「彦原さん、副所長の貴方がとなえる理論の最終形、近い将来、日の目を見るとのことですが…」三カ月ほど前のことである。「それで、タイムマシンの理論を実証する実験も今年中らしい、とか」
探るような視線をむけてきた優男、ただ、具体的内容までは知らないようすだ。
ふた月ほど前、上司である女性所長がひき合わせたこの男。==名前、何ちゅうたかな?==直感で、危ないにおいのする人物だと。彦原は、産業スパイではと強く疑った。三十代半ばで背が高く、女性が幻惑されそうな甘いマスクと鍛えられ引き締まった体型をしていた。
で、こんな、鎌をかけてきた男が、相手の反応を見定めようと横目で彦原の端正な顔を覗きこみ、両耳を泥棒猫のようにたてながら、社の超トップシークレットを口にしたのだ。まるで世間話でもするように。
だが現時点で、ある種のタイムマシンに相当する理論の最終実験間近を知るものは、関係省庁の局長クラス以上を除くと社内上層部にしかおらず、しかもごく限られていた。
「はっ?何のこっちゃ?」彦原は、役職に不似合いな言葉づかいをした。普段のかれは、こんなくだけた物言いはしない。きわど過ぎる話をかわそうと、とぼけるしかなかったからだ。
だいたい、場所からして、こういう話に相応(ふさわ)しくない。
夢の具現化のスタートとして、宇宙物理学と地学の知識を身につけはじめた十二歳から数えて、十九星霜。ようやく、とりあえずの目標の最終実験段階にこぎ着けたのだ。その間、他人には想像できない労苦の連続だった。味わった辛酸と挫折も、枚挙にいとまがなかった。
それでも、青春も若い欲望も全て打ち捨てて、一心不乱にとり組んできた。夢のままおわらせないため、不可能を可能にするために、立ちはだかる絶壁に二十指の爪を突き立てる思いで、文字どおり止暇断眠(不眠不休よりも挑戦的)で挑んできたのだ。
それが誇りだった。かれの人生総ての“よすが”である。
そんな十九年の生きざまに、泥を塗られた気分となった。
形状を変化させる機会も暇もあまりない男の大事なものをふって、早々に納めジッパーをあげた。その男を無視するように手を洗い、トイレを出ようとした。
ところで、この唐突な話はやはり、優男のもの慣れた誘引であった。「極秘話だからこそ、盗聴の心配のすくないトイレを選んだんですよ」
盗聴忌避が事実であるかは、男にとってどうでもいいことだった。天才宇宙物理学者なればこそ世事にうといとみて、安心させたかっただけであった。
「それにほら、個室のドアは、全部開いてますしね。だから、だれも聞いちゃいませんよ」
彦原には、男の薄ら笑いの奥に、狡猾が透けてみえた。女性には、この手の男のこざかしさが見えないのか。こいつが見せないようにしているのか。女性経験の乏しすぎる彦原には、まったくわからない。
ただ、栗栖浩二と名乗った男の肩書きは、政府機関の外郭団体の幹部となっている。
「私の素性は、どなたかに命じてすでにお調べになったでしょう。その結果どおり、決して怪しいものではありません。それどころか、愛国者として応援しているひとりです。なんなら信用いただけるよう、僕のことをもっと詳細にお話しましょうか」
2095年七月十六日午前十一時半の強い陽光が、本社ビル男性トイレの大きな窓へと射(い)、男の足元近くを射している。
「そんなことより、だれから情報を?」女性所長を籠絡(ろうらく)(=手なずけて操ること)したあとの寝物語でだと暴きたかったが、逆に、迂闊にも口が滑った形だ。ひとを信じやすいという善良さが、つい出てしまうのだ。
ちなみに、彦原の見立ては半分以上当たっていた。
「公然の秘密ですよ」だれでも知っている、そんなはぐらかしをしつつ、自分の土俵に乗せてスパイとしての成果をあげようと目論んだのだ。「だとしても、やはり否定しませんでしたね」鈍い光が双眸から放たれ、瞬間、片方の口の端がおもわず上にかすかに捻じ曲がった。
俗にいう下卑た笑いというやつだ。腹黒さでは、シャイロック(シェークスピア作“ベニスの商人”のユダヤ人商人)にまさっていると彦原は思った。
“油断は即、命とり”と、警戒を最大レベルにまで引きあげる必要ありと、彦原は刹那に痛感した。しょせんはスケこまし程度の男と軽蔑していたぶん、舐めていたのだが。
「《ひとの口に戸は立てられん》といいますからね」バカな女性所長をたらしこんだあとの寝物語だと教えるつもり、この男にはむろんない。
