくし、善政を布いたからだ。

そのせいで、領地の主城である佐和山城の普請(内装)はいたって質素であった。派手ごのみの主君とは、雲泥の差である。

ちなみにのち、信頼する井伊家に彦根一帯をおさめさせたのも、政権を守るに要衝の地だからであり、それより以前の三成にすればぎゃくに、東方、とくに家康という脅威から豊家を守るに、じぶん以外のだれが任にあたれれるか、まったくもって論をまたなかったのである。

でもって、家康の野望をうち砕こうと、さいごまで恩顧に命をはって応えていること、武断派とは天地の差ではないか。

 その三成、斬首の直前まで、報恩と信念のひとであった。

 また、論理を重んじ、理性のひとでもあった。よって、一利なしの朝鮮出兵の愚を一度ならず主君に説き、さらに諫めてもいる。主君であろうとも、非を非とただす信義と真の忠義の人でもあったのだ。

上意に逆らえず、やみくもに武を恃(たの)み、欲に足をすくわれ感情にうごかされがちだった武断派とは、質におおきな違いがあったのである。

そういえば中島敦の小説 “山月記”、自ら恃むところ頗(すこぶ)る厚かった逸材は、にもかかわらずのあまりの不遇を嘆くあまりついには発狂し、人喰いのトラへと変じてしまう、そんな寓話をなぜか連想してしまった。

煩悩をコントロールできなかった吠える清正や正則などの漢(おとこ)たちに、やがて来たる悲劇が頭をよぎったからだろうか。

閑話休題。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(59)

ここでも、横道にそれる。

前者集団はのちに武断派と称され、関ヶ原の合戦のおりには、豊家を裏切り、こぞって徳川方についてしまった。豊臣恩顧の武断派たちは、これを裏切りとはおもわないかもしれないが。

それでもあえて言う。鬼籍にいった(死んだ)秀吉を慟哭させたことに、異議をはさむ余地などないはずだと。

それはそれとして、遡(さかのぼ)ること、影武者(蛇足ながら、いまもなお白日夢の渦中である)秀吉の命による文禄・慶長の役(朝鮮半島への出兵)のおり、過酷、では軽すぎる、血みどろの戦にあけくれていたにもかかわらず、艱難辛苦のなかにいる前線の武将たちにたいする天下人の評価はひくかった。

それを、“小賢(こざか)しい佐吉”の讒言(ざんげん)のせいだと、武断派たちはおもいこんだ、あるいは、こもうとした。でもって、恨みをいだいたと、そう、ほとんどの歴史家はしるす。史実として、裏うちの文献もすくなくないからだ。

だけでなく、さらなる掘りさげかたをする学者もいる。いわく、恩をうけた秀吉に文句をいえないぶん、かれらはかわりに、寵愛の三成に恨みつらみをむけ、そして憎んだとする見解だ。

そのうえで、舞台裏にて、家康の謀臣本多正信が画策して対立をあおり、確執を決定的にし、やがて、家康が機に乗じて天下をうばったと、これも多くが。

もちろんそうなのだが、とくに清正は、家康の肚の底を読みきれないていどの人物だったから、徳川方に乗せられて、_殿下お気にいりの佐吉めが、豊家を乗っ取ろうとしている_とそんな、愚かで、じじつと真逆の判断をしたのかもしれない。

すくなくとも、佐吉憎し!が清正のこころを覆いつくし、冷静な分析や判断ができなかったのだ。そこをつかれ、古ダヌキに利用されてしまった。

むろん、ちがう見解もある。清正は、天下を徳川にわたすことを認めつつも、秀頼公の安泰をねがっていたと。豊臣を、一大名として存続させればよいと思ったのだと、そう。

しかしそれを、家康が良しとするとかんがえていたとしたら、なにもわかっていなかったとなる。歴史が証明しているとおりだ。

あるいはやがての、豊臣・徳川の衝突は不可避とみて、そのときは秀頼公の幼さのゆえに勝目なしと、清正をふくむ武断派の各大名はふんで、それぞれが自家をまもるために徳川についた、との説もある。

だとしたら武闘派たちのよみ、正しかったのだろうか?

