協力者ならば、後年における清正毒殺のときより見つけやすいはず。平岡頼勝などの家臣たちがいるからだ。鷹狩りのさなかの急変も、休憩時に服毒させたのならば合点がいくし、そばで仕える重臣ならばこそ、毒の混入も造作なきことであったろう。
その毒だが自然界由来にちがいなく、また比較的採取しやすい、おそらくはトリカブトの根からえた猛毒だったのではないかと推察できる。
ヒ素よりも即効性がある点、および、トリカブト毒による病変と肝疾患を因としその死亡にいたるまでの症状とが、似ている部分もあるからだ。もちろん肝疾患は、長期間にわたるのだが。
で、奇怪といえる裏切りの理由や、家康に動機あり等の秀秋の夭折(若死に)については、以上にて。
くわえることの、既述の清正の変死、だけでなく、
さらなる言いたき大事なことが。それは、この二人だけとはかぎらない、変死?についてである。忌憚なくいえば、暗殺という疑惑をのこす死亡が、すくなからずということだ。
推理小説によくある、欲がさらに欲を増幅させ、目的成就のために邪魔者や敵を一掃していく、そんなタイプの連続殺人に、どうしてもおもえるのだ…。
なぜなら、以下は絵空事にあらず。史実として、同時代の大名における怪しげな死が数例あるからだ。
豊臣家殲滅のために家康が仕掛けた大坂冬の陣の前年、まだ三十八歳だった浅野幸長が、清正とおなじ症状で死亡している史実。
文禄の役当時、清正もだが、朝鮮半島で感染したのだろうとの憶測がなされる梅毒説なら、たしかに承知している。だが、感染から死亡にいたるまでの期間は、十年から数十年だという。また発症もだが症状自体にも個人差がでる。なのにふたりには、わずか二年の誤差しかないのだ。
逆にかんがえてみよう。参陣した武将はあまた。
なのに梅毒を因とする死亡は、このふたり以外に、基本的にはそれなりの信憑性をもつ説はない。
いやいや黒田官兵衛は…?かれについては、俗説ていどとして一蹴できるし、池田輝政にたいする説は、江戸初期の”当代記”が依処だから、幕府のご都合にかんがみ、当てにはできないのだ。暗殺説の流布は、さすがによろしくないのだから。
さあそこで清正についてだが、梅毒患者の体表にでる“バラ疹”がみられなかったようだ。また幸長はというと、それに関する記述をみつけることはできなかった。バラ疹なんぞ、存在しなかったからではないか。
いずれにしろ不可思議であり、ならば梅毒説は不自然だ、としかいいようがないことに。
輝政とおなじように、江戸期になってから、梅毒説を流布させた形跡があり、よって、梅毒説はどうしてもあと付けに聞こえ、…疑問符がつくのだ。
さらにだが、幸長も清正と同様、豊臣秀頼と家康の和解のための会見をとりもった大名である。ついで、偶然にしてはだが、幸長の父長政(秀吉の身内的存在。本能寺の変以降に与力から家臣になった豊臣恩顧の大名。長命で享年六十三歳?)も大坂冬の陣の三年前に。
さらには、秀頼と家康の会見に同席した池田輝政も、大坂冬の陣の前年に四十九歳で、急死している。
人間五十年といわれた時代だから、とくに“後者ふたりは適齢”との意見に、異をとなえるつもりはない。しかし、豊家の存続をねがっていた大名たちがこぞってなのだ。疑問をもつのも自然のことである。
たしかに、長政・幸長親子も清正や輝政も、家康に親近してはいた。
しかし家康からすれば、いずれは豊臣をつぶす戦をするのだ。とうぜんのことこの戦は、関が原で三成をたおした戦とは、色もにおいもまったく違うのである。
だから、かれらが味方ではなく、敵にまわる可能性をすてきれない、との疑心暗鬼をいだいたとしても不思議ではない。ならばうたがわしきは、消しておくにかぎると。
で、天下をうばいとった、そのあとの家康としては、秀吉の失敗を間近で見、さらには自身高齢だったせいもあり、いっそうの慎重居士ともなったであろう。