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こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(79)

慶長の役において秀秋は総大将として、秀吉の命により十六歳(1597年)で駆りだされている。ちなみに本格的な初陣としては、けっして早くはない。

でもって、清正や正則などの名だたる歴戦の猛将が連日たたかっている、まさに修羅の日々であった。

だからだろうか、たしかにかれも、槍を手に敵を十数人、討ち果たしている。総大将だったにもかかわらず。

そんなさなかにおいて、立場上、夜ごと、酒をあびられたであろうか?夜があければ、戦闘がまっている。二日酔いなどゆるされないのだ。

それでもかりに乱行があったとしてだが、じつは、補佐すべき付家老としての山口宗永がそばにつかえていたのである。強諫しなかったはずがない。なぜならば宗永は、天下人秀吉がつかわした目付け役だったからだ。

いじょうの理由により、不本意ながらも飲めない日すくなからずであったろうし、自然、いわゆる休肝日をもうけざるをえなかった、にちがいないと。むろん、ときおりの酒宴にうち興じた日もあったとはおもうが。

以上は想像の域だが、まちがいないことが一つ。何といっても敵地だということ。八方が敵というなかでの兵站を考慮にいれると、食料や武器弾薬、医薬品の補給こそが最優先となり、憶測ではあるが、二の次の酒を入手できない日がつづくこともあったはずだと…。

そうだとしたら秀秋のばあい飲酒歴にかんがみ、代償性(ていどの軽い)肝硬変だったのではとも想像できる。

よって相応の肝臓疾患だったとしても、それが死因(だとする医学者もいるが)とはかんがえにくいのだ。

推量をかさねる・

ならば“唐突な”死だったと、いえるのではないか?

いずれにしろ、いわくありげな変死とみるべきであろう。

現代であれば死因究明のため、“行政解剖”がなされるべき異常死だと。さりながら、問題の死体についてはその地域が岡山(関ケ原後の論功行賞で岡山城主に)なので、政令がさだめる“狭義”の行政解剖は、監察医制度がないため不可ではあるが…。いやはや、これは座興の余談である。

ところで、度をこえた飲酒が原因で“病にいたる”ことは、中世十六世紀末(このおとこの飲酒癖を確認できた時期)、未発達の医学とはいえど、それでも当時からしられていた。

そんななかでしかも秀秋とて、世継ぎをもうけねばならない立場の主君であった。サケに狂って伽(直截表現すると、子作りのこと)をおろそかにするは、それ自体、家臣にたいする背信となる。

諫言を軽んじたうえで、伽という義務の不履行がたび重なるようならば、いまだ戦火の臭いがくすぶる時代(家康健在時の大坂の役、あるいは三代家光統治時の島原の乱までを戦国時代とする説もある)ゆえに、極論のようだが、秀秋はしょせん養子でしかなく、義父はむろんのこと、主筋である毛利家始祖の元就の血流でもない主君であり、よって道義的にみても、そのすげ替えやさらにいえば、下克上すらもまだ不可能ではなかったはずと云々。

というのも、秀吉が制定した惣無事令(私闘、とくに大名間の)は有名無実化(関ヶ原の戦いはまさに)しており、家康による武家諸法度はいまだ制定されていない、そんな端境期であったのだから。

ちなみに下克上においては、成りあがりの“蝮(まむし)の(斎藤)道三”はその常習犯として、ついに国盗りまでなしとげており、ことに有名である。

流れをもどすとしよう。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(76)

何やらいわくありげな死ゆえに、江戸期からのウワサ、毒殺だったとの説をとる(理由は後述する)として、おそらくは遅効性のヒ素による中毒症であったろう。

文献にある病状(高熱・不整脈・皮膚の黒色化・おそらくは意識混濁など)も、ヒ素服用後の症状とおおむね一致しているからだ。

発病後に脈をとった医師の診察(一部にある梅毒説をボクは否定する)の所見では、“しだいに病重くなり、舌不自由にして”と。言語障害は、意識混濁のせいとみてとれる。

そして死の数日前、「嫡男を守り立てよ」とのかんたんな遺言をのこしてはいるが、にもかかわらず辞世はない。清正ほどならする当然の儀式をおこたったのも、意識が混濁していたからではないか。

ちなみに秀吉の影武者も家康も、その辞世は有名だ。

また“熱を病みて卒(しゅっ)す(死亡)”との文献から、高熱がつづいたにちがいない。ほか、“脈よろしからず”とも。ヒ素中毒は低血圧を誘発し、けっか、不整脈となる。

さらには皮膚が黒く変色していた旨も【清正記】に。ヒ素中毒死だったならば末梢血管障害が原因のチアノーゼにより皮膚が、日照をひかえていたであろう病床では青紫色(チアノーゼによる変色)ではなく、黒色にみえたともかんがえられる。あるいは肝障害(これもヒ素中毒の症状)をおこしていれば、どす黒く変色してみえたとしても不思議はない。

