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核兵器を全廃させる、未来からのテロリスト~破壊が生んだもの~ 第三章(前編)

「彦原さん、副所長の貴方がとなえる理論の最終形、近い将来、日の目を見るとのことですが…」三カ月ほど前のことである。「それで、タイムマシンの理論を実証する実験も今年中らしい、とか」
 探るような視線をむけてきた優男、ただ、具体的内容までは知らないようすだ。
 ふた月ほど前、上司である女性所長がひき合わせたこの男。==名前、何ちゅうたかな?==直感で、危ないにおいのする人物だと。彦原は、産業スパイではと強く疑った。三十代半ばで背が高く、女性が幻惑されそうな甘いマスクと鍛えられ引き締まった体型をしていた。
 で、こんな、鎌をかけてきた男が、相手の反応を見定めようと横目で彦原の端正な顔を覗きこみ、両耳を泥棒猫のようにたてながら、社の超トップシークレットを口にしたのだ。まるで世間話でもするように。
 だが現時点で、ある種のタイムマシンに相当する理論の最終実験間近を知るものは、関係省庁の局長クラス以上を除くと社内上層部にしかおらず、しかもごく限られていた。
「はっ?何のこっちゃ?」彦原は、役職に不似合いな言葉づかいをした。普段のかれは、こんなくだけた物言いはしない。きわど過ぎる話をかわそうと、とぼけるしかなかったからだ。
 だいたい、場所からして、こういう話に相応(ふさわ)しくない。
 夢の具現化のスタートとして、宇宙物理学と地学の知識を身につけはじめた十二歳から数えて、十九星霜。ようやく、とりあえずの目標の最終実験段階にこぎ着けたのだ。その間、他人には想像できない労苦の連続だった。味わった辛酸と挫折も、枚挙にいとまがなかった。
 それでも、青春も若い欲望も全て打ち捨てて、一心不乱にとり組んできた。夢のままおわらせないため、不可能を可能にするために、立ちはだかる絶壁に二十指の爪を突き立てる思いで、文字どおり止暇断眠(不眠不休よりも挑戦的)で挑んできたのだ。
 それが誇りだった。かれの人生総ての“よすが”である。
 そんな十九年の生きざまに、泥を塗られた気分となった。
形状を変化させる機会も暇もあまりない男の大事なものをふって、早々に納めジッパーをあげた。その男を無視するように手を洗い、トイレを出ようとした。
ところで、この唐突な話はやはり、優男のもの慣れた誘引であった。「極秘話だからこそ、盗聴の心配のすくないトイレを選んだんですよ」
 盗聴忌避が事実であるかは、男にとってどうでもいいことだった。天才宇宙物理学者なればこそ世事にうといとみて、安心させたかっただけであった。
「それにほら、個室のドアは、全部開いてますしね。だから、だれも聞いちゃいませんよ」
 彦原には、男の薄ら笑いの奥に、狡猾が透けてみえた。女性には、この手の男のこざかしさが見えないのか。こいつが見せないようにしているのか。女性経験の乏しすぎる彦原には、まったくわからない。
 ただ、栗栖浩二と名乗った男の肩書きは、政府機関の外郭団体の幹部となっている。
「私の素性は、どなたかに命じてすでにお調べになったでしょう。その結果どおり、決して怪しいものではありません。それどころか、愛国者として応援しているひとりです。なんなら信用いただけるよう、僕のことをもっと詳細にお話しましょうか」
 2095年七月十六日午前十一時半の強い陽光が、本社ビル男性トイレの大きな窓へと射(い)、男の足元近くを射している。
「そんなことより、だれから情報を?」女性所長を籠絡(ろうらく)(=手なずけて操ること)したあとの寝物語でだと暴きたかったが、逆に、迂闊にも口が滑った形だ。ひとを信じやすいという善良さが、つい出てしまうのだ。
 ちなみに、彦原の見立ては半分以上当たっていた。
「公然の秘密ですよ」だれでも知っている、そんなはぐらかしをしつつ、自分の土俵に乗せてスパイとしての成果をあげようと目論んだのだ。「だとしても、やはり否定しませんでしたね」鈍い光が双眸から放たれ、瞬間、片方の口の端がおもわず上にかすかに捻じ曲がった。
 俗にいう下卑た笑いというやつだ。腹黒さでは、シャイロック(シェークスピア作“ベニスの商人”のユダヤ人商人)にまさっていると彦原は思った。
“油断は即、命とり”と、警戒を最大レベルにまで引きあげる必要ありと、彦原は刹那に痛感した。しょせんはスケこまし程度の男と軽蔑していたぶん、舐めていたのだが。
「《ひとの口に戸は立てられん》といいますからね」バカな女性所長をたらしこんだあとの寝物語だと教えるつもり、この男にはむろんない。
「ああ」との納得に続く「なるほどね」は呑みこみ、「お宅の場合は、<壁に耳あり、ジョージにメアリー>というやつかな」まさに前世紀の遺物的ダジャレを、彦原らしくなく発した。
 とはいえ駄弁を口にする陳腐な駄目はしない。<ジョージにメアリー>は皮肉のつもりであった。ジョージは目の前の女たらしで、メアリーが上司である女性所長をさしていた。
「さあ、何のことでしょう」とぼけながら、「そういえば《生き馬の目を抜く》とも…、たしか、貴方の…」しかしこの男こそ、危うく口が滑りそうになったのだった。
 初対面のその当初から、彦原を年下の学者風情と馬鹿にしていた。しょせん、頭でっかちな若造と見下していたのである。子供だましていどの策を弄したくらいでも、秘密をポロリと簡単に洩らしてしまう青二才と侮(あなず)っていたからだ。コンプレックスを自身に認めたくない心裡がはたらいたせいだろう。
 いずれにしろ、侮りが油断となり、迂闊にも「(貴方の)母国では」と発しかけた寸前で、喉の奥に押し戻したのだった。
 そう、栗栖浩二は近隣国の工作員、産業スパイなんかよりずっとたちの悪い正真正銘のスパイであった。大学生時から、男は日本人になりすましていたのである。
 盗人たけだけしくも、当たり前のようにスパイを送りこむ隣国が、得意とする戸籍偽造をしたのち大学入学や日本政府関係機関に就職させるなどは、造作もないことだったのだ。
 で、これは栗栖たちにとっての内輪話だが、近隣国情報部の内偵の結果、彦原を、金銭や色香では釣りあげられないと踏んだうえで、手錬の男スパイを起用したのである。
 ところで彦原、そんなことまでは知る由もない。ただ自身の悲願達成のために、男を=産業スパイに違いない=と強く疑い、それ相応の応対をしたまでだ。
 悲願の達成。…その実体は既述したとおり、いまだ、プロジェクトチームのだれにも明かしていない秘めたる決意でもある。十五歳から十六年を費やし自身の人生を賭した、だがそれは、社命からの逸脱どころか、恩を仇でかえす非道そのものであり、いやちがう、大逆でしかない行為なのだ。
 部下が知れば、開口一番「身勝手だ!」となじるにちがいない唯我独尊的使命なのだから。
