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こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(27)

さらなるもうひとりは、旧ソ連のスターリン書記長で、推定約七十万人を処刑したとされる“大粛清”(1937年~1938年)をおこなった、まさに極悪非道の化身なのだ。

 しかしこのおとこが、人々を虫けらのように殺戮しはじめたのは、それ以前の1919年からで、レーニンがまだソ連の最高指導者として君臨していた時期であった。

 この時すでに、のちの大量殺戮のはしり、といえば語弊があるが、予行演習をしていたということだ。

で最高権力者たるソ連邦共産党書記長への就任は、レーニンが発病し、その政治権力が弱体化した1922年四月三日のことである。

 さかのぼっての1919年、この悪魔はまず手はじめに、反革命分子と断じたひとびとを処刑していった。ついで、レーニンの提唱のもと組織された赤軍兵(当時は数百万人の兵力)の大規模な逃亡や離脱を阻止するため、脱走兵などを“裏切り者”だとし、見せしめのために、公然と大量処刑したのである。

 歴史においては特に”もし”などないのだが、1921年のレーニン発病とそれによる政治力の低下がなければ、スターリンは解任され追放されていたのではないかと。

 重篤により、求心力を急速にうしなったのちではあるが、1923年一月四日のいわゆる“レーニンの遺書”とよばれる、その覚書執筆の段階で、スターリンの書記長解任を提案していたからだ。

 と、このように二匹の悪魔だが、いずれにしろ既述のごとく、全権力を掌握するまえからジャマな存在を“粛清”と称し、大殺戮していたのである。

つまり、このふたりも信長や始皇帝と同様、権力奪取のまえから苛烈・悪逆であった。ということでこの独裁者たちも、秀吉変貌の参考にはならなかった。

 いっぽう、独裁者あつかいされているキューバのカストロ議長についてだが、なるほど宗教を否定する共産主義者の立場から、国内のキリスト教を弾圧はした。が、短期間であり、教会側とは早期に和解している。

また弾圧時に、残酷とよべるほどの所業をしたとの報道を、ボクはしらない。

さらには、革命後のかれが豹変したようすもない。独裁者にありがちな、私財といえる巨富ともあまり縁がないようだ。

 さて、十五人目の棹尾をかざる(?)のは、人類史上最大の帝国の基盤をつくったチンギス・ハーンである。

歴史学者の推測によるのだが、一代の征服戦争においてなんと、数千万人を殺戮したとされている。となると、敵兵士だけでなく農民やおんな子供と高齢者などの非戦闘員もふくんでいたのであろう。

想像を絶する膨大な数値だが、中国人は過剰な表現をする民族ではある。はなし半分、いやそれ以下とする見方もある。

それにしても悪逆のきわみ、悪魔すら眉をひそめる大量殺戮だ、たしかに。

だが、蕫卓のような嗜虐性、あるいは暴君ネロ的な悪業は史料としてのこっていない。暗殺計画ものこっていないところをみると、敵には苛烈・非道でも、味方はもちろん協力者にも穏当だったと推察できる。

その一例として、捕虜となった異国人官僚の耶律楚材を登用したことがあげられる。

異説もあるが、陳舜臣氏著の“耶律楚材”によると、すくなくとも、租税をとるというシステムを教示したことで、略奪や破壊ならびに殺戮から中国を、すくなからず護ったという功績はあったようだ。

ちなみに氏だが、おおくの文献をしらべあげたけっかの執筆であり、ボクも楚材の功績にかんし、確認をしている。なるほど他国の史書には、楚材の名は見あたらない。

しかしだからといって、中国史による、まったくの捏造ともかんがえづらいのだ。

モンゴル帝国成立の初期段階でかれが、租税による財源制度を提示したことにまちがいはないのだから。

そんな楚材がつかえた人物だけに、その後も、たんなる血に飢えた殺戮者と断定するにはムリがある。

とはいえ、正確な史料のすくないチンギス・ハーン(井上靖氏作“蒼き狼”を学生期によんだけっかにおいても、血に飢えた殺戮者とはおもえなかった)だけに、秀吉との対比をすることができず、豹変の理由をしることはかなわなかった。

痛恨ではあるが、これら十五人とを、対比するという手立てでも、成功しなかったのである。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(26)