ただ侍医の江村専斉はお抱えにもかかわらず、診察の結果をのこしていないもよう。文献が見あたらないからだ。

憶測するに、近しいからこそ後世をはばかり、故意をもって記さなかった、さらにいえばひとかどの人物とみていただけに、名誉を傷つけたくなかったのかもしれない。約ひと月、よほどの苦しみようだったとすれば、みるに忍びなかっただろうし。

というのも、ヒ素中毒がもたらす症状をあえてあげるならば、泌尿器の焼けるような痛み、精神障害、呼吸困難、肝臓をふくむ多臓器不全による嘔吐、はげしい腹痛と頭痛などである。

なるほど、恐ろしいかぎりだ。人情から、書きのこせなかったとしても不思議はない。

さて、その毒殺のやりくちとしてだが、家康いわく、京から肥後までは長旅であることもふくめ、「清正殿、なにかと気苦労もござったであろう。ならば健やかさを保つには、この薬をのむにかぎる」と勧めた…か、あるいは信頼できる家康私設の薬師(くすし)(現行の医師や薬剤師)を帯同させた、のではなかろうか。

これの傍証に値するか、御三家である水戸藩に、二条城での首脳会談ののち、だされた毒入り饅頭が原因で、清正は死んだ(趣旨)との資料が、信頼するかはその人しだいだが存在はしているのだ。

これらから、動機だけでなく、アリバイ的にも、また心証も状況証拠も、クロに近いとボクはおもう。よって家康にたいし、つよい疑惑をもたざるをえないのだ。

ぎゃくに、家康を亡き者にせんと謀ったとされる人物が複数いた。加賀藩二代当主の前田利長もそのひとりである。

これに信憑性がある理由として、浅野長政・大野治長(豊臣家の家臣)らが連座で、他藩へお預けの身という厳しい処分をうけているからだ。

その前田利長にかんしても、手段や事情はちがうが、老獪ダヌキは得意とする手をつかったのである。

利長の父で家康と同格の豊臣政権五大老のひとり、その利家が、関ヶ原の合戦の前年に死去したのだが、それで策謀が可能となった。

とはどんなやり口、いかなる理由で?

前田家が、徳川家領内に攻め入ろうとしているとの流言飛語を、家康はまず、世に撒きちらした。いわれなきの類(たぐい)である。

いっぽうの前田家は、利長の交戦派と回避派で対立。そんな困惑ぶりをみすかすと、つぎに「徳川が大名どもをしたがえ、防衛のために攻めこむ手はずをととのえている」とのウワサを、間者をつかい追加で流したのである。

利家が存命ならば、こんな茶番など粉砕したであろう。だが、戦国乱世における何でもありの、そんな謀略や暗躍に不慣れなボンボン利長は、うろたえた。

どころか、大大名の前田家にもかかわらずビビリまくった。白旗をたかく掲げるがごとく、恭順の意をあらわしたのである。到底勝ち目がないとおもったのだ。

ために母の芳春院(まつ)は、恭順の証しである人質として、江戸にくだっていった。

こうして前田家はいとも簡単に、度しがたい古ダヌキに屈したのだ。関ヶ原において、東軍につかざるをえなかったのである。

そうではあるのだが、

ただ、前田家の良心を垣間見ることもできる。利長の弟利政が、西軍に属したからだ。

おかげで改易させられたのだが。ただしこれには、べつの説もある。東西のどちらが勝っても、前田家の存続が可能となる。

また真田家も分断をしたのだが、穿(うが)つむきは、権謀術数にたけた昌幸が自己防衛をはかったのではととらえている。

ちなみに当時の当主だった真田昌幸は、弱肉強食といわれればそれまでだが、領地のことで煮え湯をのませた家康をにくんでいた。対照的に、所領を安堵してくれたのは秀吉であった。で、恩義もあり、また勝ち馬にのれるだろうと、豊家に加担したのである。

いっぽうで嫡男の信之はすでに、本多忠勝の娘で家康かあるいは秀忠の養女でもある小松姫を正室にしていた。よって、徳川につかざるをえなかった、との見方もできる。そういえば大坂の陣で豊臣に与した弟の信繁(=幸村)は、大谷刑部の娘を正室にむかえていた。

愛情のゆえか兄弟はともに、妻の実家(刑部は関が原にて自刃し、のち改易されているが)に斟酌をし、そちらについたのではとの説も。

当節では、後者とするほうが有力である。

いずれにしろだが、戦国乱世を生き抜くというのは、それほどに並大抵ではなかったということだ。

群雄割拠の大大名ですら、そのほとんどが没落したことからもわかる。

今川家、武田家、後北条家(一万石余の弱小大名に)、織田家(信長の子息が大名として生き残ったが、影響力などはみる影もない)、長宗我部家、豊臣家などがそうだ。

また、上杉家、そして毛利家や島津家も、最大だったかつての領地とは比すべくもないほどに押し込められてしまったのである。

なれど、これらはおくとして、豊臣への恩義をうらぎらせた徳川、であったにもかかわらずその後、問答無用の改易(領地没収など)を無慈悲にもおこなっている。あとでのべる福島正則は、憂き目にあったその代表格だ。