歴史に“たられば”は禁物を承知で、もし武断派が裏切らず、せめても中立をたもってさえいれば、兵力・財力ともにおとる家康は、天下盗りの野望など、あきらめざるをえなかったはずである。

じじつ、秀吉治世下では、能ある鷹になぞらえて爪をかくし、おとなしくしていたではないか。

戦で、家康方が勝利した、にもかかわらず、だ。小牧・長久手の戦いは、たしかに全面戦争ではなく、いわば局地戦ではあったが、その勝利に乗じて、天下をのぞもうとはしなかった。

ところが文献にあるとおり秀吉の死後、家康は縁組み禁止法度(御掟(おんおきて))をやぶり、伊達家、蜂須賀家、福島家などとの姻戚関係をきずき、さらには利家亡きあとの二代目利長にたいし、豊家への謀反のうたがいありとの言いがかりをつけ、大老からはずしたりの画策もしたのである。やり口が汚くおぞましい。

肚は、みずからの勢力拡大と、豊家の力をそぐためにほかならなかった。

徳川の力がまさっていたのであれば、法度破りという禁じ手や、他家を窮地に落としこむような策謀をもちいる必要など、なかったはずである。

また、天下横取りの野望がなければ、後世においてわるい評価をうけるであろう悪手をうつ必要性も、なかったではないかと。

秀吉亡きあとの戦において、戦略、戦術ともに、家康にまさる武将はいないのだ。で、財力はともかく、兵力においては対等以上の立場をもくろんだのだった。

しかし、今はそれをさておくとして、

いずれにしろ、どのような弁解をしようとも、裏切りは裏切りでしかなく、秀吉からの恩顧を仇でかえした逆賊行為とみなされても、しかたがないであろう。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(58)

秀吉の声をしらない小姓たちは、まさか影武者だとはおもわず主君の言葉として、家臣たちにつたえる。大名や家臣は、小姓の振る舞いがまったく自然なので、たとえば、疑いをもっていたとしても、その疑惑はやがて消えていくだろうとした。

 ここまでの策略に、まずもって、非のうちどころはないと。さすがに比類なき知略の軍師なり、唐土の諸葛亮孔明にまさるとも劣らじと、秀長は内心、舌をまいた。

 しかし、恐れいるのはまだはやかった。適確な現状認識ののち、さらに献策をうけたからだ。

「失礼ながら、殿御一代できずかれたゆえに、御当家には有能な譜代や直参は、そうおおくはござらん」

譜代とは父祖からの家臣をいうが、農民出身の秀吉には存在するはずもない。それで小身のころよりの、という意味で、官兵衛はつかった。

「僭越ながら」と前置きしたあと、「小六殿(蜂須賀正勝の通称)や長政殿(寧々の養父の養子、浅野長政)などであまりおおくは…」

_いいたいことを、歯に衣(きぬ)着せずぬかしおるわ_秀長は苦笑するしかなかった。

「されば、能あるお方以外はとおく退けられるがご賢明かと」ずばりいった。このさい、能力にとぼしい神子田正治や仙石権兵衛秀久・生駒甚助親正などを閑職においやれば、当家にとって二重の有益をもたらすといいたいのだ。

能力にとぼしいとは、ほかの秀でた武将たちと比較しての優劣であって、かれらが無能だという意味ではなかった。

ちなみに先のふたりは勘気をこうむり、史実、改易されている。

で閑職にとは、禄もけずりとることをも意味していた。

もちろんかれらからの機密漏洩の恐れがなくなる、だけでなく、有能でない家臣を格下げすることで、その地位をもっと有能な家臣にさずけられる、とのおまけも発生するのである。

もっともな意見ではある。がそれには、信長のように放逐しないだけ慈悲があると、納得させる必要もある。温和な人は、ついそうかんがえたのだった。

しかし官兵衛は割りきっていた。かりにかれらが叛心したとしても、織田家にとって脅威となった、天正六年の荒木村重の謀叛のようにはならないと、織りこみ済みなのである。

領地も兵力も人材といえる陪臣も、三人については歯牙にもかけないですむていどのものだったからだ。

「さっそく、そのように手配いたそう」窮地を、むしろ当家の有利に変換させようとのみごとな知謀は、天晴(あっぱ)れ、というしかなかった。

「(丹羽)長秀殿、久太郎殿(堀秀政、智勇兼備の武将として信長は称賛し、敵からはおそれられた)など、上様(本来なら将軍家への呼称だが、織田家では信長をさしていた)直参で信頼できる方々には、すべてを打ちあけるが得策とかんがえますが、いかん」