 さて、検証ものこりわずか。

でもっての、中国統一をなし遂げた秦の始皇帝。

かれにまつわる暗殺失敗の史実も今日までつたわっている。かれは天下統一のまえ、敵国を攻むるに殲滅するがごとく殺戮に徹し、けっして容赦しなかったのだった。それを最善の方途としんじたのは生来の、苛烈な性格のせいだろう。

この独裁者がなした焚書(その功罪に賛否両論あり。罪は論ずるまでもないほどに数多。ただし、かの文豪魯迅は進歩的行為と評した)は、これをおく。問題となるのは、その対となる坑儒を命令したことだ。

坑儒とは、冤罪の儒学者四百六十人を、かれの激情から生き埋めにした、虐殺事件のことである。それらのゆえか、司馬遷は“史記”の中で、「恩愛の情に欠け、虎狼のように残忍な性格のもち主」としるした。

信長といい、天下統一には冷厳な人格が必要悪なのだろうか?両者ともが無慈悲に徹し、武力で国を制圧していった。そのさい、残忍な性格のままに旧体制・旧権威の打破を完遂しようとしたのだ。

また、独裁者の代名詞ともいえるユリウス・カエサルは、政敵ポンペイウスと戦場にて雌雄を決しこれをしりぞけ(ポンペイウスは逃亡の地エジプトで、エジプト軍によって殺害された)、元老院派を武力で制圧したのち終身独裁官に就任した。

やがてかれにむけられた“非道”との謗りはしょせん、権力闘争の敵方がかれを刺殺後にじぶんたちを正当化するためにつけた烙印にすぎない。かれにかんする記述を読んで、当時のボクはそんな印象をうけた。ゆえに、秀吉転変の参照とはならなかった。

いっぽう、近代の独裁者たち。カエサルからみて約二千年後の以下の二人が、異論をさしはさむ余地なく、その代表であろう。ありえざるほどに突出する、大殺戮をなしたからだ。

ひとりは、いわずと知れたヒトラーである。

この悪魔が手をくだした“長いナイフの夜”(三日間つづいた突撃隊への弾圧)とよばれる非合法的殺戮は、1933年一月三十日、首相に選出されてすぐに成立させた悪法、全権委任法があっての粛清だった。

ところでこの殺戮だが、死体の数からはすくなくとも116人分、との一方で、1000人を超えていたとする証言ものこっている。いずれにしろだが、ほんの七十年前にもかかわらずの大量殺人である。

第一次世界大戦(1914年7月28日勃発)における凄絶すぎた悲惨(犠牲となった死者数、推定1600万人以上)を経験し、人命や人権に、かぎりなき尊さを見いだしたはずの二十世紀にだ。

国際連盟という、画期的世界機関をも創設した人類の英知。

にもかかわらず、ひとの命が異常に軽かった中世以前だけでなく、この二十一世紀の現代世界においてもなお、内戦や無差別テロが、まごうことなく頻発しているではないか!

極端かもしれないが、第三次世界大戦がおこらないと、核抑止論をたてにしたとしても、否定しきれるであろうか…。

かなしいかな、すくなくとも歴史が証明している、二十世紀なんてまだまだ…懲りていないと。

たった二十五年後の1939年9月3日勃発(独がポーランド侵攻を契機に英が宣戦布告)の第二次世界大戦では、全世界で、関連の餓死者などをふくむ死者が5000万人とも8000万人とも。

人間とはなんと救いがたく、愚かな動物であることか!

さておく。いまは全権委任法について、である。

悪法と断ずるのは、ナチ党なかんずくヒトラーに白紙委任状を差しだすというしろものだったからだ。こちらも、歴史が生き証人である。

ただしこの時点ではまだ、のちに“総統”とよばれる絶対的権力者の地位にはついていない。

で、このすこし前、世界に冠たる民主的憲法(ワイマール憲法)、…悪法によりたしかに、ほぼ形骸化させられたが、しかしそれだけでなく、この憲法のもと、得票率で過半数獲得により選出された二期目のヒンデンブルク大統領(八十四歳六か月と高齢だった)、かれが、ヒトラーの首相就任に難色を示しつづけるなど、なおも、重しとして存在していたのだ。