しかし、その正則より酷い目にあった大名が存在した。小早川家である。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(75)

秀吉の遺徳をたたえ、慰霊と追善のための寺社造営を秀頼親子に推奨(豊家の戦費ともなりうる蓄財を大幅に減少させるのが目的)していたのだが、そのうちのひとつ、1614年、豊臣家が再建した方広寺の梵鐘に、それはかくれていたのである。

のちに“鐘銘事件”と称される、梵鐘にしるされたその一部、“国家安康”と“君臣豊楽”というたった八文字にいちゃもんを、無理やりつけることができたのだ。これが、大義名分である。

いわく、“家康”を“安”の字で分断したのは、身の切断をねがう呪詛であると。このような言いがかり的抗議をし、さらに“君臣豊楽”においては、豊臣の繁栄をねがう文言だ、ときめつけたのだ。

自家の繁栄をねがってなにが悪いのか、理解にくるしむが。

つまり難癖でしかないのだが、むろんケンカをうる口実として利用したのである。

それにしても家康、高齢のゆえに、あせっていたにちがいない。目の黒いうちに、根こそぎ消しさらねばならないと。二代目将軍にすえた秀忠では、“荷がおもすぎる”と、そう考えたのだ。

理由だが、十一年前にさかのぼらねばならない。

“天下わけめ”の開戦前夜、江戸を発したのち、別働隊として上杉勢ににらみをきかせつつ、信濃一帯を傘下におさめておいて、そののち,関ヶ原へとむかう目算であった。

初戦として、東軍側から西軍へ寝返った真田本家に、眼にもの見せんとしたのだ(第二次上田合戦)。

ニ・三日で片がつくはずだった。ところが、十倍以上の圧倒的兵力にもかかわらず、真田昌幸ひきいる約三千に手こずり、けっか、関が原に参戦できなかったのである。遅刻のせいで、東軍が敗北していたかもしれないのだ。

ちなみに、東西の陣だてをみたドイツの将は、西軍が勝ったはずと自信をもってこたえたという。

ひとえに、小早川や脇坂家・朽木家をうらぎらせた家康の周到さが、三成より数倍うえだったということだ。

それはそれであって、参陣できずの大失態のゆえに、秀忠の評価を低くしていたからだった。

長男信康亡きあとの三男秀忠(ちなみに秀吉の命名により、その一字だけでなく、豊臣姓までも付与されている)ではあったが、最悪のばあい、後継者候補からはずされる可能性すらあったとの話は有名だ。

それはいいとして、猜疑心がつよく慎重居士でもある家康のこと、秀頼への脅威をかんじたのは二条城での再会直後、ではなかっただろうとボクは思う。

いよいよ会見がせまったその段階となって、秀頼という存在にたいしなんらかの思索をしはじめた。直後かそれとも以前か、たいした違いではないだろうが、以前の可能性のほうがつよいとみるべきではないか。

それまでは徳川体制の確立に日夜、余念がないほどに家康は、忙殺されていたにちがいない。政権を手放さざるをえなかった豊家の二の舞だけは、演じまいと必死であった。

その最大の施策が、1605年の、秀忠への将軍職移譲だった。秀吉との約束を反故にし、豊臣にはけっして実権をわたさないぞと、天下にむけ檄をとばした、つまり宣言をしたからである。

しかしじつは移譲後も、実権は秀忠にはなく、家康が駿府城にてにぎっていたのだ。禁中並公家諸法度や武家諸法度の制定に代表される、いわゆる、大御所政治である。

だがそのまえに大御所政治の前段階、1603年の征夷大将軍となる以前からとりくんでいた家康の事業についてのべねばなるまい。

関東への移封後、手始めの江戸と近郊の整備がそれだ。具体的には、大規模な埋め立てや治水工事および街づくり、および範囲もひろげていった開墾や灌漑工事などである。

関ヶ原以降も巨大プロジェクトを進行させ、それと並行しつつ、以下は大御所政治であるが、李氏朝鮮との国交回復(文禄・慶長の役の戦後処理)、オランダとの交易の許可、キリスト教にたいする禁教方針の決定、御三家の確立などなど。

そして豊家ならびに、とくに西国外様大名にたいする備え、だ。関が原直後からそれはなされていった。

具体的には国がえである。井伊直政を現滋賀県北東部(彦根城築城は直政の死後)に据え、また家康の次女をめとった池田輝政には、堅牢な姫路城でもって睨みをきかせた(とくに豊家の地盤である、京・大坂を挟みこむためでもあった)、等々。