 それでも、裏切りと承知で、なにがあろうと成就させるのだと。
「なるほど…。おたくの甘いマスクを活用し独自のルートをつくって、ここの最高機密情報をゲットしたということですか」こんどは彦原が鎌をかけた。
「とんでもない」真顔で、男は即座に否定してみせた。「宇宙物理学の理論を活用してのタイムマシンの話を知ってる外部の人間なら、ほかにも結構いますよ、きっと」と自信ありげにうそぶいたのだ。
 なるほど、「知ってますよ」を誘い水のように巧みにつかって、相手の情報をこんなふうに引きだすんやと、この男の手の内をさとった。ということは、逆を察するまでもなく、具体的な理論や仕組みをなにも知らない、==はは~ん、やはり==と彦原は感じとっていた。
 かれとCEOや専務との一致した思惑で、天下りの就任一年目女性所長には、タイムトラベルの原理までは教えないと取決めていたのである。二年ほどで別の天下り先へいくのだから、お飾りの名誉職につけておけばいいとなったわけだ。
 そんな裏事情を知らない栗栖は探るような目つきをひそめ、「機密事項って結構洩れるものなんですよ」と。ここで万が一、情報の引きだしに失敗しても、所長という切り札が手の内にあると、男はいわば高をくくっていたのだ、飾りだともしらずに。
 それはそうと、秘密漏洩という男の言葉にうそはなかった。米政府が秘密裡に開発した原子爆弾製造の技術を、いとも簡単にソ連が盗み取ってしまった史実。歴史の暗部として、あまりに有名な話だ。
「おや、その疑いの眼、心外です。むろん僕のことではなく、《生き馬の目を抜く》との表現はただの一般論です。日本技術の粋、世界の最先端をはしる企業の機密だからこそ、心配しているんです。こうみえて愛国者ですから」相変わらず、年下の学者風情と見下した目線でいった。=学者バカとはこいつのことや。「最高機密情報」などとぬかしおった。あっさり認めたことにすら気づいてないんだから。素人はこれだから扱いやすい=肚裏で嘲笑った。北京語でだった。
「お気遣いに感謝します。では伝えてください」誰にとは、あえていわなかった。「今の今、延期が決まったと」ウソだった。いっぽうで、自分たち特別チームが陰ですすめてきた計画を急ぎ実行せねばと、くわえて、再度の、ある請求にたいしても肚を決めたのだった。
 ところで、この青天の霹靂には、さすがに驚いた。「延期?えっ?そ、それ、本当ですか」いくら訓練を受けた敏腕スパイでも、唐突でしかも驚愕の発言に、狼狽をかくせなかった。
 と同時に、簡単に最高機密情報を洩らす、やはり専門バカと肚で嗤った。超エリートへのいびつな反骨心が頭をもたげたようだ。この男のいちばんの弱点なのだろう。
「専務と相談し、いま決めたばかりです。だから、まだだれも知りませんよ。ええい、ヤケクソついでや!」立腹しているようすの彦原であった。が、演技であり、じつは冷静そのものだった。「情ない話…、僕が築いた理論ですが、重大な欠陥に先刻気づいてすぐに報告し、それこそたった今、プロジェクトは無期延期となったんです。でも、私から聞いたとは決していわないでください」消え入りそうな声と表情、アカデミー賞ものであった。
 数々の訓練をうけた優秀なスパイだったが、七信三疑でダマされかけていた。
 彦原は続けた。「それと当然のことですが、重大な欠陥の内容についても、一切ノーコメントです。首になるだけならまだ生きていけますが、我が社に告訴でもされたら勝てるはずありませんから、莫大な賠償金を支払わされることになりますし」一大デマゴギーを吐きながら、しかも彦原はいかにも悔しそうにくちびるを噛んだ。
 こうして、真っ黒な肚でろくでもない思案を常にしているスケこまし野郎と別れた直後、“壁の耳”はひとつではあるまいと、彦原は急いで手を打つことに。男との直前の会話などを含め“非常事態”だと専務に、盗難防止コードで守られたスマフォでメールをうった。
 科学者としての自分を二十歳の入社以来育ててくれた恩人、代表取締役専務にたいし、全幅の信頼をおいている。彦原のプロジェクトからはつんぼ桟敷の女性所長とは、その点でも当然ながら雲泥ほどの隔たりがあった。
 そんな東専務だから、社内外でスパイが暗躍しているという“プロジェクトの危機”を鋭敏に理解した。社内外むけの対策は任せろとの、当意即妙のメールをかえしたのである。
 彦原も即応、それについて再度の提案をし、許可するとの返事をもらったのだった。
 ちなみに、彦原が若くして副所長に抜擢されたのは、ありあまる天分のゆえだけではなかった。かれの秀(ひいで)たる人格も評価されていたのだ。役職の上下をとわず多くから信頼が集まり、敬意すらはらわれていたのである。
 ひとは、かれをして、誠実と優しさと知性に服を着さしむがごとしと。
 ことに、むけられる優しさは人だけに限ってはいない。路傍の名もなき草花、次世代のためにエサを巣穴に運んでいる一匹のアリにたいしても、かれの眼は慈しみに満ちていた。
 そんな彦原は許可を得、自室(副所長室)はいうにおよばず、各取締役室すべて・所長室・会議室のすべて・研究エリア・実験エリア・各工場さらには食堂兼休憩室・トイレ等々にまでも秘密裡に、有用な装置を、信頼できる二十五人のメンバーとだけで適所に適度の数を、その夜を徹して急ぎ取りつけた。旧来の盗聴盗撮防止装置は、用をなさなかったからだ。
 その、気になる有用な装置だが…、産業スパイが秘かに設置した盗撮・盗聴装置に、ニセの映像と音声を感知させる最新の装置、平たくいえば、スパイにガセネタをつかませるための“偽情報流布(=広める)“装置、というものだ。
彦原はスパイたちに、一大プロジェクトに重大な不備がでて、実験が無期延期になったと信じこませせる手にでたのである。
 この手の盗人の暗躍を想定していた彦原が独断で、事前に装置をつくらせておいたのだ。
 だれ人にも、どんな組織であっても、なにがあろうと邪魔はさせないとの彦原の強烈な想い。
 しつこいようだがそれは、懊悩と自責がつきまとう使命感であった。
 責め苛まれつつ、それでもかれは、自分の人生の総てを懸けて、とてつもなくデカい計画をたて、ひたすら邁進しているのである。そのために発生する多大にすぎる犠牲は、もうしわけないけれど、“必要悪”とみなすことにした…のだった。
 というのも、彦原の個人的史観によるのだが、フランス革命・アメリカ独立戦争・明治維新等々、これらは人類史における代表的事跡であり歴史的偉業でもある。しかしながら、無血革命ではなかった。文字どおりの数えきれない犠牲者をともなっているのだから。
 つまり、偉大なる業績に血の代償はつきものと自分に言いきかせたのだった。そう考えることで、なんとか、けじめと決着をつけた、つもりなのだ。
 が…、堂々巡りは、じつは今もつづいていた。

