投稿者: jyuri (page 17 of 40)

~秘密の薬~  第二部 (6)

まずはあることわざの意を、このあと用いるとしよう。

そう、キャリア六人組が常日頃から自信をもっていた目論見。ではあったが、残念なことに完ぺきではなかったという事実だ。

なにを隠そう、“アリの一穴”がじつは存在したから、なのである。

で、名探偵のホームズやポアロほどではなくとも鋭いひとならば、“一穴とはほころびを指し、いわく情報漏洩のことである”と想像できたであろう。

ただし一穴だが、実際には“極小”、でしかなかったのだが。

極小としたように、“流出”という事実は、たしかに一片にすぎなかったのである。

しかしながら、だからといってそれではすまされない、契約違反という違法性を否定できない事態、なんとも、そんなきびしい側面すらじつはあったのだ。

いやいや、これではわかりにくい。 で、そのあたりをまず、大まかに記すとしよう。

~秘密の薬~  第二部 (5)

ならばこそと、さらに憶測をかさねるしかなかったのである。

その結果だが、記すにためらいたくなる、最悪のシナリオであった。

さすがにそれは…背筋に悪寒がはしる事実だ。

だとしても、最悪とする想像が杞憂であれば、まあそれはそれでいいわけだし、と云々。

ぎゃくに、最悪を想定もせず危機感もいだかないままに楽観視する、そのような能天気たちのおろかさよ。人生の一ページから数ページにおいて敗残を味わってきたのは、こうゆう人たちなのだ。

つまるところ反面教師として、それを歴史から学ぶが智者であろう。ちなみに、みずからの経験から学ぶは愚者である、らしい。

で、超のつく極秘密談の理由ならば、いわく。

万が一にも外部、なかんずくマスコミに漏洩しようものなら、“国民のあいだでたいへんな物議をかもしだすほどの悪影響”が…、ではとても済まない驚天動地になるから。だったこと、想像に難くない。

だけでなく対外的にも、日本国の威信そのものが奈落のそこに落ちてしまうであろう、との最悪の事態をも懸念された、のでは。

 つまるところ筆者がその内容を知ろうとして、触手を伸ばそうとの由縁は、この辺にある。

ところで既述したように、“超のつく極秘”。しかも秘書をも参加させずの少数精鋭。だったというのに、

なぜ、ではこんな当て推量のようなまねを、部外者である筆者ができたのか?…との疑義が他者により、一般的かつ客観的にわきいでたとして、なんの不思議もない。

だったら、それに応えねばと。

~秘密の薬~  第二部 (4)

錚々(そうそう)たるメンバーというほかないほどに、キャリアとされている人たちからみてもまさに雲の上の、威張りくさった連中なのだ。

ただし密談のゆえに、日頃はまるで召使いのようにこき使っている秘書たちではあるが、同会議にかぎってはかれらを余人だとして、一度たりとも参加させなかったのである。

ふだんなら書記も兼ねるはずの秘書を、同席させず少数精鋭でのぞんだことになる。

さて異例づくめのその理由。憶測するしかないのだが、情報の流出が絶対にゆるされない案件だったからであろうと。

ふんぞり返っている御仁たちが、単独で行動するというのは、余程のことである。入室や乗車時などのドアの開け閉め、飲料水などの購入までもさせる、殿様気どりも珍しくない連中なのにだ。

つまりよほどに特別の会議、ゆえに少数精鋭であったとみるべきで。よって、会議開催じたいもいわば超国家機密だったにちがいないと、おそらく。

お歴々という顔ぶれは不変だったが、開催場所や時間を毎回変えていたことからも、推察できるではないか。

だからこそ六人から余所へ、議題の詳細それ自体が、すこしも漏れることはなかったのである。 よって五里霧中の段階では、議題の内容について、言どころか半句も記しようがないのだ、後年、年末の先述の居酒屋での、筆者のよこの席にいて駄弁していた酔客たちの雑談とはちがって。

~秘密の薬~  第二部 (3) 

多大にすぎる人命、五大陸の尊いいのちを奪いきずつけ、世界経済をもガタガタにしたこの顛末、長編のドキュメンタリーに仕上がるだろうが、ボクの任にはあらず。

でもって、通常国会の会期中ともなれば面々は予算委員会などの審議にあって、お飾りでしかもバカな大臣どものために、書類作成(ほとんどは部下にまかせている)をふくむ答弁(国会中継で極まれにみかけるように、官僚自身がたつ場合も)にそなえねばならず、余念をもつ余裕などないからだった。