くわえて、人事や姻戚関係の構築による幕藩体制の強化等がそれだ。

どうじに、豊臣の所領を三分の一以下に減封したのである。また秀吉への追善供養のためと称し寺院の改装や構築をすすめ、蓄財を浪費させるなどの策も講じ、これで力をおとろえさせたと満足、秀頼については思慮する必要性すらかんじないまま、日々忙殺されていたのである。

そんななかで、七年ぶりの再会を機に、無視してきた秀頼という存在をこれからは注視すべしと。

最大の理由はやはり、秀頼が発していた、今でいうオーラである。くわえての、落陽まぢかと旭日の勢いという年齢の落差、鏡に映さずともわかる加齢とおとろえに、湧きいずる恐れをいだいたからであろう。

ならば、どうすべきか?と、当然ながら。で、脅威はのぞくべしと即断したのだ。

その結論だが、豊家には最悪の、清正たちによる和解のその破棄をめざすのではなく、破壊を画策したのである。豊家の完全なる消滅こそが、最大の安全策だからだ。

そしてこれも史実。世紀の会見のあとの清正だが、帰国とちゅうの船上にて発病し、約一カ月ののち、回復することなく死亡したのである。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(74)

ところで…、

三成は、前記のごとく悪逆非道なそんな秀吉に強諫(つよくいさめる)もしたが、いっぽうで恩義にむくい、命がけで豊臣家を護ろうとしたのだ。せっかく治まった国内に、戦火を再燃させたくなかったからでもある。

この想いが、既述したように…万民はひとりのために、ひとりは万民にむけて尽くせば太平の世がおとずれる、“大一大万大吉”という標榜となり、で、安寧への願いを紋どころとし、また旗指物としてもつかったのだが、これこそまさに、万民のためであった。

そんななか、かれの想いと人間性に、盟友の大谷刑部(ぎょうぶ)は是非もなしと肚をきめ、つき従うべく1600年、不自由な重い病身に鎧をつけたのではないだろうか。だが本音、かれは不本意であった。家康との戦争に勝てるとする本気度は、かなりひくかったからだ。

ひとえに、他者との意思疎通を不得手とする三成の、人望のなさによるとかんがえた。

目から鼻にぬける三成には、加藤清正や福島正則以下が愚物にしかみえなかったし、だから懇親の情をもてないどころか、軽侮してしまったのである。

そんな欠点を、友の三成に忠告もし諫めもしたのだった。

 いっぽう豊臣恩顧の大名で、武断派の清正と正則および黒田長政・細川忠興・加藤嘉明・浅野幸長・池田輝政ら、それに藤堂高虎(秀長の元家老)や前田利長らは豊臣家にたいする恩義をかえりみず、だけでなく亡き影武者秀吉の子、秀頼のあきらかな窮地にもかかわらず、家康側に与し、関ヶ原で西軍をやぶったのである。

忘恩の、いや、恩を仇でかえした非道な人非人たちではないか。もちろん、これとはことなる論義も存在するだろうが。

たとえばその論。清正など数人は、秀頼を一大名に格下げしてでも豊臣を存続させようと願っており、だからなのだがそれを危険視した家康により、清正は毒殺されたとの説が当時からあった。しかも、語りつがれるほどに有名なのである。

というのも、大坂冬の陣の三年前、清正と浅野幸長は、秀頼と家康の和解のための会見をとりもち、豊家の安泰をはかろうとしたからだ。また正則は、秀頼の警護にあたっていたとの説もある。

天下盗りの野望をもつ家康としては、愉快な事態ではけっしてなかった。

ましてや、聡明さをかもすほどに立派に成長していた秀頼。いまでいうところの、まばゆいばかりのオーラをはなっていたのだ。

だからなのだが、この会見は歴史がしめすように、かえって仇となってしまったのである。

二十五年前、小牧長久手の戦いで野戦上手の家康は、勝者となった。にもかかわらず外交戦で苦杯をなめ、けっか、秀吉の軍門にくだることに。

そのときの屈辱がよみがえり、“秀吉の血脈をうけつぐ秀頼は脅威”と。よっていまのうちに討つべしと、決したのである。

それは、“なにかにつけ弱気”の裏返しのゆえんだ。というのも、家康の履歴書を紐解くと、けっこう“あかんたれ”だった、からにほかならない。

信長から、信康(嫡男)と築山殿(正室)殺害を命じられたときにも、それにしたがった。秀吉にも、頭があがらなかった。そういえば信玄にいどんで、三方ヶ原の戦いにて敗走するさいに、恐怖のあまり脱便している。そのときの屈辱を絵にのこしたことは、有名である。さらには本能寺の変の直後、逃走中の伊賀越えにおいて、史実、敵の追手をおそれ、逃げきれないからと自刃しようとした…エトセトラ。

