カテゴリー: 読書に徹する (page 8 of 9)

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(17)

 つぎの日も分析についやした。一冊ごとにメモをとったので順不同になってしまった事項を、まず、ふるい事跡から新しい順に並びかえた。

秀吉がいつどこでなにを、なぜなしたのか。その事跡のけっか、なにが起きたか。この整理で、歴史のながれがあるはっきりとわかったのである。

あとは記憶するくらいに読みかえし、秀吉のかたわらに、じぶんが控えるくらいに接近することにした。

 この日も翌日もさらにつぎの日も、寝てもさめても“秀吉”であけ暮れた。とり憑かれた…ように。

 三日間必死であがいた。が、それでも豹変ぶりの原因を見つけることはできなかった。_殿、ご乱心!_でかたづけられれば苦労はない。そんないい加減な結論ですませられたなら、この難問だけでなく、人生においてこれから発生するほかのおおくの難題をも、かんたんに処理はできるだろう。

ただしそれは、解決ではけっしてない。いや、正確には処理でもない、たんなる逃避だ。ところで人生だが、逃避でかたがつくほどに甘くはない、…おそらく、いや、きっと。

だから、母がそんな安易を、ゆるすはずがない。いや自分自身、なさけない(2003年のいまならば、敵前逃亡と明確におもうだろうから)と、のちのち悔いをのこす気がした。

 で、調べつくすしかないと。

気持ちをそこにおくと、専門書の抜粋をよみかえした。難解このうえなかったが、それでもこれではないかという箇所が、眸にうつった。その文献によると、秀吉は脳梅毒をわずらっていたらしいと。

推測するに、病気だろうけれど、だとしても、どういう類のものなのか、当時はしるよしもなかった。

抜粋をさらによみ進むと、それでは納得がいかなくかった。五冊目にあった医学者の、つぎの意見を支持するからだ。

「脳梅毒をわずらっていたとしても、そんな、非人間的な行動をとる可能性はきわめて低い」

さらに歴史学者は、「主君であり、秀吉にとって絶対者だった、いやそれ以上の、ある意味おそろしい神ですらあった信長がえがいた、天下統一のあとのつぎの目標、朝鮮半島および明国(当時の中国統一国家)への侵攻ならびに征服、(神になろうとした節のある)絶対者がなしえなかったことを、じぶんが実現することで達成できる“信長越え”。

それは絶対者にたいし、いだいた劣等感からの解放を意味した。

足軽時代はうち据えられ足蹴(あしげ)にもされ、才能を見込まれたあとも“猿”や“禿(はげ)ネズミ”と蔑(さげす)まれ、武将と取りたてられてからは、やすむ間もなく道具のようにあつかわれつづけた。

それだけに、心身ともに支配されていた絶対者を、その死後ではあったが凌駕することで、かれは信長の家臣としての秀吉ではなく、名実ともに天下人となり、“太閤秀吉”となっていったのである」と説明していた。納得できる見識だとおもった。

 しかしこれでは、豹変の説明にも理屈にもならないと。

文禄・慶長の役を指令した動機にはなるが、関白秀次一族郎党の惨殺の理由にはならない。

また、歴史学者たちがその根拠たる定説をいまだ見いだせない、千利休にたいする切腹命令。そしてキリシタン二十六人処刑が、禁教令に実効力をもたせるため、あるいは、日本植民地化をねらうスペインへの牽制だったとする、奇説の事由にもならない。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(16)

いままででいちばんで最高の勉学。それでもナゾは、まだ解けなかった。しらなかった情報を可能なかぎり収集したにすぎない状態だからだ。これから取りかかる分析によって、解明できるかもしれない。そこに期待した。