「ああ」との納得に続く「なるほどね」は呑みこみ、「お宅の場合は、<壁に耳あり、ジョージにメアリー>というやつかな」まさに前世紀の遺物的ダジャレを、彦原らしくなく発した。
とはいえ駄弁を口にする陳腐な駄目はしない。<ジョージにメアリー>は皮肉のつもりであった。ジョージは目の前の女たらしで、メアリーが上司である女性所長をさしていた。
「さあ、何のことでしょう」とぼけながら、「そういえば《生き馬の目を抜く》とも…、たしか、貴方の…」しかしこの男こそ、危うく口が滑りそうになったのだった。
初対面のその当初から、彦原を年下の学者風情と馬鹿にしていた。しょせん、頭でっかちな若造と見下していたのである。子供だましていどの策を弄したくらいでも、秘密をポロリと簡単に洩らしてしまう青二才と侮(あなず)っていたからだ。コンプレックスを自身に認めたくない心裡がはたらいたせいだろう。
いずれにしろ、侮りが油断となり、迂闊にも「(貴方の)母国では」と発しかけた寸前で、喉の奥に押し戻したのだった。
そう、栗栖浩二は近隣国の工作員、産業スパイなんかよりずっとたちの悪い正真正銘のスパイであった。大学生時から、男は日本人になりすましていたのである。
盗人たけだけしくも、当たり前のようにスパイを送りこむ隣国が、得意とする戸籍偽造をしたのち大学入学や日本政府関係機関に就職させるなどは、造作もないことだったのだ。
で、これは栗栖たちにとっての内輪話だが、近隣国情報部の内偵の結果、彦原を、金銭や色香では釣りあげられないと踏んだうえで、手錬の男スパイを起用したのである。
ところで彦原、そんなことまでは知る由もない。ただ自身の悲願達成のために、男を=産業スパイに違いない=と強く疑い、それ相応の応対をしたまでだ。
悲願の達成。…その実体は既述したとおり、いまだ、プロジェクトチームのだれにも明かしていない秘めたる決意でもある。十五歳から十六年を費やし自身の人生を賭した、だがそれは、社命からの逸脱どころか、恩を仇でかえす非道そのものであり、いやちがう、大逆でしかない行為なのだ。
部下が知れば、開口一番「身勝手だ!」となじるにちがいない唯我独尊的使命なのだから。
それでも、裏切りと承知で、なにがあろうと成就させるのだと。
「なるほど…。おたくの甘いマスクを活用し独自のルートをつくって、ここの最高機密情報をゲットしたということですか」こんどは彦原が鎌をかけた。
「とんでもない」真顔で、男は即座に否定してみせた。「宇宙物理学の理論を活用してのタイムマシンの話を知ってる外部の人間なら、ほかにも結構いますよ、きっと」と自信ありげにうそぶいたのだ。
なるほど、「知ってますよ」を誘い水のように巧みにつかって、相手の情報をこんなふうに引きだすんやと、この男の手の内をさとった。ということは、逆を察するまでもなく、具体的な理論や仕組みをなにも知らない、==はは~ん、やはり==と彦原は感じとっていた。
かれとCEOや専務との一致した思惑で、天下りの就任一年目女性所長には、タイムトラベルの原理までは教えないと取決めていたのである。二年ほどで別の天下り先へいくのだから、お飾りの名誉職につけておけばいいとなったわけだ。
そんな裏事情を知らない栗栖は探るような目つきをひそめ、「機密事項って結構洩れるものなんですよ」と。ここで万が一、情報の引きだしに失敗しても、所長という切り札が手の内にあると、男はいわば高をくくっていたのだ、飾りだともしらずに。
それはそうと、秘密漏洩という男の言葉にうそはなかった。米政府が秘密裡に開発した原子爆弾製造の技術を、いとも簡単にソ連が盗み取ってしまった史実。歴史の暗部として、あまりに有名な話だ。
「おや、その疑いの眼、心外です。むろん僕のことではなく、《生き馬の目を抜く》との表現はただの一般論です。日本技術の粋、世界の最先端をはしる企業の機密だからこそ、心配しているんです。こうみえて愛国者ですから」相変わらず、年下の学者風情と見下した目線でいった。=学者バカとはこいつのことや。「最高機密情報」などとぬかしおった。あっさり認めたことにすら気づいてないんだから。素人はこれだから扱いやすい=肚裏で嘲笑った。北京語でだった。
「お気遣いに感謝します。では伝えてください」誰にとは、あえていわなかった。「今の今、延期が決まったと」ウソだった。いっぽうで、自分たち特別チームが陰ですすめてきた計画を急ぎ実行せねばと、くわえて、再度の、ある請求にたいしても肚を決めたのだった。