くわえての最大の恐怖。豊臣恩顧の大名たちが、偉丈夫で頼もしげな秀頼に接し、秀吉への恩義がよみがえり再度の寝返りで、徳川に反旗をひるがえすかもしれないと。

ところで秀頼にたいし、二条城で会見するいぜんの家康のイメージでは、子供のままであったであろう。

なぜなら1604年、“太閤殿下七回忌法要”での再会を最後に、会っていないからだ。そのさい秀頼は満で十一歳にならんとする、まだ少年であった。

だから関が原から十数年間、豊臣氏にたいする脅威など、家康はかんじなかったのだ。

豊家からみればおかげで、存続をあやぶむまでの禍はふりかかってこなかったのである。たしかに豊家の所領が、220万石から65万石へと大幅削減されはしたが…。

ところが1611年の三月以降、満をじしての、豊臣家根絶やしの戦いに着手するのだ。二度の大坂の陣は、その総仕上げである。

しかしそのためには、開戦の大義名分がひつようであった。各藩に動員要請をかけるにたる、そのための理由である。だからこそ虎視眈々と、豊家のようすを窺うにぬかりはなかった。

そしてきっかけは、意外なところから転がりこんできたのだ。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(73)

大航海時代からの近代において、世界を支配してきた西洋人が編みだしていった説が、流布の歴史として定着してしまっている。

で、端的な例とは?

いやそのまえに、以下も当たりまえなのだが、この前後の記述も白日夢でおもったことである。

さて、端的な例だが、

教科書にも記載された、コロンブス(クリストバル・コロン)による“新大陸発見”云々。くわえて、それ以降の西・伊、さらには英・米にとって、都合よく塗りかえられすぎてしまった、そんな歴史、…とやらだ。

しかしながらここで、今日までにおいて言い尽くされたことを、あえて述べる。

そもそも、“発見”とはなにごとか!ということだ。無礼千万このうえないではないか。しかも北米大陸には、奴隷商人でもあった人非人男は一度たりとも上陸していない。

今日でいうところのベネズエラにはたしかに上陸し、そこが大陸の一部だとは認定している。が、南米大陸との認識などなくインドだと信じ、そう報告した。そのインドだがすでに、欧州人が知る地なのだ。

ならばどこが、“新大陸発見”なのか!コロンブス自身が、新大陸とはおもっていなかったことからも、不条理は明らかである。

また、コロンブスたちが上陸した島々を西インド諸島と呼称し、現地のひとをインド人とよんだことからも、“新大陸発見”であろうはずがない。

そのおかげなのか、超極悪人だからなのか、いまでもアメリカ大陸と命名されそれが流布してひさしい。

未知の、とは命知らずでしかない南緯五十度にまで南下し、そこで極寒と暴風雨に阻まれた探検であった。しかしながら、賞賛をこめて到達したと表現するにたる1502年の冒険により、アフリカ大陸でもインドでも、南緯からありえないとの論文を発表した。

つまり、そこの陸地が欧州人の知られざる大陸だと断定した、アメリゴ・ヴェスプッチに由来しているからである。

ちなみに学問を探究するかれは、探検家にして地理学者でもあり、金銀財宝をどん欲に求めつづけた大殺戮者とは隔絶の人物なのだ。

くわえて、北米大陸への上陸はそれよりもあとのことで、しかも西欧人(ノルマン人=バイキングをのぞく)が、一万二千年以上も遅れてやってきただけの話。発見どころか、程度のひくいキリスト教の世界観がうみだした、まさに寝言としかいいようのない、笑い話そのもの。

さらには、すでに中米においてはマヤ文明やアステカ文明などを栄えさせ、北米においても文化をなした先住民族がいたことを無視した、暴言ですらある。

あえて言おう。“発見”、とは、西洋人の傲慢そのものによる所産なのだ。

さらにいえば、先住民族を人間としてみていないからにほかならない。野生の動物かなにか、とでもおもっているのだろうか!

すくなくとも傲慢だからこそ、英国人による“新大陸への入植”といういいまわしがなされ、また米国は、“西部開拓史”なる呼称をつかって平気である。先住民にたいする、あきらかな“全面的侵略・掠奪・大量殺戮史”なのに、だ。

もっとも事実だからとして、以下は過小にすぎる実体なのだが、それでも“サギ史・人ごろ史”とも、欧米人はいまさら呼ばないであろうが。

たしかに、略奪や殺戮をみとめている良心的なひとたちも、皆無ではない。だが大多数はそしらぬふりで、一部には、正当化するふしぎな頑迷固陋もいる不可思議。

そういえばネオナチのひとは、ヒトラーを英雄視し、ホロコーストなどなかったとすら主張する。

見かたや捉えかたは自由だが、ウソはどこまでいってもウソである。当然、顰蹙をかうは必然の面々だ。

悪魔のささやきを遮断し、じじつを正視するならば、探検家・冒険家だったとするコロンブスへの評価だが、実態とはかけ離れすぎているとしか。

自国で困窮し落魄しつつも富をえたいという私的欲望のために、インドをめざした伊太利人が、植民地化による莫大な利益をもくろんだ西班(スペイ)牙(ン)王室からの資金提供をうけ、長い航路のすえ、西インド諸島の存在を西洋人としてはじめてしった。…これがまずは前提であり、正体である。

