思いおこせばいまから十八年前。

1985年のあの夏、タイガースもそしてファンも燃えに燃えた、焼けるように暑く、そして熱い日々のことであった。

ボクはしかし…、

 

親子二代、大阪うまれで大阪そだちの父とボク。当時は、太閤秀吉が大すきだった。

 

ところで巻頭早々、この“だった”と過去形にしたのには、甚深?の理由が、じつはある。この私小説のメインテーマとつうておりじ、そもそも執筆の動機だからである。

百姓の出とされる日吉丸(出自も幼名も不確実)が成長し、信長につかえていた時期のかれと、豊臣秀吉と称するころの人格、そこにはとてつもない落差が存在し、おなじ人物なのに”なぜ”、との素朴な疑問に悩み、大げさにいえば支配されつづけることに。

それにしても当時のボクだが、秀吉の人格に、落差があるという事実をしった。そこには経緯(いきさつ)もあり、まあそれで筆者なりに試行錯誤をへながらも、落差のナゾを解明するつもりでいるのだ。

……信長横死直後までは、折衝(このばあいは、敵軍の一部をねらっての懐柔や取りこみ工作)により戦闘能力や意欲をそぐなどして、藤吉郎=秀吉は無益な殺生をできるだけさけてきた。

一例だが、伝説の墨俣一夜城築城は敵の士気をくじく効果も得るため。またべつの例として、ことに備中高松城の水攻めにみられる、できるだけひとを殺さずの勝利を、希(こいねが)っていた人物であったと。

そうとばかりは言えないでしょうとの反論もあろう。見せしめのためとはいえ、女子供まで惨死させている史実はたしかにあるからだ。

懐柔におうじなかった敵にたいし、日の本の安寧がいまだみえてこない戦国期において、断固たる戦闘意思をしめすひつようがあったのではないだろうか。いわゆる、必要悪と解せよう。

だが、天下人となった豊臣秀吉においては、必要性のない、朝鮮半島への二度の出兵を最悪とする、殺戮に血道をあげたのだった。(ここまでは概略として。で、閑話休題)