ところで余計なそんな事実は剰余としつつも、余の儀(つぎにのべる事柄を強調)として、これには当時の、検察庁(法務省)ナンバー2の次長検事と警察庁(内閣府の外局)ナンバー2の次長が音頭をとり、共同の提案側として出席していたのである。 いっぽう、持ちかけられたほうの出席者はというとこちらも五年余前の、財務省主計局長、内閣法制局(内閣府)同次長、厚労省からは医薬の生活衛生局長、文科省よりは科学技術の学術政策局長というように、アンタッチャブルともいうべき肩書(通常の批判や攻撃などは通用しない高みの存在)をもつお歴々であった。

~秘密の薬~  第二部 (2) 

うって変わって以下は、かの、居酒屋での雑談より翻(さかのぼ)ること、五年ほどの情景である、

ちなみにそれ以上が経過したのちに判明した異常な事実、その一部をまずはここにしるす。

酔客とは真逆の、真剣な表情たちが密談中。面々、非公式かつ非公開の話に傾倒していたのである。

そんなかれらこそ、霞が関(国の行政機関の庁舎が群立)を根城のごとくにし、われこそは日本を背負う傑物あるいは逸材とおもいこんでいるキャリアの中のキャリア、そのうちの六人であった。

このような霞が関における中枢がそのじつ、場所も時間帯もたびごとに変えながら、おどろくことに五回も集合していたのである。

しかもいわゆる密会とよぶにふさわしい代物で、そのすべてが国家的な極秘中の、まさに超極秘会議であった。

でもって、とんでもない秘事にいそしんでいた、のである、かれらは。

 にもかかわらず、これに要した期間は二週間強。いうまでもないが、異常なほどの頻度ということだ。

ちなみに、2021年の暮れから2022年一月にかけての、国会閉会中であった。 世界を奈落の底にたたき落としたたチャイナウイルス。ようやくの収束が、ほんのこのあいだのような時期にあたっている。記憶に新しいが。

~秘密の薬~  第二部 (1) 

「話はかわるけど、今年に入ったくらいからかなあ、殺人とかの凶悪犯罪、統計によるとかやないよ、ただの実感や。けどそれにしても減ってきたなあと…。ふたりはどう思う?」

「なるほど。いわれてみれば、そうやな、たしかに。けど、もうちょっと早いうちからやったようにも思うで」

「そやな。レイプ事件なんかもふくめ、ニュースでも取りあげる回数、少ななったなあ、知らんけど」

 と、この何気ない会話、2026年の暮れにおける一幕であった。

鉛色の空から三年ぶりとなる雪が、チラホラと舞い降りてきた大阪北部の、とある居酒屋で酔客がかわした、それこそアフターファイブの愚にもつかない四方山(よもやま)ばなしである。

 ちなみにかれらがそう感じたのも当然で、日本で発生する凶悪犯罪がいちじるしく減少しているとの統計を、警察庁として年明け早々にも発表する段取りだったからだ。  ところでだが、他愛のないこんな世間ばなしが、まるで、この物語の端緒をひらいた恰好になろうとは…

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 覚醒のあとで

 覚醒のあとで

 日中、暑かった夏のなごりも、日が傾くにしたがいおさまっていくと、ボクはわれに返ったのだった。

で、長かった白昼夢からえた結論だが、それは、

人格が、なにか得体のしれない原因で激変した、のではなく、いいかえれば別人格の同一人物ではなく、“秀吉は二人いた!”である。

ならばこそ、別人格はとうぜん!となるのだ。

これにより、 ボクは総てにおいて納得がいった。

おかげで、十八年来の疑問が氷解したことに満足したのである。

ひとは突拍子もないはなしだと評するだろうが、ボク自身は歴史に照らしあわせ、まちがいないとの確信をもった。

朝鮮出兵も、飽くなき占領欲と残虐性がうずいたための衝動からだったと。仏教で説く阿修羅、闘争心にみちた境涯は、じぶんを尊大にみせる習性をもつという。

つまり豊臣秀吉は、巨大でひとびとから畏怖された存在だった“信長”を越えることで、その欲求をみたしたかったのだ。換言すれば、本地以上の偶像として、歴史に名をのこしたかったのではないか。

