今夜は、最高の宵・良い・酔い

 白日夢のおかげで、小学生時からの疑義にようやく、満足のいく解答をえることができたのだった。

 秀吉は、豹変したのではなかった。戦国期にあって、できるかぎりの流血を避けてきた羽柴秀吉と、残虐を平然となした豊臣秀吉は、双子とはいえ、まったくの別人だったのだと。

 くわえての、ボクが学生とよばれる身分になったころにうまれた疑念も、これで解消できたのだった。その疑心…、

 ひとつは、自身亡きあとに天下をねらうであろう徳川家を、暴君はどうして滅ぼしておかなかったのかというナゾ。

もうひとつはなぜ、渡海してまで不要な戦乱を二度もおこし、大量殺戮をくりかえしたのかということだった。

羽柴秀吉は、野戦においてもけっして戦下手ではなかった。その証拠が、山崎の合戦と賤ヶ岳の合戦における勝利である。

前者はいわずとしれた、信長が称賛したほどの戦上手の明智光秀が敵であった。じじつ、光秀のおかげで、丹波や丹後方面での信長の版図は拡大している。

後者においても、強敵上杉家に対抗できると、信長が確信してあたらせたほどの戦巧者の柴田勝家があいてであった。幾多の武勇から、鬼柴田の異名をとっている。

たしかに、1584年の三月から十一月にかけ、秀吉と家康は一度だけ戦火をまじえている。既述の、小牧・長久手の戦いがそれだ。

本来ならば、十万対三万(どちらも最大にみつもっての推定)という数倍の兵力を有していたのだから、この戦において秀吉が勝利していてもおかしくない。

だがあきらかに、(戦略上の勝敗云々は意見がわかれるとしても)戦闘自体は敗戦の憂き目にあい、なだたる家臣たちをうしなっている。一言でいえば戦術のミスである。というよりも、この戦そのものが、やらずもがなであった。

賤ヶ岳の合戦では味方にひきいれた信長の次男・信雄(かつ)を、戦勝から八カ月後の翌年頭、つまらないことで怒らせ、それが因となり、戦端をひらくことになったからだ。

その信雄だが、信長のDNAを受けついでいないのではないかと疑いたくなるほど、暗愚でしられている。

しかしこのていどの人物を制御できなかったのだから、羽柴秀吉らしくもないと言わざるをえない。

さらにらしくないのが、両合戦での敗北である。

人誑しの術をつかって、たとえば事前に、雑賀衆と根来衆のうごきをとめておくべきだったとおもう。

かれらは、数千丁の鉄砲を所有する有数の、独立した武装集団であり、信長でさえ手こずったほどなのだ。

かれらにたいし、懐柔の天才ならば、すくなくとも敵にまわさないくらいならできたであろう。ところが有効な手をうつことなく、おかげで秀吉は着陣をおくらされたのだ。

孫子に、“後(おく)れて戦地に処(お)りて戦いに趨(おもむ)く者は労す”とあるとおりで、名将にあるまじき愚行である。苦戦をしいられた原因のおおいなるは、これと慢心にあったとみていい。信雄は凡庸であり、味方は数倍の兵力だと。

で味方の将兵は、総大将の言動をつぶさにみているのだ。やはり影武者の、秀吉のこの体たらくでは、士気があがるはずもなかった。

また、本戦にはいっても信じられない負けかたをしているのだ。その典型が、信長直参の大名だった池田恒興献策によるといわれる、二万の兵による奇襲作戦である。

奇襲というのはほんらい、少人数だからこそ敵には気づかれずに実行でき、よって有効なのである。すくなくとも、桶狭間の合戦のときの信長軍のように、豪雨に乗じるなどの煙幕の役割をはたすものが必要であった。

にもかかわらず、なんの策もなく大軍をうごかしたのである。また、陽動作戦をとった節すらない。敵方はとうぜん気づいた。ましてや、野戦を得意とする家康である。

けっか秀吉軍は、副将級の池田恒興と森長可などが討たれるなど、大敗したのだった。ところでこの奇襲策、じつは、秀吉によるとの説こそ信憑性がたかいとのことだ。

やはり、である。白日夢をみるその本因は、ここにあった。くどいが、本物の秀吉が、こんな愚策を実行したとはかんがえにくいからだ。

さらにこの両合戦のあとも、秀吉には、家康を討つチャンスはあった。1590年の関東移封直後である。

家康が出生地の三河を拠点に、みずからの手で切りとっていった計五カ国を、秀吉の命で手放さざるをえなかった。必然だが、家康につき従う強力な三河家臣団も、父祖伝来のかれらの地盤をうしなったのだ。