また、“ほぼ”としたのは、総統ヒトラーの絶頂期にあっても、それでも憲法の遵守をさけび、ナチ党に異をとなえる知識人や一部ではあったが、良識派がいたからで、

そういえば、”サウンド・オブ・ミュージック”で描かれたトラップ大佐(じつは少佐だったが)のような人物も現実にいたわけだし、

そのうえで現大統領は、ヒトラーには目のうえのたん瘤ではあった、就任当初はとくに。

がしかし、八十六歳と高齢による老衰がすすみ、死期もちかいとみたヒトラーは、気力減退のヒンデンブルクとの政治的かけ引きをしたそののち、ナチ党の反対勢力となった突撃隊を粛清したのである。

となると、“長いナイフの夜”はヒトラーだけの咎ではない、ことにはなるのだが。

そんななか、大統領の死をうけると、ゲシュタポとの呼称でおそれられた秘密警察をつかい、反ナチ派やユダヤ人たちを根こそぎとらえていくことに。

こうして誰もがしる、ユダヤ人たちなどへのホロコーストがはじまるのだった。

人類史上、最悪の殺戮者、それがヒトラーなのである。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(25)

ナポレオン暗殺計画は1800年の十二月二十四日に実行された。王党派が、第一執務だったかれとジョセフィーヌがのった馬車に爆弾を仕掛けたのだが、けっか、失敗している。さらに、大英帝国がフランスブルボン(ルイ)王朝の王政復古をもくろむ王党派と手をくんだのだが、こちらも未遂におわった。

また、いくつかあったヒトラー暗殺計画の中でいちばん有名なのが、ヴァルキューレ作戦がからむ時限爆弾事件(1944年七月二十日)である。

歯止めなく暴走する侵略戦争がやがては国家・国民をあやうくするとして、一部の有志がはかったのだ。

計画の動機は私的恐怖に帰するものではなく、おおむね、公憤であり公益のためといえるものだった。むろん、これ以上の人命の損失を憂いた人たちである。

暗殺計画は存在したが、成功も失敗もなかった史実もある。標的は皇帝ネロだった。

横暴のかぎりをつくしたせいで、すでに、国を憂える声が津々浦々に充満していた。ネロはついに、近衛兵や側近からも見放された。元老院からは“国家の敵”との宣告をうけ、追いこまれ逃げ場をなくし、けっか、自刃して果てたのである。

 で、主題の秀吉にもどすと、人格崩落ののちも、かれにたいしては、主君信長に存在したような暗殺計画があったとはきかない。文献をしらべたが、そのかぎりにおいて計画はなかった。

ちなみに石川五右衛門による暗殺計画は、ウケをねらった後世の偽説である。

暗殺計画がなかったということは、ネロや蕫卓とはちがうからだろう。さらには、むりな外征をしたことにおいては同じなのだが、暗殺計画の有無においては、ナポレオンやヒトラーとも一線を画すひつようがありそうだ。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(24)

つぎは、前漢の高祖劉邦。秦の始皇帝の死後、覇をあらそった項羽をたおし戦乱の世をおさめた人物だ。

かれは権力を独占せんと、彭越や英布など建国の元勲たち(“背水の陣”や“韓信の股くぐり”で有名な韓信は、おなじく建国の元勲で謀臣だった蕭何が謀殺)を滅ぼしていった。

しかしながら、蕫卓のような悪逆な惨殺はしていない。

その劉邦だが、もとは地方のしがない下級役人であった。親分肌の一面もあったが、当初から無頼の徒でもあり、のちの家来に「傲慢でひとを侮蔑する性格」と評されてもいる。伝承によると、頭角をあらわすまでは、阿漕(あこぎ)な商売などにも手をそめていたようだ。

だが張良などの有能な家臣にめぐまれるにつれ、天下に名をとどろかせてゆくことに。

紀元前205年、五十万人超の軍勢、連合軍ではあるのだが、それを有するまでにいたり、やがては雌雄を決することとなる項羽と、まずは彭城の戦いにのぞんだのだった。

だが、そこで敗残ののち追手からわが身をまもるため、嫡男(のちの恵帝)と娘を馬車から落として負荷を軽くしたというエピソードは有名である。直後、御者がたすけたからいいようなものの。

さて、この点の比較。母親や妹を利用したことのある秀吉とはいえ、とくに直系を大事にしていたわけで、そこがずいぶんと違う。

 また劉邦のように、かりに独裁者のほとんどが、権力奪取をさかいに家臣たちを粛清していったならば、側近であれ、また、のちの建国の元勲といえども、覇者に仕立てるべくと、いのちをあずける覚悟で、つかえる者などでてくるはずもない。