それだけであれば、英雄視もゆるされていいかもしれない。

が、黄金を略奪するために、五百万人以上が野望の犠牲(奴隷とされた人々や疫病による病没者もふくむ)となった。この数値が正確性にかけているとしても、あきらかにかれをば、略奪者・征服者とよぶしかなく、いや、それ以外はありえないのだ。

それでもあえて、百歩ではなく地球半周の二万キロゆずっての、人類史的な一評価として好意的にみるとだが、西班牙から北米大陸手前までの航路を公式?に発見した人物だったと。

まあ、これが最大限である。なぜなら繰りかえすが、インドをめざしての航海であり、インドとおもったのだから。

さて、悪魔の化身についてはこれくらいにして、ほか、歴史における真実だが、上記のような故意に、ではなく単にときの経過のなかで変色したり、埋没してしまった例も、すくなくないだろうとも。ちなみに埋没した例は、それをみつけだすに窮する。

そこで、変形においてわかりやすい例が、美化されたり興味本位に修飾された“忠臣蔵”や“水戸黄門”などであろう。

また戦国武将なども、とくに江戸時代に美化されたか変質された、とのことだ。信長しかり、信玄しかり、エトセトラ。

太田牛一の“信長公記”とルイス・フロイスの“日本史”をのぞき、史料としては後世の文献がおおく、一部たとえば三成にたいするをのぞくと、悪意まではかんじないが、信憑性に問題があるからだ。

いずれにしろ真実と、後世における認識とのあいだには、数おおくの差異が存在しているということ、つまりは、そのていどの有史、なのである。

所詮、これらの変形や歪形は、歴史がもつ宿命そのものといえよう。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(72)

世界が驚天動地した、1989年11月9日の夜の、ベルリンの壁崩壊だ。

あのとき、ハンマーやつるはしを手に壁を壊していたひとびとも、映像をリアルタイムでみていた全世界のひとたちも、まさか壁崩壊が、ソ連邦の瓦解の主因となるとまでは、思いもよらなかったであろう。

アリの一穴というが、このとき壊された壁は、たしかにほんの一部であった。が、歴史の大転換となったのである。

その当時のいきさつをざっと荒く綴ってみる。ただし、体制崩壊や革命であるのだから、短期日でそれがなろうはずもなく、よって記述に、タイムラグが生じるのは致しかたないと云々。

だがそのまえに、キーパーソンを記しておかねばならない。ペレストロイカを断行していたソ連のゴルバチョフ共産党書記長(当時)である。かれが存在しなければ、冷戦は終結しなかったし、だけでなく東欧各国において、多大な血が流れていたであろう。

で、1989年11月9日の夜以降に流れをもどすと、ドイツは壁崩壊後に東西統一。東欧諸国においては共産党支配体制の瓦解。チェコスロバキアではビロード革命。ルーマニアは大統領チャウシャスクの公開処刑。そしてポーランドからはじまる民主国家の成立。ウクライナやバルト三国などの独立と、ソ連邦の瓦解。

強大だったソ連ですら云々。そういえば歴史上最大だったモンゴル帝国もだが、あえなく滅んでしまっている。

停滞、あるいは固定化してみえたふたつの巨大国家による二十世紀の世界の体制も、堰をきったように多大にすぎる劇的変化をしたのである。

月並みだが歴史は、顕在化、あるいは可視化の有無はべつとして、うごいているということだ。

ついで歴史とは?の、さらなる普遍的事実。

現代、それは必然の、次の現実へとつづいていく飽くなき流れの、その瞬間瞬間の連続である。よって、その一瞬一瞬こそが現代そのものなのだ。

むろんこれも当然だが、現実を体験しているひとたちにとっては、いまのその一瞬あとからが、平時的日常であったとしてもあえていえば、それが歴史なのである。

歴史とはなにも、大事件やトピックスのことをさすのではない。むしろ、平凡な日々の一瞬一瞬が過去となった瞬間、…歴史となっていくのだ。

くりかえすが、ひごろは変哲のない日常、あるいは、ごくごくたま…にも巡りあわない前代未聞、そのどちらであろうとも、本来ならばいうまでもなく事実がそのまま、時のながれに刻印されつつ形成されていくもの、なのである。

だから事実としておこった、その現実のつみ重ねでしかないと。

いやはやこんな見解、無味乾燥でおもしろみにかけている、または教科書的にすぎるといわれれば、そのとおりである。

ならばと歴史の実体について。…歯に衣(きぬ)きせなければ、それは虚と実。いいかえれば、ウソとまことということだ。

つまりは、当代の権力者や支配者たちが、じぶんに都合のいいように事実を歪曲したり、べつの虚偽を用意して書き換えてきたものであり、極言すればそれこそが、おおむね人類の有史といえる。