午後九時半、メモを読みかえしながらあらためてかんじた。

_世に名をのこすほどの人物、どころか、天下を手中におさめた超大物や。変心には、よほどの理由があったとしかおもえん_と、ブツブツ。

_かといって、どうしようもない小早川秀秋(節操のない変節漢の代名詞。秀吉恩顧という以前に正室ねねの兄の子で、しかも秀吉の養子となったまさに身内である。にもかかわらず、関ヶ原の合戦で敵方に寝返った)や、義経をだまし討ちした奴(藤原泰衡のこと。平安末期の1189年、父秀衡の意にはんし、頼朝の機嫌をとるために源義経を討ち、かえって、奥州藤原家を滅亡させることとなる)とは、おなじ変心でも、内容(実体と表現すべきだった)はまったくちがうし…_

子どものころ(小六もまちがいなく子どもだが)は、虫を、それこそ虫けらのように踏みつけて殺したなど、…ふだんは虫も殺さないボクにでも残虐性はあるし、酷いこともし、イヤごとを言ってもきた。だからといって、人格が逆転したわけではない。

これくらいの変化(へんげ)なら、だれしもあろう。

それとは根本的にちがう、豹変の真相や原因がなにか?だが、メモを片手に、皆目見当がつかなかった。

 やがて、ふとんの上でまどろみはじめた。で、そのまま、疲れから寝入ってしまった、ようだ。

目覚めは、ラジオ体操二十分前だった。照明は消されており、タオルケットにくるまっていたのだ。母のやさしさ、だろう。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(15)

もともとは文盲の秀吉だったから、誤字や当て字もおおいと、この専門書には。

小六(蜂須賀小六、のちの秀吉の家臣、ではない)のボクには、どれが当て字かもわからなかったくらいだから、手紙の内容をほとんど理解できず、その意味では影響はなかったといえる。ちなみに四冊目の書籍にも数通あったが、こちらはわかりやすい解説を記載していた。

ところが、五冊目の専門書はそれがおざなりだ。わからない奴はついてこなくてよい、という筆者のおごりをどこかかんじた。それに腹がたち、なにくそと、食らいつくようにしていどんだ。

ここまできて退くのは、まるでたたかいを放棄したようでくやしいからだ。つよい相手に怯(ひる)んで尻尾をまいてにげる様(さま)は、まさに無様である。見苦しい有様をさらして、夏休みをおえたくなかった。

とはいえ、辞書で調べてもわからないところは正直やりすごし、とにかく、秀吉の最期を看取ったのである。

 よみ終わったとき、目はショボショボ、肩はゴリゴリ、腰はガクガク、尻はヒリヒリ。それでも達成感に満足した。ところで、まわりにいた勤勉家たちは、いつのまにか半減していた。時計をみると、閉館間際の午後六時五十分。外はくれかけていた。

_お母んが心配してるやろ_と、館外の公衆電話で、母を安心させた。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(14)

とにもかくにもと、おしえられた順番どおりに本を見開いていった。まずは、“よくわかる日本の歴史”の安土桃山時代編だ。しかし、意気ごみは空回りした。もの足りないというのか、ほとんど手ごたえがなかったからだ。すぐ、つぎのに移った。

二冊目、三冊目とかさねるごとに、想定していた以上に専門色がつよくなっていった。

ひとつの事項にたいする記述もおおくなり、言葉もむずかしくなった。こうなると、途中からひつようとかんじ棚からかりてきた国語辞典を、ひくしかない。持参した新(さら)のノートに記入したメモは、すでに十項目をこえていた。三冊目がおわったところで、休憩をかね、おそめの昼食をとることにした。

 はじめの三冊は棚にもどし、のこりの二冊を確保したいと申しでると、貸出あつかいとして、あずかってくれた。片道十三分、家にかえってインスタントラーメン・ライスを食べることにした。母はパートにでているので、ラーメンはつくるしかない。卵とモヤシをなべに。包丁をつかわなくてもすむからだ。