成就のあかつき、いつ逆賊の汚名のもとほろぼされるか、わからないからだ。

たしかに誅殺の名のもと、臣下たちをほろぼした権力者もすくなくない。中国史においてはとくに。

だが、もし劉邦式という粛清の定理があったならば、こんどは下剋上こそが、人類の歴史となったはずである。無為のまま殺されるのではなく、わが身の安全をはかるために、主君暗殺を計画し実行するだろう。

いうまでのなく、自己防衛は本能であり、とうぜんの人情なのだから。

ところが、殺戮をくり返す下剋上が有史を覆ってはいない。

独裁者は数多存在したが、家臣に冷酷な劉邦タイプはむしろ寡少なケースで、この点でもやはり秀吉とはちがう。

ちなみに、わが身の静謐(せいひつ)をはかった数すくない史実として、腹心で養子にもなった呂布(既述)が、蕫卓を暗殺した事例はある。

おなじように腹心に命をうばわれたとのキーワードで見過ごせないのが、ユリウス・カエサルと織田信長だろう。

呂布とは動機がちがうようだが、前者は側近のブルートゥスたちの手で暗殺され、後者はいわずとしれた明智日向守光秀によって、横死させられたのである。

ところでこの二人の独裁者ともが、今回のナゾ解明の、役にはたたないであろうと。

人格の転変において、横暴さの度合いが増したていどならあるかもしれないが、逆転といえるほどのものは、両者ともにみられないからだ。

たしかに、つぎつぎと政敵を葬りさったカエサルではあったが、クレオパトラをしたがえローマへ凱旋すると、終身独裁官に就任(共和制をこわした、これが暗殺の根源因)する。しかしその前後において、無益な殺戮はしていない。

また、信長においてもせいぜい、長年つかえた林通勝や佐久間信盛などを、廃品のように突然放逐したくらいである。それも信長にすればゆるすまじき咎がかれらにあったからで、にもかかわらず命まではうばっていない。ほかの配下への配慮もあったのだろうが。

ちなみに、比叡山での無差別大量殺戮は非道のきわみだが、延暦寺の、仏法者にあるまじき強欲・淫蕩・搾取にたいする見せしめのためだったと。むろんやりすぎではあるが、人格が激変したことによる、残虐ではない。

ところで暗殺といえば、その計画が失敗したことで有名なのが、対ナポレオンと対ヒトラーの史実であろう。ただ、この二人を暗殺しようとの立案者たちは、蕫卓を刺殺した呂布とは趣旨がそれぞれにちがっている。呂布はあくまで、じぶん個人の危険回避が目的であった。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(23)

さて、確立した権力を強固にしつつ実子(恵帝)にゆずるために呂雉は、夫であった初代皇帝劉邦の死後、いずれは脅威となるであろう劉邦の各庶子(側室がうんだ子どもたち、各地にて所領をえ、皇位継承の権利を有するもの)やその生母たちを殺害しつくしたのだ。

しかも側室たちの殺害においては、四肢切断・双眼摘出など、凄絶・無惨をきわめたという。これが事実ならば、殺戮の手法においては史上、稀であろう。

秀吉も、おいの秀次一族を惨殺している。この点で、似ているとする向きもあろうが、読みすすむうちにわかった。

呂雉が権力を掌握するまえの資料だが、あまりに乏しいのだ。懸命の子育てと劉邦の補佐をしたというたしかな史料以外、人間性を推しはかれる記述はあまり遺されていないのである。

したがって、人格に転変があったかどうかまではわからなかった。

これでは思量できない。残念ながら、比較できないことがわかったにすぎなかった。

とここで閉館時間となり、のこりは明日にまわすことにしたのである。

で翌朝以降、書かれていたべつの独裁者や権力を占有した人物を調べあげたかぎりでは、権力掌握とその後の人格激変において、完璧な相関関係は有しないとの印象をもつにいたった。