核兵器を全廃させる、未来からのテロリスト~破壊が生んだもの~ 第ニ章(後編)

 そんな青い歳から十三星霜を数えた2092年。その間は、勉学と研究に明け暮れ実験に没頭する日々であった。ある意味しあわせで、平穏な人生だったといえよう。
 だが大虐殺テロという青天の霹靂のせいで、悶えるほどに慟哭したのである。
 ニュース速報に接した刹那は、できればと希(こいねが)った。悪夢、いや誤報であったほしいと。
 ホロコーストの比ではない巨大惨事を。ブェスビィオ火山大噴火で消滅した古代ローマの都市ポンペイの数千倍(人口比)ではすまない最悪の悲劇が、じつはなかったとして。
 だが彦原の切なる願いは、あえて云おう知るひとぞ知る、舞いおりる汚れをしらない白雪が、まるで英国サバーン川のボアという海嘯(かいしょう)(大アマゾン川を逆流するポロロッカに似た自然現象)のような激しい濁流に呑みこまれるに似て、虚しく消えてしまったのだった。(ポロロッカは一見の価値あり。ネットにて映像を配信)
 清白な願いは、大虐殺という事実に食いちぎられたのだ。テロの理由が、たとえ崇高であったとしても。
 信じがたく、そしてニュース映像は思い出したくもないが、地球滅亡のきっかけともなりうる、全世界を震撼させた核兵器テロが起きたのである。
 2045年、共産党政権をクーデターで倒した軍部独裁政権ひきいる中国の、北京や上海等で、944日前に起きた四都市同時の、全てにおいてあり得ない核兵器テロ事件のことだ。
 原因は、民衆弾圧を重ねつづける軍部政府に反政府ユニオンが抗議し続け、そのたびの武力制圧にたいする積りに積もった憤怒が爆発した暴挙であった。独裁政権が強(し)いた血の歴史のはての、一部過激派による本末転倒でしかない無差別テロである。
 一瞬でうまれた、数値を正確には掌握不可能な、五百万人以上の死。あまりにも膨大で、実感をまったくともなわない死者数であった。
 以下は、世界が嗚咽した実態、見たくもなかった映像の、そのごく一部である。
 まずは、外壁や路面に影のような痕跡だけを残し、だが骨すらも残らなかった無数の人命(広島平和祈念資料館=原爆資料館の“人影の石”を参照)。
 そして、滂沱(ぼうだ)(=とめどなく流れる涙)のなかでも目をそむけなかったものがみな懐いた憤りと、あとの歯噛み。
 損傷のあまり、性別すらわからない焦げた死体が足の踏み場もないほど、まるで火事場の黒い廃材のように転がっていたのだ。そして八方の風景はすべて、モノトーンだった。
 しかし五体がつながっているだけ、それでもまだましだったのだ、
 今いちど爆心地へむけ戻るほどに、そこかしこで散見する実態は、左足のみとか右腕しかとか親指一本だけがなどの……、いやいや、悲惨なこんな描写、もう充分であろう。
 ああ、さらに日を追うごと、新たに見つかる被爆死体と重度後遺症に苦しむ患者の無残な姿。たとえば全身火傷や一部壊死、はげしい頭痛や嘔吐などの症状、そののちに発症した各種のガンや白血病等々、重大疾病の増加やまない、人々の夥(おびただ)しさ、云々。
 四発の核兵器の爆発がまき散らした天文学的量の人工放射性物質による大気汚染や河川海洋汚染等々……甚大にすぎる被害、ではとても表現できず、また紙面もたりないあり様であった。
 これを因とする、ブラックホールに似た救いのない絶望が、彦原を叩き打ちのめしたのである。
 核兵器を廃絶すべし!なにがなんでも!
 孤独な心はその深奥で、なんども絶叫したのだった。
 社命による責務からはおおきく逸脱してしまった個人的使命感が、思いもよらず急速に成長・肥大化し、やがて横溢したのだ。あの映像は、彦原にはそれほどに強烈であった。
==もう、あと戻りはできない==このときは、まだ三十路前だった。だからの暴走なのだが、気が狂ったかのように、みずからの理想を実現しなければ、現実のものとしなければ、と。
 人類を、地球を、未来を、壊滅から救うために!
 たしかに高邁(=気高くすぐれている)だがしょせん、彦原の想いは焦燥である。若さゆえの思いこみでしかない。
もっとおおきな思慮分別があれば、美しき理想には時間がかかるとして、暴走することはなかったであろう。
 が、核テロが悪夢や誤報であってほしいとの願いが打ち砕かれたとき、彦原は思った。==しかしだ、人類は百五十年もただただ無為に過ごしてきたではないか¬¬==と。
 それで、平和運動に未来はないと見限ってしまったのである。
 いや、かれらのことも、その尽力も悪く云うつもりはない。責めを負うべきはほかにいる。核兵器の増大に加担した為政者はいうに及ばない。が、それ以外の。たとえばヒトラーの暴走を止められなかった当時の政治家が糾弾されたように、厳しいようだが、廃絶に政治生命をかけなかった政治家たちもだ。
==ならば僕がやるしかない、知識も知恵も、そして核全廃を実現する能力をも手にしたこの僕が==
 彦原はこうして、心裡(り)における思いこみがもはや、制御のきかない状態となっていた。
 国家を例にあげるならば、2014年以降のシリアだ。暴君アサド大統領の暴政が、アブー・アル・バグダーディー率いる世界的テロ集団IS(発生の因は複雑で、イラク戦争などの悪政にもある)を強大化させ、日々流血地獄の泥沼化無政府状態にしてしまったに似て、だれも止めるものが存在しなくなったのである。
 いや、個人にたとえるとしよう。今度は架空で恐縮だが、いわば、学者フランケンシュタインによって新造された気味の悪い人間もどきが、製造主の意思に反するのみならず、くわえて疎外や迫害により自制を失った結果、復讐に狂うモンスターと化してしまったように。
 彦原の理想は麗(うるわ)しくかつ高邁(=志が高い)なのだが、だからこそ実現するとなるとさすがに現実味からは乖離(=へだたった状態)しすぎ、方途が収拾できないほどに途方もないものとなり、挙句、醜い怪物としか表現できないおぞましい境涯(=その人の立場や境遇)となるのである。
 核兵器完全廃絶という理想と使命感ではあったが、実現するとなると、真逆の構図が浮かびあがってしまうのだ。
 それを承知でなにがどうあろうとと、溢れでた使命感が暴走しだしたのだ。理想を実現せんとの焦りが自縄自縛に陥り、人間が本来有する制御システムという理性が、機能しなくなったのである。
 心の葛藤ですんだ十五歳のころは、まだ制御の範疇にあった。が、もはや手の施しようがなくなったのだ。
 核兵器テロに理性が蹂躙され、ストッパーが砕け散ったのだから、かれの心の奥底で。
 はた目にはわからないが、もはや精神は支離滅裂であった。
 そんな人格崩壊寸前であっても、かれはだれにも打ち明けることをしなかったのだ、断じて。
 たとえ、彦原が全幅の信頼をおく部下たちではあっても、計画を知れば、黙認するはずないからだ。==僕の大義にだれが同調するであろうか==
 それどころか、止めさせるため、警察庁のテロ対策課に通報するにちがいない。
 そうなれば、人生の大半をかけてきた夢、少年期から描きつづけてきた夢、宇宙空間のひずみを駆使してのタイムマシン製造までもが、“重き荷を負う”たのに、完全に頓挫してしまうのである。
 そのうえで、“露と落ち露と消えにし我が身かな 浪速のことは夢のまた夢”(=豊臣秀吉の辞世)つまり、ノーベル賞受賞も儚しとなる。もっとも彦原は、そんな小さなことに頓着しているわけではないが。
 いずれにしろ、決して明かさない。==人生最大の夢を、だれにも邪魔はさせないために==
 ようやく実現という域に達し、同時に、本来の姿ではないにしろ一応の社命達成、それをタイムマシンとあえて呼ぶが、完成間近なのだ。
 十二歳から歩みはじめた長い道も、最終ではないにしろ一応の、ゴール寸前というところにきている。
 本来ならば、狂喜乱舞すべし、なのだ。また、全世界からの賞賛も至極当然なのだが。
 しつこいが、彦原の無念の極みをわかってやってほしい。
 あの、核テロのせいで、なにもかもが完全に狂ってしまったことを。
 結果、人類史上最大の発明を、物理学者として純粋なおもいで創りあげたかったタイムマシンを、だれもが考えもしない手段でつかう破目に……。
 そうなればつまるところ、世話になった人々や社への報恩(=うけた恩に感謝しそして報いる)どころか、背信の暴挙しか残さないことに…、嗚呼!
 充分にわかっていての、「いかなる犠牲もいとわず完遂を」との決断をくだしたのだ。
 だが、はたして許されるのか。==ぼくは、犠牲者に、どんな言葉をかければいいのか、どう云えば許しを乞えるのか…==。否、謝罪の言葉を口にする勇気すら自信がない、許されるはずのない、信じがたい暴挙だからだ。
 彦原は、神を信じない。畏敬の念など、だからあり得ない。しかし良心は、もっている、しかもだれよりも強く大きく。だから人知れず悩んだのだ。夜な夜な苦しんだのである。
 いや、じつは今も自身どこかで、犠牲者の甚だしさに、良心が苛まれているのだ。そして精神は、揉みくしゃにされ踏みにじられたボロ紙のよう。
 それでもとやがてかれは、こう腹をくくったのだ、命がけでやると!
 むろん、決めた使命を完遂すれば、数万人という犠牲者を、当然僕は目の当たりにする。
いわずと知れた、膨大な犠牲を強いる張本人なのだから……ぼくは。それでも、
==それでも未来永劫の人類のために、1945年の米国へやって来た、未来からのテロリストになるのだ、彦原茂樹という名のこのぼくは==