ところで、この青天の霹靂には、さすがに驚いた。「延期?えっ?そ、それ、本当ですか」いくら訓練を受けた敏腕スパイでも、唐突でしかも驚愕の発言に、狼狽をかくせなかった。
と同時に、簡単に最高機密情報を洩らす、やはり専門バカと肚で嗤った。超エリートへのいびつな反骨心が頭をもたげたようだ。この男のいちばんの弱点なのだろう。
「専務と相談し、いま決めたばかりです。だから、まだだれも知りませんよ。ええい、ヤケクソついでや!」立腹しているようすの彦原であった。が、演技であり、じつは冷静そのものだった。「情ない話…、僕が築いた理論ですが、重大な欠陥に先刻気づいてすぐに報告し、それこそたった今、プロジェクトは無期延期となったんです。でも、私から聞いたとは決していわないでください」消え入りそうな声と表情、アカデミー賞ものであった。
数々の訓練をうけた優秀なスパイだったが、七信三疑でダマされかけていた。
彦原は続けた。「それと当然のことですが、重大な欠陥の内容についても、一切ノーコメントです。首になるだけならまだ生きていけますが、我が社に告訴でもされたら勝てるはずありませんから、莫大な賠償金を支払わされることになりますし」一大デマゴギーを吐きながら、しかも彦原はいかにも悔しそうにくちびるを噛んだ。
こうして、真っ黒な肚でろくでもない思案を常にしているスケこまし野郎と別れた直後、“壁の耳”はひとつではあるまいと、彦原は急いで手を打つことに。男との直前の会話などを含め“非常事態”だと専務に、盗難防止コードで守られたスマフォでメールをうった。
科学者としての自分を二十歳の入社以来育ててくれた恩人、代表取締役専務にたいし、全幅の信頼をおいている。彦原のプロジェクトからはつんぼ桟敷の女性所長とは、その点でも当然ながら雲泥ほどの隔たりがあった。
そんな東専務だから、社内外でスパイが暗躍しているという“プロジェクトの危機”を鋭敏に理解した。社内外むけの対策は任せろとの、当意即妙のメールをかえしたのである。
彦原も即応、それについて再度の提案をし、許可するとの返事をもらったのだった。
ちなみに、彦原が若くして副所長に抜擢されたのは、ありあまる天分のゆえだけではなかった。かれの秀(ひいで)たる人格も評価されていたのだ。役職の上下をとわず多くから信頼が集まり、敬意すらはらわれていたのである。
ひとは、かれをして、誠実と優しさと知性に服を着さしむがごとしと。
ことに、むけられる優しさは人だけに限ってはいない。路傍の名もなき草花、次世代のためにエサを巣穴に運んでいる一匹のアリにたいしても、かれの眼は慈しみに満ちていた。
そんな彦原は許可を得、自室(副所長室)はいうにおよばず、各取締役室すべて・所長室・会議室のすべて・研究エリア・実験エリア・各工場さらには食堂兼休憩室・トイレ等々にまでも秘密裡に、有用な装置を、信頼できる二十五人のメンバーとだけで適所に適度の数を、その夜を徹して急ぎ取りつけた。旧来の盗聴盗撮防止装置は、用をなさなかったからだ。
その、気になる有用な装置だが…、産業スパイが秘かに設置した盗撮・盗聴装置に、ニセの映像と音声を感知させる最新の装置、平たくいえば、スパイにガセネタをつかませるための“偽情報流布(=広める)“装置、というものだ。
彦原はスパイたちに、一大プロジェクトに重大な不備がでて、実験が無期延期になったと信じこませせる手にでたのである。
この手の盗人の暗躍を想定していた彦原が独断で、事前に装置をつくらせておいたのだ。
だれ人にも、どんな組織であっても、なにがあろうと邪魔はさせないとの彦原の強烈な想い。
しつこいようだがそれは、懊悩と自責がつきまとう使命感であった。
責め苛まれつつ、それでもかれは、自分の人生の総てを懸けて、とてつもなくデカい計画をたて、ひたすら邁進しているのである。そのために発生する多大にすぎる犠牲は、もうしわけないけれど、“必要悪”とみなすことにした…のだった。
というのも、彦原の個人的史観によるのだが、フランス革命・アメリカ独立戦争・明治維新等々、これらは人類史における代表的事跡であり歴史的偉業でもある。しかしながら、無血革命ではなかった。文字どおりの数えきれない犠牲者をともなっているのだから。
つまり、偉大なる業績に血の代償はつきものと自分に言いきかせたのだった。そう考えることで、なんとか、けじめと決着をつけた、つもりなのだ。
が…、堂々巡りは、じつは今もつづいていた。