 五十分後、傍若無人な年よりと五月蝿かった幼児と無責任な親はいなかった。

手すきのときにボクのようすを見にきてくれていた、親切な館員さん。取りくみかたが真剣だったので、もどってきたボクに、静かな部屋があるとおしえてくれた。昼になって、席がひとつあいたかららしい。

_やった、大歓迎や_あずかってもらっていた二冊を両手でかかえこみ、その部屋のドアを背中であけた。眼にうつった光景は、本をにらみつけるような真剣な顔ばかり。ちょっとこわかった。が、集中しているのか、新入者に一瞥をくれるひとはすくなかった。過半数は受験生だろう。

 なんだか負けていられないという気になり、真剣度が増した。

 四冊目はかなり高度だった。辞書をひく回数も格段に増えた。しかし、おかげでいろんなことをしることとなる。四冊目をおえたとき、メモのかずは二倍以上になっていた。時計をみると三時半を幾分すぎていた。静かにトイレにたった。

 アンモニア臭いトイレからでると、外でおもいっきり背伸びをした。腰も伸ばした。このときはじめて、肩に違和感をおぼえたのである。すぐにはわからなかったが、人生初の肩こりというやつだろうと察した。

_お母んのような肩になってる_さわってみてわかった。母親という役目の大変さに、あらためて思いがいたった。同時に、ガンバっているじぶんを褒めてやりたくなった。学ぶことの面白さを、このときはじめて知ったようにおもう。

_さあ、最後や_気をひきしめなおし、いざ参る、とのぞんだ。

 とはいうものの、五冊目の専門書には、悪戦苦闘した。途中でなげだしたくなるくらいだった。筆まめな秀吉の手紙が、章の約七分の一をしめていた。いまはつかわない言葉やちがう言い回しに手をやいた。古語だから、もあったし、専門家専用のせいでもあるようだ。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(13)

で、はなしを、天下人まえとあとの人格差にもどすと、

まずは天下布武のもと、北陸、中国、四国の平定をもくろむ信長は、秀吉の調略多用を快くおもっていなかった。毛利家をうつための有効な策、五十万石の大大名・宇喜多直家の懐柔にたいしてですら、最初はどなりつけ容認しなかったほどなのだ。またもや余談。

_秀吉が忠実な僕(しもべ)だったとして、それで、どちらがほんとうの秀吉なん?_を、いくらかんがえても答えはでてこなかった。風呂につかりながらも、このことが頭を占拠していた。おかげで、茹であがりそうになった。

母がようすを見にきてくれなかったならば、とおもうといまでも背筋が凍る。

でもって、あわてて湯船からでたのだった。

エアコンを起動させ、パジャマに着替えてふとんのうえに寝転がった。が、眠れそうになかった。だからといって感想文をかける心理状態でも、まだなかった。おおき過ぎる疑問をかかえこんでしまったせいだ。

同一人物の、その境涯が百八十度転換したからといって、劇的にかわる、いや変化(へんげ)してしまうものなのだろうか?

さて、天下をうばうというスケールがいかほどのものか、などわかろうはずもない小六生。すきな女の子の心もうばえない、はじめてのちいさな恋心にまどうだけの、まだ子どもであった。

懊悩煩悶させられる命題にぶつかり、寝返りをしては自問した。

いかほどの時間がたったかわからないまま、それでも、こたえを母に訊くことははばかられた。かといって翌日以降でも、父はあてにならない。たとえ答えをしっていたとしても、母に緘口令を敷かれているだろうから。

「じぶんで考えなさい」と叱られるのが、おちである。

となると、自力で答えをだすには、じぶんで調べるしかないと。

天下統一前後の秀吉の行動やかんがえ、そのころの時代背景や事件・できごとなどを、明朝(よくあさ)(秀吉が占領しようとしたのは明[国]と朝[鮮半島]、なんてネ…。中学校で日本の歴史をならったときのボクのダジャレ)、図書館にて調べることにした。