核兵器を全廃させる、未来からのテロリスト~破壊が生んだもの~ 第ニ章(中編)

 入社一年目の二十歳からずっと、彼の心身に沈着しつづけた重圧、さらに経年の責務と疲労の増大。年々、役職が上がるたびに職責を果たしてきた重荷。そしてついに、社運を背負(しょ)いこんだための大きすぎる負荷に由来する心労、この、二十六歳からの負担がとくに大きかった。
 チャップリンの珠玉は、そんな呪縛から解放し蘇生させてくれたのだ。さらに、十二歳からのタイムトラベル実現のための活力の一助ともなってくれたのだった。
 ぐっすり眠りたいときは、チャップリン作曲の“モダン・タイムス”〈スマイル〉や“ライムライト”〈テリーのテーマ〉そして“街の灯”などの収まったサントラ盤を流していた。癒してくれ、精神安定剤や睡眠薬の代わりにもなっていたのだ。深い眠りと心地良い起床をもたらしてくれたのである。
 さて、読者はお気づきだろうか、直前に表記した彼の心裡、作品への特に六行ぶんが全て過去形であることに。彦原にはもはや、それが遠い過去に思えて仕方なかったからだ。
 あゝとおもわず洩れる歎息。口惜(お)しいのである。
 嗚呼、だれもそしてなにも癒してくれなくなった、そんな喪失感や寂寞、ただただ侘(わび)しいのだ。自分を救済してくれる効力の、消滅してしまった今となっては…。
 包みこんでいるのは、自身が発した、木枯しに似た生気のないため息だけとなった。
 にもかかわらず、つねに接する、たとえば部下たちですらだれも気づいてはいなかったのだ。
それだけに一層、心の奥底で悶々ともがいていたのだ、ひとり砂漠でとり残されたように、打ちひしがれて。
 …だからと、なににすがれるだろう。あきらめの陽炎の、≪今は昔≫の日々だったのだ。
たった二年七カ月前のことなのに。チャーリーから寄与された充足も、今はおぼろな遠景のようにかすんでしまっている、存在のない、蜃気楼のように。
 心酔そのものがなかったかのような、心境の激変。
 彦原の心底に、人生初の大激震が起こったからだ。末世と、そう実感してしまった大事件が突きつけた、過酷ではとてもすまないあまりの現実。それを前に、安息を願うなどもはや甘え以外のなにものでもないと。
==ほんとうは、今も癒されたいのに…==いや違う、懊悩困窮の秋(とき)だからこそ、癒されることを切実に願っているのだ。
==今さらの“たられば”だが、あんなテロさえなかったならば==
 まさに、彦原二十八歳時に起きた大虐殺テロリズム。そのせいで、にわかに湧きいでた煩悶が心にこびりついたまま定着し、払拭はおろか消去も不可となってしまったのである。
 当事者ではないとはいえ、ひととして看過できないほどにそれは残酷であった。他国とはいえ、あまりに悲惨な映像を…、テロが惹起した最悪の地獄絵を目の当たりにしたからだ。
 死者の数と破壊が激甚だったから、その事実を伝えた映像も、凄まじいほどに過酷でまったく容赦はなかった。激烈な事実を隠すべきではないと、国連安保理で採択されたからだ。
 それにしても、日本は当事者ではないものの、たしかに近隣者である日本人も、テロにより発生した二次汚染の被害をすくなからず蒙ってはいた。
 だが日本人の大多数も日本政府としても賠償云々をふくめ、当事国に抗議しなかった。当然といわれればそれまでのことだが、問題視すらしなかったのである。
 最大の被害に遭った同国の人々へ、強く同情したからだ。
 と同時に、官民が同体となって、真っ先に救援や支援を惜しまなかったのである。
 だからといって、そんな至極の人道的支援の質も量も、いちいち恩着せがましく語る口を、日本人はもちあわせてはいない。