例をあげよう。まずは石田三成像。徳川幕府下では、極悪人あつかいであった、豊家を乗っ取ろうとした忘恩の強欲ものとして。しかし実体は、盗人家康から豊臣を、秀頼をまもろうとしていたと既述したように、これが史家の大多数の見解である。

いまひとつは、大化の改新あらため“乙巳(いっし)の変”で殺害された蘇我入鹿。とぼしい史料のゆえ、人物像ははっきりしないが、天皇家側がのこした一方的な悪人説を、良し、あるいは鵜呑みにするのはいかがなものかと。

権力闘争に、斬殺により負けたけっか、誹謗中傷を流布されたわけで、いっぽう、遣唐使による国力増強に尽力した人物との説も。国家の枠組みが未熟そのものだった倭国を、近代法治国家にしようとしたとの、学者の見解である。

などをふまえて、ついで、世界に眼を転じるとしよう。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(71)

朝廷の威をかりて、幕府は権威回復をはたすべく、桜田門外の変直後に画策した公武合体。具体的には、孝明天皇の異母妹と将軍家茂の婚姻という政略による関係強化をなしとげる(1861年)。

それでも各藩の動揺は、おさまらなかった。そんななか開国(鎖国自体なかったとする学者もいるが)と不平等条約を因とする、攘夷論が時流となり、諸々のけっか、薩英戦争や下関戦争(英・仏・蘭・米の四カ国と長州藩の戦争)が勃発。

だが、武力の格差がおおきすぎたために敗北をきす(1863年と64年)。

こうしてハチの巣をつついた、ではすまないほどの大混乱がおこり、帰結として、列強への攘夷など画餅だったとおもい知り、尊王へと潮目がかわった。

討幕ののち天皇中心の中央集権国家をつくらなければ、日本は分断され植民地化するとの危機感が横溢。そして1866年、薩長同盟が成立するといっきに討幕へとのながれが。

この機運のなかの1867年、唐突にも大政奉還(徳川幕府の終焉)が宣言される。だがこれには、将軍慶喜による奇想天外のたくらみがあったと、司馬遼太郎氏も。新政府には行政能力が欠如しており、けっか、王政復古を断念するはずだと。

しかしながら慶喜のおもわくは 画餅と化した。

いじょう、桜田門外の変以降、七年と数カ月で大政奉還、というふうに時間の経過につれ加速していったのである。

そうしてだが、桜田門外の変の目撃者にかぎらず、日本人のほぼ全員が激動の巨大な潮流に巻きこまれ冷静をかいていった、まるで“ええじゃないか(大政奉還前後の社会現象)”の狂喜乱舞にのみこまれでもしたかのように。

つまり体制の変革に七年以上がついやされ、さらには維新後、既述した混乱と内乱(佐賀の乱や西南戦争など)をへて、そんな多大な流血からの学びもあったればの国家体制の確立。

というように、過去として認識できる平常心があってこそ、歴史として掌握できる、ということである。

 あ、忘れてはいけない世界的大事件が、はるかかなたの欧州でおきていた。それはたかが十数年前のできごとである

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(70)

近ごろ(2003年現在)では、インターネットが全世界を網羅し、ブログや写メなどを駆使して、リアルタイムで発信や配信ができるようになった。とりもなおさず受信側も、即座に情報をえられるわけで。

とはいうもののわずかだが、そこにはとうぜん、時間にズレが生じているのである。

前述のくだり、場所がたとえばテレビ局の本社もしくは大使館だったとしよう。でもって、そこでたてこもり事件がおき、しかも長期化したばあいは、歴史的との表現に違和感はない。

ついでの仮定でもうしわけないが、数日間のその発端を、つまり事件発生の瞬間を近隣が目撃しつつパソコンなどをつかって発信したとして、でもって歴史とはなにかを考えるうえで問題にしたいのは、事件発生直後であろうともすでに“過去”だということだ。

あたり前である、だがそのいっぽう、現実に大事件を現在進行形でひきおこしている犯人は、一般的には異常な精神状態にあるため、その後の影響などを、せいかくに把握していない愚もありうる。

また被害者や目撃者も、原因や背景・規模・影響など、事件の全容を掌握できていない当事者にすぎず、過去という客体的視野の広がりうる範疇にはいない。

ひとは、突然の身近なできごとにドギマギしうろたえ、冷静さを欠いてしまうが通例だ。平常心と時間的ズレ、また冷静と空間的距離感とは相関関係にある。

当事者はまさに歴史のなかにいながら、その時空ともがたんなる現実でしかなく、そのひとたちにとっては現代そのものなのである。つまり過去ではないと。

たとえるならば、桜田門外の変(1860年)がわかりやすい。犠牲者は、過去のひとだから対象外だとして、

大事件の張本人である浪士たちも、そして大老井伊直弼暗殺の目撃者も、歴史的現場のなかには.たしかにいた。がその時点では、極論…、まだ“歴史”として、つまり事件がなにを招くか、その意義を認識できてはいなかったはずだ。