さて、それらののこりについてだが、せっかく調べたのだ。で、具体的には以下のとおりである。

まずは家康。一女をのぞき豊臣家を根絶やしにした人物ではあるが、だからといって、豹変が原因ではない。ただ、徳川幕府を盤石にするためであった。

つぎは、ヨーロッパを席巻しフランス皇帝にのぼりつめたナポレオン。

一連のナポレオン戦争では約二百万人の犠牲者をだしたとされている。現代的な視点では非人道の象徴であり、“人命の簒奪者”と忌みきらわれても当然とおもう。

よって、許されざる極悪ではあるが、それでもかれの非道の極みを弁護するならば、強大な大英帝国に対抗できる母国フランスを構築するためだったと。

またいっぽうで、罪だけでなく功もあったのも事実だ。

近代法の基礎となったナポレオン法典は、欧米はもとより日本の民法にも影響をおよぼした。また、フランス革命の理念(自由・平等・博愛)を西欧に根づかせもした。

だがそうだったとしても、暗殺計画に加担したアンギアン公の処刑は非難されてしかるべきだ。しかしながら、虐殺だったとまではいえない。

そのナポレオン。皇帝という最高権力者になったことで人格がかわったとか、暴君になった、というような事実はない。

たしかにフランス軍が、スペイン人を虐殺した(それを描写したゴヤの絵画“マドリード”は有名)というのは史実だが、兄のジョセフがスペイン王に就任直後のことで、なによりまず、ナポレオンが指示したわけでもない。

というわけで、秀吉と比較対照しても、今回の目的をはたせそうにないと判断したのだった。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(22)

その一、村まつりに参加していた農民の皆殺し。

その二、悪政への不満による反乱ののち投降した捕虜数百人を、蕫卓は、みずから主催する大宴会において一人ずつ、文字どおり血祭りにしながら、その地獄絵に満悦したのである。

その三、遷都するにあたり洛陽を火の海にし、おびただしい焼死者をだした。燃えさかる火は、数日間消えなかったという。

快楽犯罪というおぞましい用語があるが、このおとこは快楽大量虐殺をなした、最悪の暴君であった。ここまで酷いと、ネロはもはやその比ではない。

 肝心の対比だが、秀吉との共通点は見いだせなかった。

秀吉とちがい、蕫卓は、権力奪取のまえから残虐・凶暴であった。奪取後も、悪逆無比にちがいはない。

このおとこはたんなる欲望の塊であって、英雄性のかすかな一面すら持ちあわせていない。けっかとして、蕫卓からも、秀吉変貌の参考資料を得ることはできなかった。

 ところでその秀吉だが、全権力を手にいれたこと、それ自体が原因で人格が破綻し豹変した、とはかんがえづらいのである。

というのも史観的に、権力掌握をさかいに、いわば天使から悪魔へ、両極端の人格を表面化させた、ようにみえる人物は、ほかに例がないからだ。以下は、その検証となるのだが、いずれにしろ、人類史上唯一の存在、なんて論理的ではないではないか。

ちなみにいったんは、これをあえて否定してみようとおもう。

権力奪取が、極悪な人格転換をさせた可能性のある事例について、だ。前漢の高祖劉邦の皇后呂(りょ)雉(ち)がそうかもしれない云々、そうみてとろうと。

あまり有名ではない呂雉だが、かのじょは“中国三大悪女”のひとりとして、知るひとぞしる存在なのだ。

で、ほかの二人は、唐代高宗(三代皇帝)の皇后則天武后(中国での呼称では武則天)と、清朝末期の西太后である。かのじょらも、教えてもらったなかに入っていた。

その則天武后だが、権力掌握前から非道比類なき魔物であった。

いっぽう、西太后のばあいは、伝承や俗説には偽説もすくなくない。むしろ虚像だったとの説が、最近では有力になりつつある。死後、辛亥革命以降において、人物像をゆがめられた可能性のほうがたかいようだ。

秀吉とはパターンがちがうゆえに、呂雉以外は参考にはならないとかんがえた。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(21)

ところで、秀吉と対比してみると、共通個所がいくつかあることに気づく。

ひとつは、善政と悪政の両方を施行した点。以下は、初期の善政にはあたらないが、権力の魔性にとりつかれたネロですら、ローマ大火直後はその救済にと、食料の配給や仮設住宅建設に取りくんでいたのだ。にもかかわらずの、善政を台無しにした大量殺戮であった。

つぎに、母親を利用した点。

秀吉は、宿敵家康を上洛させて家臣の立場におくために、母親を一時的にではあるが人質としてあずけている。

いっぽうのネロは、皇位後継者?だった義母弟の、その地位をうばう謀略を実母に頼みこんで(すでに、先代の四代皇帝の後妻におさまっていたことから可能に)、帝位を手にできたのである。