 いや、自分でいうのもなんだが、今、そんな能書きなどはどうでもいいどころか、不要でしかない。
 それよりもじつは、深刻な彦原の想いにこそ、注意をむけるべきなのである。
 想い。たとえいびつであろうとも、それは、苦悩しつづけたかれが辿りついたところの正義感であり、義侠心でもあった。
 連夜の悪夢にうなされつつ、それでも突き進むと決意した、1945年における歴史の大転換。想いとは、結実させることであった、なにがあろうとも歴史変革を。
 人類史上最悪の汚点を歴史からきれいに消去し、拭い去りおえるその日を起点に、綿々と続いてゆくはずの平和な世界を、美しい未来永劫を、たとえ数万人の尊い血に、彦原自身の手がまみれようとも、かれは手に入れたいのだ。
 そのために、中国唐代の話、“天荒(未開の荒れ地との悪口)を打破した”を語源とする“破天荒”を目論(もくろ)み、別儀、空前絶後の恐ろしい陰謀を引きおこそうとかれは企てているのである。
 すっかり謎めいてしまって恐縮(きょうしゅく)の極みではあるが、彦原のそんな、破天荒な陰謀とはいったいなにか?…だがその前に、謎解きのための前段を、少々長くはなるが、知っていただく必要があろう。
 2011年三月十一日午後二時四十六分発生の東日本大震災。
 日本での観測史上最大のマグニチュード9.0による地震もだが、その後のあの巨大津波を映像で見て、嗚咽しなかったひとがいたであろうか。人々がさながらアリのように呑み込まれ、抵抗できないまま逆巻く巨大波に引きずり込まれてゆく姿を見て、救援したくてもできなかった自分の無力を、嘆かなかったひとがいたであろうか。
 …だから、もはや傍観を、彦原は自身に認めることなどあり得ないのだ。
 むろん、生まれるはるか以前のこの大震災は約四十六億歳である地球の営みの結果であり、天災は当然、止めることなどできない。たとえば風力3えいどの風を止めようとしても、それすら、今の科学力では無理なのである。
 歴史を変えられるといっても、人為的出来事の場合だけである。
 ところで、人災が生みだした甚大な不幸、もっといえば危機存亡的問題を思うに、国家間の利害や民族間の戦闘や内戦を因に、哀しいかな、いくつも存在している。
 そのひとつ。アジアやアフリカにおいて、人格・人間性や人間の尊厳そのものとは一線を画す、貧困というたったそれだけの、ある意味バカバカしい理由で命の救済がない、殊に子どもたちこそ声を発しない弱者ゆえに見捨てられている悲惨な現実。
 だが、世界はおおむね、耳目をそばだてようとはしない。
 一方、世界の富は、その大半がごく一部の超富裕層の手元にあるという。
 だったら一部でいいから施せばいいのに、かれらの大多数はじぶんの手首や手指を輝かせるちいさな光り物には関心満々でも、プラス、クジラなら必要なのかもしれないが、2mほどのしょせん人間が大きなプライベートプールを持ちつづけようとがんばっている。
 奈良時代初期の万葉歌人、山上筑前守憶良は詠んでいる「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに、勝れる宝子にしかめやも」金銀財宝なんどと比するまでもなく、我が子こそが宝である、と。穿(うが)てば(深く掘る、転じて本質をみる)だが、人間だけがしめす強欲を、ある意味コッケイだとよめなくもない。
 憶良もおもったように、子どもたちの屈託ない笑顔こそが最高の価値をもち、光り輝いているというのに、だ!
 彦原は、自分の手腕で救える命があるなら、手をこまねく科学者であってはいけないと。
 みすみす見殺しにし、気づいてから悔恨に苦しむなんて、それでは二重の辛苦となり、暗愚ですらある、そう強く思っているのだ。正義漢ぶっているのではない。《義を見てせざるは勇無きなり》という約2600年前の一節が、かれのなかで生きていたというだけである。
  “ハイル・ヒトラー”と言わしめる独裁者ヒトラーにたいし、チャップリンが命を狙われても、一種の暴君だと糾弾した勇気。“チャップリンの独裁者”公開もこのことわざに尽きる。
 彦原はひととして…、自身が迷(まど)い、あるいは逡巡している秋(とき)ではない。懊悩に溺れている場合でもむろんないと。それどころか、チャップリンを見習うべきだと。
 そういえば、彦原がまだ少年だった、十六年ほど前のことである。
 十五歳になってまだ二カ月少々という成長過程のゆえに、そしてより多感となる時期だったからこそ、そのときも本気で懐いた理想があった。
“核兵器廃絶”という、まさに壮大な夢。純な思春期だから、真っすぐに真剣であった。
 全廃しなければ、銀河に誕生した奇跡の星、命の満ちあふれたこの美しい地球がやがては、人工放射性物質によって死の星となってしまうであろうと。
 それほどの大量破壊兵器の開発・製造や威力増大のための競争は今もって盛んだが、ホモ・サピエンス(知恵あるもの)とみずからを称する人類は、…なかんずく為政者たちは指導者の立場にありながら、名ばかりの愚かな生き物でしかなく、核廃絶に資する各国の市民やノーベル平和賞受賞の国際的組織(核戦争防止国際医師会議IPPNW1985年受賞やパグウォッシュ会議1995年受賞など)の悲願にたいし、百五十年たった今も、協調はおろか、耳をかそうとすらしてこなかったではないか。
 彦原は、それが恨めしいのである。
 維持・管理・開発・製造・廃棄等についやす莫大な資金(一例、2016年に明らかになった米国核兵器の高性能化に、三十年間で一兆ドル計上計画)を、飢餓や不衛生な飲料水、エイズを含むウイルス感染症等に苦しむ人々、殊に、なんの罪もない子どもたちの救済につかえば、無数の尊い命を救えた、いや今だって救いきれるのにと。
 ただただ、その想いなのだ。
 そんな子たちがもし生きながらえて成人していれば、やがては人々を救う、たとえばノーベル平和賞に値するような人材となったかもしれないのに、である。
 ところが愚劣なる権力者、その最たるプーチン(悪辣な意図のもとで核兵器使用を示唆、恣意【=自分勝手な考え】に逆らう米やEUを恫喝した)や金正恩、前世紀のスターリン等々、かれらはそれでも命の救済という、こんなわかりきった正義には見向きもせず、自己の体制を保持しつつ、みずからの営利に血道をあげてきたのだ、数多(あまた)という計り得ない命を逆に奪いながら。
 そして遺憾(=残念な思い)なことに、二十一世紀末の今日においても、この手のゲスの極みだが、まちがいなく存在しているのだ。ではなぜ、奴らは尊大である自己を一顧だにしないのか?
 彦原は、一言で片づけた。
 “我こそが尊貴な存在”だとして、(核戦争勃発寸前だった1962年10月のキューバ危機だけではない)歴史に学ばない愚蒙(=おろかで道理に暗い)なままの権力者だからだ。それで、普通の中学生でも予想できる世界的な危うさを想定しようともせず、平然としていても平気なのである。
 …しかしながら二万発を超え、とっくに飽和状態といわれる核兵器をこのまま放置し続けた場合、たとえ偶発であったとしても、核戦争が、いずれは勃発するであろうと。
そう、六十三年も前(ちなみに彦原は2064年生まれ)、たとえば、2016年の(上記とは別の)歴史的できごとを、ご存知だろうか。米第四十四代大統領バラク・オバマが被爆地広島を初訪問したときのことを。そして当時、唯一の核兵器使用国だった国家元首が被爆者とハグしたそのすぐ横に、核のフットボールがあったという無神経な事実をだ。
 核兵器の攻撃許可を即座に出せるアイテム一式がはいった黒いカバン(核のフットボール)がつねに、米大統領とワンセットだという、核保有国の常識、非保有国の非常識を。
 むろんこの事実だけで、偶発の可能性を声高にいうつもりは、彦原にもない。とはいえ、ほかの保有国も米を見習っているとみるのが、軍事の常道である。それを前提に憶測した場合、世界情勢にかんがみ、背筋が凍ってしまうではないか。
 自国の権利や利益だけを主張する世界第二の人口(蛇足ながら一位は2095年現在、インドである)を有する独裁国家が、現に存在しているからだ。
 力ずくで無理をとおす国家エゴなど、前世期以前の世界情勢であって、ファシズム(=権力者への絶対的服従を強いる体制)的国家もその思想や形態も滅び去ったはずなのに……。なにを勘違いしているのか、経済力と軍事力をバックに、超大国の独裁者が、我欲を無理やり圧しとおそうとしているのだ。
 でもって、たとえば通り魔。刃物をふりかざす精神異常者に、誰もが恐怖を懐くように、核のボタンが身近にある独裁者が精神に異常をきたさないという保証、あるのだろうか。
 くわえて、ともに大量破壊兵器である化学兵器には、“非人道的”という理由から化学兵器禁止条約が発効して長いのに、比較にならないほど非人道的である核兵器には、今もって有効な歯止めが乏しい現実。
 くり返したが、人的にも制度面でも、破壊力でも問題だらけの核兵器なのである。
 よってかんがえたくもないが世界はひたすら、誇張ではなく、堕地獄へと向かっているのだ。
 扇動する意図など微塵もないが、勃発前夜とも表現できる当代は、だからすでに暗黒時代ともいえる。昨日までと同じ平穏な日常として、民衆はそれに甘んじているだけだとしたら…。鈍感であることで、不安を感じていないにすぎないと、彦原はそう思っている。
 焦眉(=さし迫ったさま)の絶滅的危難なのに、それに気づかないだけなのだと。
 そのことに民衆だけでなく、自国民の生命・財産を第一義に考えるべき為政者も同様に、核兵器の暴走に危機感を、暗愚にも懐いてこなかったのである。
 だから、《転ばぬ先の杖》には手を伸ばそうともしなかったのだ。
 世界には、人類をなんどもなんども絶滅させられる核兵器が現存しているというのに。
 さらに保有国において、危うい独裁国家がいくつかあるにもかかわらず。
 被爆者の五~七代あとの子孫たちを中心に、声も枯れよと“核廃絶”を訴えているのに。
 核兵器の恐ろしさに鈍感な人々にたいし、少年彦原は忸怩(じくじ)(=心中、恥じ入るさま)たるおもいにかられた。
 とくに最悪なのが、世襲で権力を握ったさる暴走国家の元首の存在である。まるで幼児が、玩具を振り上げるような気軽さで、核兵器をこれ見よがしに玩(もてあそ)びつつ、世界に脅威を与えていることにだ。
 強大な兵器の存在とその使用による潰滅的破壊(しょせん、ぼんぼん独裁者の虚勢・空威張り、時代錯誤うんぬんが世界的な見解)の示唆により、とくに国内を、もって意のままに操ろうと企み、あるいは殊に暴力でことを治めようとする愚昧さ、まさに野蛮人さながらで、同じ人間として少年彦原は恥じいるしかなかった。
 ところで、“カサンドラのジレンマ”という言葉がある。
 ギリシャ神話に登場する王女カサンドラが発したトロイア滅亡の予言、それをだれも信じなかったことで起きた滅亡という悲劇。だが逆に、もしトロイアが国家として予言を信じ、対策を講じたばあいはどうなったか?滅亡の回避をみなが喜んだかというと、そうではない。予言ははずれたと人々は、預言者を罵倒するのがおち。つまり、どのみちジレンマとして、不幸な結末をむかえることになる。そんな事態をさすのだ。
 だから少年彦原は、予言などという愚を犯すべきではないと考えた。空理空論も不要だとした。肝心なのは、実行である。
 できるだけ早い将来、自分の手で、核兵器を廃絶するのだと。
そんなかれがただ残念とおもったのは、だからといって、理想を達成するための具体策を持ってなかったことである。それで……、
 いまは才を磨きつつ身につけ、そののちに、大義実現のための方途を見出すしかないと決めたのだった、十五歳の秋に。

