さらなるもうひとりは、旧ソ連のスターリン書記長で、推定約七十万人を処刑したとされる“大粛清”(1937年~1938年)をおこなった、まさに極悪非道の化身なのだ。

 しかしこのおとこが、人々を虫けらのように殺戮しはじめたのは、それ以前の1919年からで、レーニンがまだソ連の最高指導者として君臨していた時期であった。

 この時すでに、のちの大量殺戮のはしり、といえば語弊があるが、予行演習をしていたということだ。

で最高権力者たるソ連邦共産党書記長への就任は、レーニンが発病し、その政治権力が弱体化した1922年四月三日のことである。

 さかのぼっての1919年、この悪魔はまず手はじめに、反革命分子と断じたひとびとを処刑していった。ついで、レーニンの提唱のもと組織された赤軍兵(当時は数百万人の兵力)の大規模な逃亡や離脱を阻止するため、脱走兵などを“裏切り者”だとし、見せしめのために、公然と大量処刑したのである。

 歴史においては特に”もし”などないのだが、1921年のレーニン発病とそれによる政治力の低下がなければ、スターリンは解任され追放されていたのではないかと。

 重篤により、求心力を急速にうしなったのちではあるが、1923年一月四日のいわゆる“レーニンの遺書”とよばれる、その覚書執筆の段階で、スターリンの書記長解任を提案していたからだ。

 と、このように二匹の悪魔だが、いずれにしろ既述のごとく、全権力を掌握するまえからジャマな存在を“粛清”と称し、大殺戮していたのである。

つまり、このふたりも信長や始皇帝と同様、権力奪取のまえから苛烈・悪逆であった。ということでこの独裁者たちも、秀吉変貌の参考にはならなかった。

 いっぽう、独裁者あつかいされているキューバのカストロ議長についてだが、なるほど宗教を否定する共産主義者の立場から、国内のキリスト教を弾圧はした。が、短期間であり、教会側とは早期に和解している。

また弾圧時に、残酷とよべるほどの所業をしたとの報道を、ボクはしらない。

さらには、革命後のかれが豹変したようすもない。独裁者にありがちな、私財といえる巨富ともあまり縁がないようだ。

 さて、十五人目の棹尾をかざる(?)のは、人類史上最大の帝国の基盤をつくったチンギス・ハーンである。

歴史学者の推測によるのだが、一代の征服戦争においてなんと、数千万人を殺戮したとされている。となると、敵兵士だけでなく農民やおんな子供と高齢者などの非戦闘員もふくんでいたのであろう。

想像を絶する膨大な数値だが、中国人は過剰な表現をする民族ではある。はなし半分、いやそれ以下とする見方もある。

それにしても悪逆のきわみ、悪魔すら眉をひそめる大量殺戮だ、たしかに。

だが、蕫卓のような嗜虐性、あるいは暴君ネロ的な悪業は史料としてのこっていない。暗殺計画ものこっていないところをみると、敵には苛烈・非道でも、味方はもちろん協力者にも穏当だったと推察できる。

その一例として、捕虜となった異国人官僚の耶律楚材を登用したことがあげられる。

異説もあるが、陳舜臣氏著の“耶律楚材”によると、すくなくとも、租税をとるというシステムを教示したことで、略奪や破壊ならびに殺戮から中国を、すくなからず護ったという功績はあったようだ。

ちなみに氏だが、おおくの文献をしらべあげたけっかの執筆であり、ボクも楚材の功績にかんし、確認をしている。なるほど他国の史書には、楚材の名は見あたらない。

しかしだからといって、中国史による、まったくの捏造ともかんがえづらいのだ。

モンゴル帝国成立の初期段階でかれが、租税による財源制度を提示したことにまちがいはないのだから。

そんな楚材がつかえた人物だけに、その後も、たんなる血に飢えた殺戮者と断定するにはムリがある。

とはいえ、正確な史料のすくないチンギス・ハーン(井上靖氏作“蒼き狼”を学生期によんだけっかにおいても、血に飢えた殺戮者とはおもえなかった)だけに、秀吉との対比をすることができず、豹変の理由をしることはかなわなかった。

痛恨ではあるが、これら十五人とを、対比するという手立てでも、成功しなかったのである。