さらに、人生の前段は人格者で、後半は破綻者となったこと。

その豹変の原因に、病気説があることもだ。

ただしボクは、脳梅毒が秀吉豹変の原因とはおもっていない(既述)。

で、人格の逆転と所業だが、ネロにおける地位保全のための悪行と、秀頼を後継者とするその障害(とは、ボクはみていない)たる秀次の殺害は、似ているようでちがう。秀次に、障害となれるほどのパワーや器量などなく、うすい存在だったからだ。執拗ではあるが、監視下のもと生かしておけばよかったのだ。

ただし、譜代の家臣がすくないなかでの親族の殺害は、豊家の力をよわめることとなった。まあそれはそれとして、

けっきょく、秀吉の人格豹変の原因や理由を、ネロを通してはみつけだせなかった。

 つぎに、東洋での最悪の暴君となると、三国志の前段に登場する、蕫とう卓であろう。

クーデターにより、城外へ逃れかくれていた幼い少帝とその弟を、見つけだすとかれは自軍をひきい、王朝末期ならばこその混乱に乗じて、後漢の首都である洛陽へ入城をはたした。

間かん髪はついれず、ほかの武将たちとクーデターを武力制圧するのだがその前にまず、巨大宮廷にて皇帝に侍はべる宦官かんがん(武官ではない)たちを大量虐殺した。クーデター参加の詮議をすることもなく、ただただ手あたり次第の血祭りだった。

ついで、こんどは武功を独占するために、のちに養子となる猛将呂りょ布などの武力を借りて、鎮圧直後で気のゆるんだ同僚の武将たちを謀殺していったのだ。

さらに、幼い少帝から弟の献帝へと移譲させ、そのうえで政権を奪取するため、現皇帝(献帝)の生母をはじめ前帝(少帝)、その側近をも虫けらのように殺害し、献帝を傀儡としたのである。

専横はつづく。金満家の財宝を強奪するなど、誘拐・凌辱・略奪・殺戮をくりかえし、ついに、蕫卓首謀の凶悪が、首都の茶飯事となった。最高権力者に君臨したこのおとこは恐怖政治に明け暮れ、首都は不法地帯と化したのである。

そんななかでも極悪非道が三つ。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(20)

かれはユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)と縁(えにし)があり、また、カエサル暗殺後の第一後継者だったアントニウス(ふたりともが、古代エジプト王朝最後の女王クレオパトラ七世とのあいだに、子をもうけている)とも、さらには、古代ローマ帝国初代皇帝オクタウィアヌス・アウグストゥスの血族でもある。いわばサラブレットというわけだ。

その皇帝ネロだが、治世初期こそ名君であった。

しかし、やがて帝位をおびやかす存在の異母弟を毒殺してしまう。

謀殺理由の有力な説が、後世にまでつたわっている…本来ならば、異母弟こそが正当な後継者であったとの。

だから排除したのである。権力が強大であるほどに、魔性に、ひとは翻弄されるのだ。

四年後には恩ある実母を殺害。ついで、邪魔になった妻とじぶんの腹心をも、自殺の淵においこんでいったのだった。

悪行はさらにエスカレートする。

その根だが、ネロの人格云々はおいておくとして、六日以上もつづいたローマ大火にあった。出火の原因は不明で、しかも不運ではあるのだが。

と、ここで、石造りの建物が燃えひろがるのかと疑問におもい、ネロにかんする記述をさらに読みすすめたのだった。

説によると、当時のローマは人口が急増し、住居費をふくむ諸物価急騰や衛生面からみても、人口増それ自体が失政といわれはじめていた。

そのやさきに、急造の木造住宅から出火し、その密集ぶりが大火の遠因であると、そんな批判までが沸騰したのである。

さらにはネロによる放火説までが、市民のあいだでささやかれだしたのだ。

批判や不評を払拭するために、で、ネロがとったとんでもない行動。

“放火だった”と叫び、犯人は、新興宗教として流行しだしたキリスト教徒の信徒だ!かれらこそが“集団放火犯だ”との汚名を浴びせたのである。消火活動をするしりから、集団で放火したから大火になったのだと。

それらしい信憑性を付加したうえで、弾圧と迫害におよんだのである。火刑による大量殺戮であった。

この、おのれの悪評をかわし地位を保全するためだった、とは、欧米がキリスト教世界だけに、憎悪をこめた定説としてあまりに有名だ。つまり、放火説そのものが、信憑性にとぼしいというのである。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(19)