核兵器を全廃させる、未来からのテロリスト~破壊が生んだもの~ 第ニ章(前編)

 独身で、結婚はおろか恋愛経験もない男は、火・木・土のみのナイトキャップにヘネシーXOを嗜(たしな)んだ。口にあうぶん、心までがくつろげたからだ。
 左掌上のコニャックグラスには、ストレートでスリ―フィンガー。シャワーを浴びたばかりの主(あるじ)にと、家事ロボットが持ってきてくれたのだ。
 その足で居間へ。すでに、窓の両サイド設置のふたつの暖色系間接照明だけになっていた。なごめるよう、セットされていたのだ。あとは、お気に入りのソファーに身をまかせた。彼をやさしく包んでくれるからだ。
 ナイトキャップにはほどよい半時を、無為のままに過ごすのだった。付きあってくれた友は、ベートーベンやモーツァルト、ショパンにチャイコフスキーなど。天才作曲家のなかの、そのときの気分で、誰かひとりだ。
 若き天才の、これは就職直後からの五年間の、夜間、自宅にてのオフの姿であった。

 それから六年後の彦原茂樹、三十一歳。
 勤務する社内外で、彼は天才科学者の名をほしいままにしている。それだけ、期待はとてつもなくデカいということだ。人々の期待にたがうことなく、最初の大仕事となったある発見から数えて今や十一年。
 その間の、三大と称される発明により、彼は、莫大な利益を社にもたらしていた。
 そのぶん反動も大きくなる道理で、現在のストレスは、二十五歳までの比ではない。
より重くなった職責による疲れ切った心を癒やしてくれたのは、ある巨星が制作した映画群であり、その彼が創作した音楽であった。
 巨星とは、前世紀の偉大な喜劇王チャールズ・チャップリン。映画群とは、彼が監督・脚本・主演・作曲・製作等を手がけた作品の数々を指している。
 毎月の最終の休日はだから、敬愛するチャーリーに身を委ねる。誰にも邪魔されぬよう、直前に、他者からの連絡手段を全て断ち切るのだ。万全の態勢をとってチャップリン作品に、その大柄な痩身を任せるのだった。
 作品に心酔する、そんな彦原の顔を観察すれば、若き日の喜劇王の素顔(チョビ髭は撮影用で、実際にははやしていなかった)に、全体的に似ている。
 眉目秀麗という言葉がうってつけなほどに整っているのだが、どこか憂い顔である。円らな瞳の奥にひそむ翳(かげ)が、笑顔すらも寂しげに感じさせるせいだろうか。とおった鼻筋、意志の強さを滲(にじ)ませる締まった唇も似ている。
 違うのは、尖りぎみのあごの強い線とすこし広めのひたい、容貌ではないが長身という体躯くらいだ。
 そういえば、生い立ちも相似している。生後まもなく、父親は別の女をつくりふたりの前からは消えてしまった。ひとり息子を養育していた母親だったが、やがて精神に異常をきたし、それからは別れて暮らすことに。かれは高校を卒業する十六歳まで、児童養護施設ですごした。飛び級で大学と院を卒業したのだが、就職するすこし前、息子が脚光を浴びる姿をみずして、母親は逝ってしまったのだった。
 ろくな母親孝行もできなかった悔いだけが、彦原の腹中にズシリと残っている。
 父親とは生き別れたまま、もはや生死もわからない。かといって、酷かった父親を捜す気はさらさらない。チャップリンが、自身の父親を捜したのかまでは知らないが。
 世紀も分野もちがう、天才のふたり。だが、たしかに共通点は多い。
 それゆえ、彦原にすればゆったりと手足をのばして、心までも委ねられたのではないか。兄弟みたいだから、チャーリーが醸しだす世界が心地よかったのかもしれない。いやそれ以上の安心感、あえていえば、そう…、胎児が胎内で身の安寧と健勝を約束され、その深大さに浸(ひた)りきった姿、といえば近いか。
 1917年制作の短編”チャップリンの移民”に始まり1952年制作の長編”ライムライト”まで、好みの十七作品で一つのサイクルを終わらすとまた、“チャップリンの移民”にもどるのである。月に一本と決めているので、ワンサイクルに約一年半かかる。
 しかし、決して見飽きることはない。また、短編だからといって二本同日に観ることも決してない。かれは、一本で充足できたからだ。
 それにしても、ずいぶんと古い映画であることは否定できない。にもかかわらず癒されたのには、別の理由もありそうだ。
 チャーリーの双眸が慈眼だからか。幼児期から辛酸を舐め尽したかれは、ひとの苦渋がわかるのだ。極貧の境遇にも負けなかったからこそ、真っ直ぐな心のままひとへの優しさを保ちつづけ、やがて慈顔を形成するにいたった。善良や善根が顔に滲みでていて、それが作品にリアリティーと説得力を与えているのだろう。
 それで彦原のストレスはいつのまにか雲散し、そのあと居心地よい温もりに浸れたのだ。
 巨星が演じる、自分も弱者なのに同様の弱きひとを精一杯支える慈愛は、幼きころの生きざまが大人になったあとも、そのままで結実したからではないか。
 震災などの罹災者自身が、被害に苦しむ他人のためにボランティアをするのに似ている。

