さて、では仕掛けた本人家康は、どうであったろうか。

そこで思い出してほしいのは、三万余の軍勢をひきいていた秀忠が戦に間にあわなかった史実。

ということは、小早川がうらぎらなければ、三成方の勝ちとなっていたであろうと家康すらも冷汗が…。

さすれば“よくぞ、わが方に加勢をしてくれた”と、手放しで喜んだ、であろうか?

 察するに、いなである。それどころか、

“所詮、かのこわっぱ(ひらたくいえばガキ)こそ最悪の裏切り者(恩を仇でかえした)”であり、ならば次もまた裏切るかもしれないと、家康はそう勘ぐったと。

老獪家康なればこそ、つらかった幼少期からの経験をへたすえの慎重居士らしく、それゆえの疑心をもったとしても不思議はない。

ところで三成もそうであったが、競るようにエサを秀秋の鼻先にぶら下げあった史実、そしてそんなやり口をたがいが想定しあっていたこと。

もし掛け値なしの正攻法での戦であったなら、緒戦では三成軍が優勢だったとする史料もあり、小早川がうらぎらなければ、様子見だった毛利・その家臣の安国寺恵瓊、また長宗我部ら、だけでなく夜襲の是非で意見が対立したとされる島津家ですら、勝ち馬にのった可能性もけっして低くない。

となれば戦況は、徳川方を呑みこんだであろう

傍証として記すが、明治期、ドイツ陸軍の参謀少佐(軍事顧問)が両布陣をみて、西軍の勝ちと断じたとの逸話ものこっている。

ところがだ、エサに食いつき果報をえたにもかかわらず、十九歳の愚か者は、今ごろになって自責にさいなまれ、もがき苦しんでいるのではないか?と家康は。

ならば、しでかした事態のおおきさに気づいた秀秋自身が、汚名返上のためにと反抗をくわだてるかもしれないとも。

ついで家康が恐れたのは”関ヶ原”直後から、秀秋にたいする非難が、味方からですらあったことだ。“恩を仇でかえすは”“武将として言語道断!”“恥を知れ!”などの陰口。

さらに辛辣なのは、“着陣しての裏切りは武門の恥“どころか、“人にあらず“の言。

いや、それだけではないと古ダヌキの忖度。しょせん血流は豊臣である、三成ぎらいで離坂したが、幼少期をすごした大坂城は恋しいであろうと。

であるならば、徳川にとっては毒そのもの。だからこそ毒をもって制すべしと、吞兵衛に毒酒をのませた、

…なんて可能性だってある、ということだ。