知識のとぼしいいまの段階での思慮は、意味のない悪あがきとさとったからだ。

秀吉にかんする調査内容だが、それを知るすべを朝食をとりながら、決めたのだった。

業績あるいは行状をしるのに必要な資料をさがす方法について、開館早々の図書館でたずねた。

「できるだけ簡単なものからだんだん掘りさげて調べたいので、よろしくお願いします」頭をさげたのだ。

親切な館員さんで、しかも歴史に詳しいひとだったから助かった。

見つくろってくれた五冊を両手でかかえると、テーブル席を陣どった。

むかいのひとが、新聞をおおきくひろげてよんでいた。傍若無人な年よりだ。おかげで、となりにすわる子どもは、一層ちいさくなっていた。

ちかくに設けられた畳敷きのうえで、幼児がさわいでいるが、母親はあやそうとも、注意をしようともしない。

_五月蝿いなあ_とはおもったが、口にはださなかった。内弁慶のボクは、外では“借りてきたネコ”状態になる。しかしそのうち、あまり気にならなくなった。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(12)

だがそれでも、いや、健勝だからこそ信長暗殺の黒幕は、その最大の受益者たる秀吉、との説が一部においてだがあるのも事実である。

となれば、はたして真偽のほどは?…

そこでまずは、クーデター実行者との関係を検証してみることにした。

いわずと知れた、陰の光秀と、陽の秀吉のふたりについてである。気むずかしい主君をまえに、戦功をあらそいあう、両極のライバルだったというわけだ。

武功の光秀に所領と城を、これ見よがしに信長があたえれば、負けじと秀吉は、それ以上の武勲でもって、信長の寵愛を一身にうけようとがんばる。

と、信長にとって、競わせる意義はまことにおおきい。

よって、敵愾心むきだしのふたりの、仲がいいはずなかろうと。

文献においても、秀吉と前田利家(又左)との、終生のあいだがらのような、仲のよさをしめす記録はのこっていない。

利家とちがい、ふたりともが外様で、どちらも成りあがりという一致点はあるが、それだけに、負けるのは、たがいのプライドがゆるさなかったであろう。

じじつ、とくにこの二人のおかげで、天下布武は成功しつつあったのだから。

また知識人で、のちの将軍義昭と信長のあいだをとりもった功績もあり、さらにガチガチの守旧派(本能寺の変のひとつの動機との説はこれに由来。体制破壊者信長は延暦寺焼き討ちや次期天皇への譲位問題をおこし、守旧派として言いしれぬ危機感をいだいていた)光秀は、無学でどこか軽薄で女ずきな秀吉を軽侮していた節がいくつか。

だがいっぽうの秀吉はというと、信長ゆずりの革新派である。

とにもかくにも、水と油なのだ。

それでも戦乱の世のこと、極秘裏に同盟をむすばなかったとはいいきれないとの反論も、一理ありそうにもおもえる…、

ならばとうぜん、やがては雌雄を決することとなる“山崎の合戦”の前夜、光秀は秀吉を「裏切り者」と罵倒し、密約の実態を各大名にむけて、“檄文を飛ば”したはずである。

それにより、信長の三男信孝や丹羽長秀などは態度を一変させ、秀吉への加勢などとんでもないと。

そうなるとむろん、戦況は一変するのである。京をめざし遠路を駆けつけた秀吉軍よりも、京で敵をむかえうつ光秀のほうが、がぜん優勢となったにちがいない

そこで、秀吉軍を一掃すれば“勝てば官軍”で、ようす見だった細川藤孝や筒井順慶などが傘下になったであろうし、さらには、元々仲のよかった家康(嫡男信康は信長の命で自刃した。ゆえに、信長を怨んでいないはずがない)からの援軍も、のちのち期待できたのだ。

ちなみに、家康との仲を追記するならば、光秀は生きのびて名を天海と号し、家康の側近としてつかえたとの根拠(家紋の一致や二人の筆跡の酷似など)ある説もあり、また春日局は、光秀の重臣だった斎藤利三のじつの娘であったとの史実。