 以下は、作品の簡単な紹介である。その前にひとつ、ベースはコメディだということ。
 最初は“キッド”がよかろう。無償の愛情を注ぎつつ、捨て子を守り育てあげる放浪者の話である。捨て子のキッドは、幼少のチャーリーを投影した姿ではなかったか。
 次は、盲目の少女に支援を惜しまない浮浪者を演じる“街の灯”。目の手術の成功と花屋の店主にという夢までも叶えた少女の気持ちを慮(おもんばか)る、ラストシーンでみせるチャーリーの悲喜ないまぜの、なんともいえない表情とフェイドアウト後の余韻。それが、観客の心をかきむしらずにはおかず、鑑賞後の切なさを醸すのだ。今も語り継がれる名場面である。
 西洋的現代文明社会にあって、幸せとはなにかを問うた“モダン・タイムス”。恋人同士、失業しても、それでも<前を向いて生きていけば、人生、きっとよいこともあるさ>ラストで、そう訴えかけている。
 戦争の愚かさと平和の大切さを、ユーモアというチャップリン仕様で魅せる“担え銃”。
 “殺人狂時代”、とは物騒な題名だが、反戦と命の尊厳を綴るために、ブラックユーモアと皮肉を効かせている。
 世界征服の野望者だといち早く断じたことで、ヒトラーに命を狙われる危機を覚悟した作品“チャップリンの独裁者”。ラストの数分間だが、平和を希求するチャップリンの、その面目が躍如するメッセージで結んでいる。
 観るひとを優しさ満ちる心持ちにし、人生に勇気と希望を湧き立たせる“ライムライト”。売れなくなった老コメディアンが、足の故障で踊れなくなり自殺をはかったバレリーナを救い、叱咤激励しつつ蘇生させていく物語である。ただ、単なるハッピーエンドでは終わらせていないのが、珍しくも辛辣だ。
 以上、彦原には珠のような作品群。溢(あふ)れ零(こぼ)れているのは、ヒューマニティーとユーモアである。どの一作をとっても、悲哀の人物をみるたび思わず感情移入してしまい、ときにはもらい泣きすることも。で、それにとどまることなく、彦原はこれらの巻末において、チャップリンならではのオプティミズム(前向き志向)にいつも勇気づけられるのだ、
 負けない強さが、ひととして美しいと。そしていつのまにか、心が洗われたようにすっきりしているのだ。
 古くさい評言を許してもらうならば、…まさに人生賛歌なのである。
 彦原にとって、珠玉に浸れる至福が、心を慰め癒し豊かにしてくれたのだ。
 天才物理学者は月に一度、天才映画作家からの恩恵を享受していたのである。
 すこし違うとしたら、“殺人狂時代”であろう。連続殺人犯が主人公というだけあって、表層においては人間賛歌を否定しているようにもみえる。しかしじつは、ブラックユーモアを駆使しての逆説表現なのだと、作品の奥底を反芻すればそれがわかる。制作意図は戦争の否定であり、戦争遂行の為政者否定でもある。底辺にあって揺ぎないものは、まさに人間主義なのだ。チャップリン映画本来の慈愛に満ちたシーン挿入も、だから忘れていない。
 彦原はこれをむろん、皮相的にはらしくない一品とわかって、鑑賞していたのだ。
 戦争という人類にとっての極悪を、巨星は自分が極悪人へと墜ちることでしか、もはや表現できないと悲壮感を懐きながら描きあげたのだろうと思いつつ。
 いずれにしろ、十七作品が醸すチャップリンの世界に、かれは充足していたのだった。

核兵器を全廃させる、未来からのテロリスト~破壊が生んだもの~ 第一章

 直径42メートル(推定)の巨大隕石が、北緯39度55分・東経116度23分の北京を直撃した。
 直後、衝突は、速度もだが規模も計測不能な衝撃波(物理学上の計算から、少なくともマッハ4以上だったであろう)や数千度の熱波を惹起(じゃっき)した。
 衝撃と熱により無情にもヒトは、その骨格すら残すことなく消滅し、建造物も例外なく壊滅したのだ。しかも数秒で。まるで、地球の支配者であることを「たかが」と嘲笑するみたいに。
 同時に、宇宙からきた憎きカタマリ自体は四方八方へ、自爆テロリストさながら高熱をおびて、砕け散っていったのである。正確には礫(つぶて)となり、直径約9km以内の存在すべてを破壊し尽しつつ。こちらは42秒間のことだった。
 あとに残ったのは直径2km弱のクレーターと、そして、音を発するものの、ことごとく消え去ってしまった、だからの静寂だけである。
 そんな悲惨の四日前のこと、超高速で異常接近する異型の小天体を、各国が探知した。
 前方後円墳に似た、いびつでしかも前後左右不規則に回転しているため、大気圏突入後の落下速度が一定せず、そのせいで落下地点の推定はかなりアバウトとなった。
 大洋への落下だったら、被害は最小限に、とも言いきれず…。なぜなら、巨大津波による被害も、甚大となりうるからだ。
 いずれにしろ、いびつ・不規則回転・空気抵抗のトリレンマが人類に禍(わざわい)したのである。各国は当然、威信をかけ招かざる客を宇宙空間で迎撃したのだが、ことごとく失敗したのだった。
 それでも難をのがれようと、最後まで抗(あらが)いつくした人々、さらにはかれらが駆使した最先端の科学技術…、にもかかわらず残念だが、ただただ無力だったのである。
 そして、ついにきた当日。
 四十万人を超える、上空の閃光と轟音に怯え泣き叫んだ顔も声も一瞬だった。
 こんな凄惨、常人に想像できるはずがない、経験していないからだ。
 そうであろうとも地震ならば、その脅威や破壊力をあるていどははかれるだろうと。ただし、経験知をはるかに凌駕する空前絶後の地震エナジーであり震度であった、それもだ、地球外からの。
 だから、通常の地震を基(もとい)とする仮想や想定とは異なってしまうであろう。それでもどうか想像してほしい、死者のあまりの多さを受けとめ、心から悼むために。
 破壊力のちがいとその凄さ。比較できないほどだとしてもだ。
 今回の隕石衝突のエナジーだが、あえて科学的見地から書くならば、マグニチュード10超級の巨大地震が発生したのと同クラスであろう。
 とはいっても地震においては、発生メカニズム上、実際には、その規模のだとまずは起こらないとのこと。
 じじつ、有史以来、文献からの推定では、10超クラスの発生を確認できず、よって、観測史上最大規模は1960年のチリ地震、マグニチュードは9.5である。
 阪神淡路大震災や東日本大震災なども大地の恐ろしい揺れだったが、⒑超がもし直下であれば、想像しただけで鳥肌がたつほどに、その被害は数百倍をはるかに超えることとなろう。
 以上の説明においてムリがでたのも言わずもがなのこと、巨大隕石の衝突が原因だったからだ。それで、人智の尺度を超えたエナジーが、有史以来の激震をひきおこしたのである。
 不幸中の幸いだったのは、恐竜を絶滅させたとされるほどの隕石ではなかったことだ。

 都市がいくつか丸ごと、業火と灼熱により焦土とされてしまった。
 火山の大噴火と、その直後に生起した無慈悲といえる数千度の溶岩流や火砕流がまさに飢えた虎のように、逃げまどう人々をのみこんだのだ。その命ひとつひとつがボッと赤く発火し、焼き尽くされていったのである。
 母親が命がけでかばう乳呑み児(ちのみご)にすら、少しの容赦もなく。
 それでもなお、かすかだが救いがあるとするならば、熱さを感じなかったことくらいだろうか。猛烈な噴火が最初にうんだ高濃度の二酸化硫黄SO2やCO2・CO・硫化水素H2Sなどの火山性有毒ガスにより、人々は呼吸困難や酸欠状態におちいり、すでに命をうしなっていた可能性が高いからだ。
 だが凄惨は、これだけではない。
 さらに、降りそそぐ無数の火山岩塊も、無辜(むこ)(=罪がない)の人々を際限なく圧し潰したのである、プログラミング化された、まるで、車のスクラップ工場のように。
 しかもその痛ましさの極みは、ひとの死にたいする尊厳さえもうばっていったことだ。人が圧し潰された場合、大量の血があたりを濡らす、死にたくなかったと抗議するかのように。
 ところが二千度にたっした岩は、紅をまっ黒に変色させ、時をおかず、蒸発までさせてしまったのである、泣訴を小賢(ざか)しいといわんばかりに。