ということで、今度は二冊だった、暴君たちをしるした書籍が。

“学習室”、前回はそんな名称があることすら気づかずに入室した。が今回は、神経をはりつめさせた人のおおい部屋のふんいきにも動じなかった。

一冊八時間、すくなくとも一人あたり一時間強、合計二日を目安に、さっそく調査を開始したのである。

 しかし結果からいうと、計算どおりとはならず、それなりに満足のいく調査に、みっかと半日を要してしまった。

 というのも、二冊をひととおり読んだあと、暴君のあまりのえぐ味のせいで、だれが誰だったか、あたまが混乱してしまったからだ。

理由ならかんたん、暴君とされる奴らだが、あまりにすさまじかった。残酷すぎて、これが人間のすることかよと、よんでいて正直、胸くそがわるくなるほどだった。

それで叶うならば、これ以上のくわしさで調べたくもなく、触れたくすらなかった。

だがそうもいかず、詳細にすぎる事跡の逐一の書写までは酷こくやし、とてもやないとやめたのだが、洋の東西から一人ずつを、むごさが強烈だったヤツをなんとか思いだし、ピックアップしたのである。

それ以上となると、苦痛で頭が変になりそうだった、からだ。

まずはひとり分を再読し、ノートに書きうつしていく手法を、それで今度はとったのだ、が、

 あっ、そのまえにまずは、豊臣秀吉を暴君とよぶことが正当か不適切かについて、である。意見がわかれるところだとおもう。

ただ、先日よんだ書物によらずとも、大量殺戮の数においてはるかに、天下布武をとなえていた“信長越え”をしていることだけはまちがいない。

とにもかくにも二人ぶんをとがんばって、調査と書写をおしすすめながら、

しかし、ボクがこいつならばとチョイスした暴君が、秀吉の豹変のヒントを提供してくれない可能性だってと、事前にそうかんじてはいた。

そのばあいは、つぎのえぐ味へと材をもとめるしかないか…あああ。まあ、その時はそのときだ。

しかし、である、

もしそうなったとしたら、先がおもいやられるし、ほんま辛い。

だからといって、お母んには勝てない以上、前進あるのみだ。

ああ、それにしても、みたてが甘かった。結論からいうと、のこりの十三人もすべて、となってしまったのだから。

いやはや、先走りがすぎたようだ。

ともあれ、残虐性だけでも希釈しながら。

で…、

まず向きあった、いまわしきその悪名は数多あまたあれど、西洋では、古代ローマ帝国の第五代皇帝ネロこそが、暴君のなかの暴君であろうと。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(18)

 秀吉を解剖し詳(つまび)らかにするには、角度をかえたうえでの、検証が必要だと。

具体的には秀吉だけでなく、ほかの人物をもしることであらたな景色として眼に映じ、もっといえば、比較対照することであらたなる発見が可能となり、おもってもみなかった秀吉像がみえてくるのではとかんがえたのだ。

と、切り口はおもいついたのだが、その具体法であたまを悩ませることとなった。

果てとして、このひとならばと、図書館のしんせつな館員さんをたよることにしたのだった。

ボクの意図をくんでくれ(斟酌(しんしゃく))、寸考ののち「それでは」と、秀吉をふくむ十六人の暴君や独裁者の名前をおしえてくれたのだ。

ついでに、それらの人物像や事績とその背景をしるための本も、ピックアップしてくれたのだった。本好きな少年に、もっと書物のすばらしさを知らしめたいとの、親切であろう。

かれは、ルイス・フロイスが“暴君”にたいし記述をのこしていることをしっていて、それに基づいての書籍を紹介してくれたのだろうと、最近になり忖度できた。

ちなみに、ルイス・フロイスほどの知日家は、今日においても数すくないのではないか。

パトリック・ラフカディオ・ハーン(小泉八雲、日本に帰化)とドナルド・キーン(米出身の日本文学と日本文化研究の第一人者で、日本に帰化)くらいではないか、優劣つけがたいのは。

で、脱線のついでである。

イエズス会員として三十一歳のとき、戦国期に来日し、六十五歳で病没するまで滞在した。

わるくいえば西洋かぶれの信長に、西洋文明や精神文化を伝授するなどして、重用されている。権力者の豊臣秀吉らにも謁見するがそれだけでなく、日本各地を旅し見聞もひろげた。

著名な“日本史”などの著作は、戦国期研究の貴重な資料としていまも重きをなしている。

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