 

つまり、このふたつのおおきな理由により、秀吉黒幕説については、胡散くさいとみるべきなのである。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(11)

ところでボクは今日、図書館でしった事跡、その一からその四を文字面(づら)ではなく、それがはなし言葉で生々しかったぶん、実感をともなっており、母がこの春ふともらした“秀吉は血塗られてる”の意味に、ようやく思いあたることができたのだ。

あまりに衝撃的で、巷にきく事績や英雄伝とは隔絶していた。

父や世人がうけいれている巷間の伝を、ボクも先入観としていたわけだが、母の言も今日えた知識も疑わなかった。それどころか、史実としんじたのである。ウソをいう理由がないからだけではなく、滅多なことでは、ボクにウソをつかない母だからだ。

すると、木下藤吉郎およびのちの羽柴秀吉と、天下人となった豊臣秀吉は、そのどちらが真実の秀吉なのか、との疑問にぶつからざるをえない。

_とても同一人物にはおもわれへんくらいの格差や。どっちかがネコを被ってたんや、きっと_と、刹那はそうおもった。

ついで、_それにしても、なんでネコを被ったんや?_との疑問が湧いた。

人気を気にしていたとの説のある武将秀吉だけに、天下を盗るまでは万人に好かれようとしたのではないかと。秀吉研究の書物をよんだあとでは、そんなおもいつきをした。

しかしこれは、生まれてはじめての急激な猛勉強のせいで、脳の状態が普段どおりではなかったゆえの、愚にもつかないおもいつきにすぎないと。

でもって数時間後には、はたしてそうなのかとおもい直しはじめていた。

さらに日付がかわった翌朝、全面否定するにいたったのだった。

_きのうの説、あれはあかん。とてもやないけど、なってない_なぜなら、信長が横死するまでは、天下人になろうとした形跡など、まったくなかったからだ。

つまり、秀吉が好ましい人物だったころ、かれは忠臣以外のなにものでもなく、いっぽう、天下人をめざし破竹の勢いの主である信長は、畏怖そのものの存在であり、しかもまったくもって健在であった。塩辛いもの好きゆえに、現在の知識をもってすれば、かれは高血圧だったかもしれないが。

だとしても、信長の忠臣に天下をねらう野望、どころか、それをうむ心の隙間すら、どこにもなかったのである。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(10)

さても、たのみの家臣にある夜、いともかんたんに寝首をかかれるような事態もひきもきらず。下剋上の時代とよばれるゆえんだ。

一例をあげよう。一介の流浪坊主からなりあがった(とされるが、別説もある)、まむしの(斎藤利政)道三を、である。

変名と変転をめまぐるしくかさねながらようやく仕官をはたし、だが、その重用してくれた主たる土岐頼芸を、やがては駆使した謀略と武力のすえに駆逐し、で、“国盗り”に成功するのである。ただし…。

さらにいえば、下剋上とはとりもなおさず、主従以上に濃密なはずの子が親から、あるいは弟が兄にたいし、などなど、領国をうばいあう醜態をさらしつづけた史実でもある。日本的儒教秩序喪失の、まさに戦乱の世、に他ならない。

この例にもれない筆頭が、家督をゆずってくれた父信虎を追放した武田晴信(信玄)である。また信長や伊達政宗は、嫡男であるにもかかわらず、その弟に肩いれする母親の暗躍のせいで、骨肉相食(は)むこととなった。そのけっかの勝者なのである。とはいえ晴信は、弟信繁とはさいごまで助けあい、相食むことはなかったが。

ぎゃくに道三は、嫡男としんじていた義龍(父殺しの汚名をさけたいかれは土岐頼芸の子だとして、道三との親子関係を否定した)によって、わが子たち(義龍にとっては実弟)は殺され、自身も長良川の戦いでついに、屍(しかばね)をさらすこととなった。