 天を衝くきのこ雲が、いまはそこに聳えたっているだけ。
 ついさきほどまで、たしかに存在していた緑木の下の子どもたちの騒ぎ、まちが醸す喧騒、人々がそれぞれにいそしんでいた人 生。いやいや、もっといえば百万人超の人命と文明そのものが、まるで幻影であったかのように、一瞬で消えさったのだ。
 もはや、音も消えていた。そして夜ともなれば、暗黒が覆いつくすだけの無機質世界が…。

 エトセトラ、エトセトラ…。
 空恐ろしい描写である。ただ、幸いにも、現実ではない。
 天才宇宙物理学者が、夜ごと、こんな悪夢にうなされていたのだ、良心に責め苛まれつつ。べっとりと寝汗をかき、やがて叫びながら目を覚ますのだ、未明の、誰もそばにいない氷の板のようなベッドの上で。
 こんな無間(むげん)地獄(=間断のない苦しみが責め苛む地獄)が、まるで日課であった。
 どうしてこんな悪夢を?にたいする答…ならば、いずれ明らかになる。
 そんなことよりかれは、脳内映像をコンピュータに記録させていたのだ、日記でもあり、証拠としても。
 MRIが磁場活用で、脳の状態を映像化できるように、脳の活動を外からスキャンする、具体的には思考の内容・感情の真実性(ウソ泣きやサギ師の表情等は虚偽として見極めできるから、信頼度が高い)・さらには夢の内容までも、自身の真実として、おのれのぶんのみを記録できるシステムができあがって六年以上になる。
 むろん場合によるのだが、個人情報開示を本人が認めそれを正当だと裁判所が判断したときは証拠採用できると、そう、民事および刑事訴訟法に書きくわえられて、はや四年がたつ。
 ところで、ポリグラフ(その昔、ウソ発見器と俗に)検査のような過去の遺物ていどではない精巧なAI(人工知能、なんて表現はもう古い)が、当人の文書(筆跡と指紋で認定すると民法で規定)による指示だと確認できてはじめて稼働するシステムを使い、記録させているのだ。
 そのためのセキュリティは当然ながら大事で、なりすましができないよう万全を期している。
 ところで、天才宇宙物理学者が記録をとるその意図は?
2099年であり同時に1945年でもあるその年(ちなみに、場所は二光年離れているのだが)に、かれがなす歴史の大転換において、営利や快楽あるいは復讐心などの動機が、毛筋ほども存在せず、ただただ理想の実現以外に他意がないことを証明するためであった。
 

核兵器を全廃させる、未来からのテロリスト~破壊が生んだもの~  プロローグ

…敬愛する読者の皆様、とりわけ、単なるミステリーファンにとどまらず、
我こそは名探偵なりと自負するご貴殿へ、生意気にも挑戦状をあえて認(したた)めつつ

 

ときは2095年の夏そして中秋.つまりは二十一世紀の末、ばしょはわれらが現代日本。
 この時間・空間を起点に、太陽系外のむこうへ遠くさらに遠く、はるか約二光年(約三十万km×六十秒×六十分×二十四時間×三百六十五日×2年)さきの銀河へととび、さらには、地球歴では2099年二月二十六日へと舞台は転移。さいごに、起点の2095年からみて百五十年前の地球へ時空は変転し、そこで言語道断の、凄惨なクライマックスを……。
 歴史をかえるという、空前絶後のために。
 粗々(あらあら)、そんなものがたりである。

 本年2095年のノーベル物理学賞最有力のわかき天才宇宙物理学者が、非表明をふくむ十五カ国(ふるい資料で恐縮だが、2015年現在、まだ九カ国だった)以上が所有するすべての核兵器(悪魔がつくった地獄からの贈りものだ!にもかかわらず、保有国はおろかにも、世界をなんども、いや十数回も破壊できる量を、当然のこと戦略的配備もふくめて貯蔵しているのだ。
 ちなみにかれらの発表をしんじたとして、米・ロ両国だけでも核弾頭数、各7200発、7500発、らしい)をすべて、この地上から完全に消滅させるために、単身、身を砕くおもいで破天荒(=過去にいちどもなかった偉業)な計画をたて、それを実行にうつそうと、まさに骨を粉にする。
 その結果、必要悪だとしつつかれは、甚大にすぎる犠牲を、150年まえの歴史に負わせることとなる……。
 
 さて、題名をふくめ、乏しくみえるこれだけの情報ではあるが、名探偵たるあなたならばこそ、わかき天才がこれからなにをしでかすのかを、はやくも見抜かれた、のではないだろうか?
 また、名探偵ではないとしても、読者諸氏が推理小説ファンであるならばきっと、あれこれ推理をめぐらしていることと、勝手ながら推察いたしております。
 そこで老婆心とおもいつつ、ヒントをいくつか。
 まずは題名もその数にいれていただくとし、でもって、2095年の日本、つづいての舞台は、銀河、こんどは、百五十年前の地球。さいごに、歴史転換のための凄惨なクライマックス。
 主人公はというと、天才宇宙物理学者。非表明をふくむ十五カ国以上が所有するすべての核兵器の完全廃棄。破天荒な計画。くわえての、粉骨砕身という表現は文字どおりであり、さらに150年まえの歴史が、甚大にすぎる犠牲を負うことに云々、等々。
 ウッソー!これではヒントのたれ流しではないか。簡単すぎて興味をそがれたよと、名探偵たるご貴殿は憤慨されているやもしれない。
 そんなこんなで、“謎は、すぐに解けたよワトスン君”とばかりに、あくびをかみ殺しながら「歯応えなし」と、のたまっているかもしれない。
 それを承知であえていわせていただく、名探偵の想像を凌駕しているであろう、突飛な計画だと。
 そういい切ってしまったが、しょせんは高慢な勘ちがいでしかなく、さすが、“快刀乱麻を断つみごとさよ”と名探偵を賞賛するいっぽうで、挑戦状のてまえ、執筆者として浅学非才の身を恥いるハメになるかもしれない。
 そのときには存分なる嘲笑を、まるでスコールのように浴びせかけられよ。
 しかしそうなったばあいでも、負け惜しみではないが、《好事、魔多し》ということもある。
 さいごまで読みすすんだとき、存外、どんでん返しという陥穽(かんせい)(=落とし穴)におちているかもしれないから、足元にはくれぐれも。
 いずれにしろ、熟慮はこのプロローグまで。本篇にいっぽ足を踏みいれた時点で、すでに答えあわせがはじまっていますので悪しからず。
 あとは、名探偵のご健闘を祈るのみ。

…で、若き天才宇宙物理学者が決断した、天荒を破ったに似た前代未聞(とはこの場合、地球規模の人為的ビッグバンにて候。でもってビッグバンとは、約138億年まえにおきたとする、大宇宙誕生の謎を解きあかすにおいて、有力な説である。ちなみに、この地球規模の人為的ビッグバンはおまけのヒントだ)を、はたして完遂できたであろうか。
 さらに、未曾有な暴挙の結果、かれを待ちうけていたのは、どんな運命か?
 ハッピーエンドとなるのか、できればそれが望ましいが。
 ともかくも、あなたがくだした推理が、巻末にいたった時点においてもなお、合致していればなによりのこと。

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