「うむ、そのふたりに限れば、な。とくにだが長秀殿にたいしては戦勝ののち、羽柴家の力を天下にしらしめたあとがよかろう。ただしご本人のみで、子息以下には内聞を約していただく」

雌雄が決したいま、有力大名が柴田勢に寝がえる可能性はひくいとはおもった。がそれでも、つい万が一をかんがえてしまう、との心境であった。

_勝家をたおし果たせば、織田家中において、羽柴家に異をとなえるものなどいなくなる_が、それまでは自重すべきと。

 たしかに本気で、しかも単独で戦陣をしいた大名はいない。信長の次男(三男との説もある)信雄(かつ)がのみ、家康の力をかりて、戦端をひらいた。が、史実はそれくらいだ。

この次男坊も後年、豊臣家をたよることとなる。

さらには外敵の、四国は長宗我部、九州は島津、関東は後北条、といえどもそのいずれもが、戦をしかけてはいない。

 秀長のよみは、ほぼ的を射ていたのである。

「まてよ。うん、そうじゃ、明かす直前に、領国を安堵するのみならず加増もするむね、つたえるとしよう」あらたな領地なら、柴田領から割けばいいとその胸のうち。

とはこの本質、羽柴家の家臣の列にくわわることを意味している。

 じじつ、長秀は賤ケ岳ののち加増され、百二十三万石の領主となっている。

 また、堀秀政は山崎の合戦のとき、すでに家臣の立場で参戦していたのだった。

「むろん、それとは引きかえにじゃが、身内をいわゆる人質として差しださせるが、な」裏切らせないための備えとしてである。秀長もどっこい、画策の辣腕ぶりを披露したのだった。文句のつけようのない機略といえた。

「それがよろしゅうござりまする」じつは官兵衛も同意見であったが、ここも秀長に、花をもたせたのだった。

「きまった!では明朝、出陣のまえに、主の名で触れをだすといたそう」同盟の大名の首根っこをおさえるに、はやいに越したことはないと秀長はかんがえた。

とにかく天下をとるまでのあいだ、まずはカリスマとしての秀吉の健在ぶりをしめさねばならない。そのため、賤ヶ岳の合戦以降は敵味方のどちらにたいしても、影武者をたてていくしかないと。

あす以降の戦術や将来をみすえた戦略は、じぶんたちや長秀と秀政が受けもち、“影”は単なるかざりに徹すれば問題は生じないはず。この点でも、ふたりは同じだった。

 そしてこののち生じるかもしれない危惧、ひっきょう影武者の暴走についても、「多少は目をつぶるしかない」でも、一致したのである。

 ただこれほどの秀長にも、やがてのとんでもない狂いが生じるのだった。三歳年長の影武者よりはやく、1591年一月二十二日に五十一歳で、自身が病没するというまさかの計算ちがいである。

それで、影武者が二種類の、とんでもない暴走をすることに…。しかしそれを制止できず、けっか、豊家を崩壊させてしまうのだ。

とりかえしようのない悲劇、みるも無残な史実を、かれは泉下(黄泉、あの世)でしることとなる。

生きていれば暴走を制止し、豊家を安泰にしてみせたものをと、滂沱(ぼうだ)の血の涙で息もできなくなったにちがいない。

「さて、のこるは、そばにて侍る若少な子飼いの衆とほか数人のみにてござりまするな」

この合戦ののちに賤ヶ岳の七本槍としょうされる、加藤虎之助(のちの清正)・福島市松(のちの正則)・加藤孫六(のちの嘉明)・脇坂安治など。さらにくわえての石田佐吉(のちの治部少輔三成)・大谷桂松(のちの刑部少輔吉継)・小西行長・増田長盛などのことをさしている。

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