でもって、このような乱世のなかにあっての木下藤吉郎(羽柴秀吉)は、異色といえる存在なのだ。

のちの豊臣秀吉は、溺愛する秀頼への天下人継承の障害(?)になると、おいの秀次一族をほろぼす(あくまでも通説で、文献が証明しているわけではない)のだが、この事件をのぞけば、親兄弟だけでなくねね(正妻)の親族木下家や浅野家をも大事にしてきたのである。

いわゆる、一族たちへの情にあつかったわけだが、それだけでなく…、

羽柴秀吉だったころまでは、敵と対峙しながらも、武力制圧のための戦闘準備をするまえに知略や策謀を多用し、血をながすことすくなくして勝利をえてきたのだ。人誑(たら)しの名人といわれる所以(ゆえん)は、このあたりにもある。

“善く兵を用うる者は、人の兵を屈するも戦うに非(あら)ざるなり”…名将というものは、武力を行使せず敵を屈服させられるとの意。孫子も、秀吉的戦勝こそ、最良としているのだ。

ところで、武士としてまだ小者だった当初、家臣のすくなかった藤吉郎は、敵方の美濃の斎藤家に与(くみ)していた蜂須賀小六正勝とその一族郎党約五百人に注目した。この目のつけどころも、さすが秀吉である。

決断すると、行動は大胆かつ迅速だった。

なんと、敵方の小六の土豪屋敷に、単身で出むいたのである。そして丹心(真心)でもって整然と説破し、信長家臣団に引きいれたのだった(やがては、藤吉郎の配下同然となる)。

また、墨俣(すのまた)(洲股とも)に一夜城築城(逸話であって、史料などの裏づけはない)ののち、藤吉郎の知略の源泉となった竹中半兵衛重治(かれも斎藤家の旧臣、戦国時代をとおし卓越した軍師として現代にまで、その名をのこしている)を、報酬ではなく木下藤吉郎の赤誠と人間的魅力で、膝下につけた。

主の凡庸を叱責する目的で、いったんは奪ってみせた城を主にそのまま返すなど、少欲知足(欲すくなくして満足をしる)の半兵衛には、美学をかんじる。が、そんな一人当千の奇才が惚れ、換言すればこのひとと見こまれた秀吉も、やはり人物だったのである。

余勢をかって、美濃斎藤家(当主は義龍)家臣団の柱ともくされていた西美濃の三人衆をも、信長の臣下につけていった。さらに十数年後のことだが、備前・美作(現岡山県の大部分)等をおさめる五十万石の大大名、宇喜多直家をも懐柔している。かれには信長に与する利を説き、毛利家を背かせた。

またもう一人の参謀、黒田官兵衛孝(よし)高のちの如水の案により成功した備中高松城の(戦国史上、画期的)水攻め。中国地方の覇者たる毛利家を攻めるその前哨戦を、刀槍・弓矢・鉄砲を交えること少なくして戦利したことも有名である。

さらには、賤ヶ岳の合戦の前夜、敵将である柴田勝家の養子となった支城の主、柴田勝豊を調略して長浜城を無血で奪取している。また旧友ながら、勝家の与力となっていた前田利家の嫡男である利長の居城(越前府中城)に単騎で乗りこみ、旧交をあたためつつ説得し、前田軍約五千を自軍に引きいれてもいる。

この逸話は吉川英治だけでなく、司馬遼太郎の“新史太閤記“、山岡荘八の“豊臣秀吉”などでも採用しているのだ。名だたる大作家たちがこの説を基に執筆していることは、注目にあたいする。

ほかにも機略を縦横に駆使し、敵を味方に引きいれつつ、やがては信長の後継者となりあがったのである。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(9)