具体的にのべると、大老直弼は、実質的に幕府そのものですらあった。

というのは、水戸家徳川斉昭の子息、一橋慶喜(のちの十五代将軍)を排斥しつつ、将軍にすえた紀伊の家茂を傀儡化し、全権力を握っていたからだ。

そのひとを“暗殺”…。

この驚愕の大事件により、江戸幕府の衰退が急速化するという史実。および幕末から明治維新へとの大変転。まさに歴史的意義が発生したわけだが、それが具現化するのはしばらくあととなるからだ。

現代ならばマスコミが社力のかぎりを尽くすほどの一大事件、なのだが。それでも社会が一転する、ましてや明治維新の惹起、まではだれびとも洞察できなかったであろう。

さてこのあたりをできるかぎり簡略にしつつ、経緯をのべよう。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(69)

では、もういっぽうの過去についてはどうか。

まごうことなく不変不動なわけで。だから、切実とはならないし身におよぶこともむろんない。

そのぶん、ゲーム感覚でおもしろさをバーチャルとして、楽しめるのである。

歴史に興味を持てない、あるいは知識が希薄なひとでも、織田信長や坂本龍馬が横死したことは有名だから、知らないということはないであろう。

だが、1582年六月一日夜半から二日未明にかけて、その信長が本能寺にはおらず、よそで饗宴をひらいていたとしたら…。

また、1867年十一月十五日の夜、カゼ気味ではなく体調良好な竜馬が好物の軍鶏(しゃも)鍋を欲せず、密議をかわした中岡慎太郎と屋台のうどんでも食べにでかけていたならば…。

エトセトラ、エトセトラ。命拾いをしたそのあとを想像するだけでも、興味はつきないではないか。

しかしながら、所詮は意味をなさない虚構だというのも事実。ゆえに、これでおく。

ところでさらに、たびかさなる閑話にお許しをねがいつつ、“歴史”について考察してみたいとおもう。

そののっけから、「わかりきったこと」をあえて言わせてもらう。歴史は、過去においてでしか存在しえないと。

でこの当たりまえをふまえつつ…、さて、ある事実が因となり、驚愕の事件がひき起こされたとしよう。

それをその直後に知ったひとが、規模やそのあとの社会的影響にもよるが、歴史的大事件と表現することもありうるであろう。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(68)

それを理解したうえで、まいどの横道。まずは未来についてのバーチャル。

たとえば日進月歩で進化する新技術、そのなかにはガン治療など、医療のめざましい進展に寄与するものもあるであろう。

さらには経済への波及。とくに雇用にだが、新技術による消失と逆にあらたなる創出、および画期的な新製品(過去においては電話やロケット・ロボット等それ自体もだが、そこから派生する事物)、これらが未来を劇的に創りだし、あらたな展開をみせていくだろうと想像できるではないか。

ついで、将来的には、民間企業が宇宙開発に着手する可能性も…。

そんなきたるべき未来が、実生活にどころか、もっといえば人生に深くかかわってくるわけで、ということはやがて、まちがいなく切っても切れない切実な現実、具体的には収入の増減、どころか、仕事の存続とふかく繋がっていくのである。

ロボットにかぎってだけでも、単純労働なら、あすにも勤労者を失業させるかもしれない。いやいや、たとえば弁護士という職種だって、とってかわられる日がこないと断言できようか。

それとは逆にしんじられない幸運にめぐまれ、宇宙旅行会社がうみだす巨万の富の海に、満悦しつつ浸っているかも。つかりすぎて、溺れているかも…。

「なんやそれ…、つまらん」仮想のはなしならいらないと。ならば、こういう事実ならどうであろう。

いまや、世界に冠たる任天堂。しかし創業当時は花札やトランプを製造販売する町工場規模であった。それがファミコンの開発・製造・販売で、世界企業へと。平たくいえば、“鯉(コイ)が飛龍へと大変身”をとげ、巨万の富と巨大な雇用(日本以外、欧米の販売拠点は八、中韓には三、研究開発拠点も欧米に四、日本にも四ケ所)などをうみだしたのである。

おかげで潤ったひとも数多(あまた)。また、株で金満家の仲間入りをはたしたひともすくなからず、なのだ。

ただそれが日本人であれば、いうことはないのだが…。との、情実な発言はさておく。

いずれにしてもやがてくる未来、だれもが時空の波に、その影響の多寡はあるにせよ漂い、世事との隔絶をなしとげないかぎり、さらされていくのである。かといって、世捨て人にはなりたくないし。

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