その二、千利休(宗易)にたいする切腹命令と、そのあと首を曝しものにした史実。武将でもない利休が謀反をくわだてたとはかんがえづらい。

ならばなぜ?との疑義にたいしいくつか説はあるのだが、いまだだれも完璧には説明できないでいる。

既述の、秀次一族郎党の件も、おなじだ。ただ、まちがいないのは、秀吉の勘気にふれたということである。その勘気の根因がなんだったのか、日本史におけるかずあるナゾのひとつとなっていると母。

その三、キリシタン二十六人を処刑した。ほんとうの因はわからないが、禁教令に違反したその見せしめとされている。だが、これもナゾのひとつだ。

その四、二度にわたる朝鮮出兵(文禄・慶長の役)における大量殺戮。犠牲者は、推定十万余と。大量破壊兵器のない当時の戦では、未曽有といえる膨大な犠牲者をだした…。たったひとりの異常者が野望のため、尊い、これほどの人命を奪ったというのだ。さて、好戦説や領土拡張説など諸説があり、いまもってこれの動機を特定できないでいる、朝鮮李氏王朝との(我田引水的で一方的な)外交交渉の(必然の)失敗による朝鮮出兵だったのである。

それにしてもいきなり、属国になれといわれて、承知する国がどこにある!日本を支配下におさめた独裁者には、そんな道理もわからなくなっていたのだ、きっとと、母は切りすてた。

でもって、朝鮮半島制圧は、あくまでも通過点のつもりだった。秀吉の最終目標は、スペインとの連合軍で明国を支配することだったようだ。じじつならば、傲岸不遜の極みである。

いずれにしろ秀吉がいきた世はたしかに、戦国時代との呼称どおりの世紀であった。

裏切りや策略、背信と謀殺によって浮かびあがり栄えた門閥や一族が存在するいっぽう、謀られてほろびさった族親も数多(あまた)あった。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(8)

いっぽう、首肯(うなずき)を肯定ととった母は、“血塗られた”秀吉の実歴を順不同ながら、こんどは具体的にあげていくのだった、メモをみながら。母もひそかに、時間をさいてどこかでしらべていたのだ。

そんなかげの努力に、ひととしてのあるべき姿を教えられたこともあり、いっそう好きになった。

ちなみに母はこのとき、なにをおもったであろう。無言で、人倫をしめしたかったのだろうか。

その一、姉の子で、いちどは後継者として遇した関白秀次とかれの側仕(そばづか)え数人に切腹をめいじ、子息と息女五人および妻妾や侍女など三十九人を、無実なのに惨殺したこと。拾丸(ひろいまる)(のちの豊臣秀頼)を天下人にせんがための、邪魔者を排除したとの説が有力だ。そのいっぽうで、秀次による謀叛説、あるいは“殺生関白”といわれた異常人格説もある。だが謀叛説は、秀吉好都合の色がつよいぶん根拠がよわく、よって、色褪せてみえると。

するとここでわりこむという、ボクの悪い性癖がでた。脱線ぐせである。だから手短ですませるが、つまり、

ではなぜ、こうも諸説があるのか、である。疑義の、ここ数年の結論だが、当事者が口をつぐんでしまったからだと。秀吉は筆まめなれど“不都合”のゆえ、は理解できる。しかし、賜死の秀次も手記をのこしていない。存在はしたが、刑後、処分されたからかもしれない。

それにしても頂けない説は、後継問題云々だ。関白とはいえ、傀儡(あやつり人形)であり、どう転んでも実権を手にはできない。秀吉の死後であっても、秀次にしたがう軍勢など、秀吉恩顧の兵力に比すべくもない。しかも人望も刮目にあたいする戦功もなく、戦術や戦略は凡庸である、ないない尽くしなのだ。

よって、秀頼豊臣家にとって脅威とはならない。換言すれば、害毒になどなろうはずもない存在。元来、知恵者だからこそ覇者となれた秀吉である。

賜死の必然がない以上、生かしておけばよかったのだ、目障りだとしても。

結論。殺した理由がみつからないのである。閑話休題。

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