 小学六年生の夏、母があたえた課題。以来、ボクの人生に添うようにして悩ましつづけた、まるで宿命的な課題となった。まさに、人生の宿題であった。

その母。ボクが小六の夏、感情の起伏がはげしくなり、過激なもの言いをしたり、ふさぎこんだりしていたのは、子宮に腫瘍があることを検査でしったからだった。

ボクの人生のこれからに、がんばれとのエールと    示したかったのだ。

ボクがその事実をおしえてもらったのは、良性の腫瘍とわかったあとの、夏休みの最終日前々日であった。医者からの診断結果はお盆明けだったが、両親は正直に打ち明けるべきかどうか、二週間ちかく迷ったとのこと。

思春期初期の男の子に、子宮という部位は微妙だと、「母さんが拘泥したから」そう、父から後日談としてきいた。

いまも忘れることのない十一歳の夏休みの終末とはいえ、元気であかるい本来の母をとり戻してくれた。そしてありがたいことに、いまも健在である。

さっそく、母に電話をいれたのだった、母が破顔するのを想像しながら。

でもって、健在といえば父もだ。

さて、で今日は、母にいわせるとおバカ父子の記念となった、2003年の九月十五日である。

夕刻に、相好を崩しまくった父が、好物のスーパードライと剣菱をぶらさげて、わが家へいそいそとやってきたのだった。

この日、甲子園でのデイゲームで広島カープにサヨナラ勝ちをし、マジックをついに“1”としたわれらが星野タイガース。

今夜決まるだろうと、十八年間も口をあけて待ちつづけたリーグ優勝を信じ、その瞬間をともに祝い、喜びをわかちあいたいと、宙に浮くようにしてやってきたのだ。

そしてボクはまさに、父来訪の直前、宿題を、ようやくやり遂げた達成感と爽快な気分にひたっていたところだった。

家康が実感した、重い荷をせおって坂道をあゆんできたような人生から、これで訣別できるのだ。十八年かかって、やっと身軽になれた今宵、である。

それにしても、不思議な縁(えにし)だ。母が提示した宿題は、わがタイガースが日本一になった年に、であった。

その宿題をといた昼こそ、ながく待たされた、タイガースが優勝を遂げるにちがいない日だからだ。

祝杯として、ひとりで、よ~く冷えたスーパードライを飲むつもりでいた。

 しかしはからずも、父と注(さ)しつ注されつ、二重の喜びにどっぷりと浸れそうだ。

“夢のまた夢”とばかりの、心地よい酔いに、こよい。

                  完

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 今夜は、最高の宵・良い・酔い(3)

両者において、兵力だけでなく経済力においても、天地ほどの差がひらいてしまっていたのである。

とどのつまり、家臣一同とあわせても二百五十万石にすぎない家康が天下をねらうことなど、諦めざるをえなくなったはずだ。

では、外征の動機を、病気説にもとめるというのはどうか。

失語や意識障害・痴呆をひき起こすことのおおい脳梅毒だが、ほかの症状、たとえば妄想や錯乱・意識混濁をおこしていたとしても、医学者によると、老人だけにその余命は、体力的にみて数カ月からながくても一年ていどだと。

よしんば、短期間に症状がかさなって出たとしても、はたしてあれほどの残虐性をもたらしたであろうか?

百どころか千歩ゆずって、妄想や錯乱などで人格が激変したとするならば、それは1591年二月、千利休に、(いまだ理由が判然としない)切腹を命じたころからであろう。

ただもんだいは、秀吉死去の七年半まえだということ。

これでは時期的にみて、説得力を欠くというものだ。そこでかりに、このときの精神状態は正常だったとしよう。

しかし、文禄の役は1592年四月、慶長の役開始は1597年二月。後者にのみ目をむけたとして、さらに戦の準備期間を計算にいれないとしても、1598年の八月死去の一年半まえのできごとだ。文禄の役となると、六年と四カ月も前のこと。

医学者の言をもちいるならば、もうおわかりであろう。

だから、もはや、これ以上の文字の羅列は不要としんじる。

いっぽう、脚気を死因とする学説もあるが、二度の外征の説明にはならない。脚気は心臓疾患であり、精神に異常をきたす可能性はきわめて低いことによる。

ならばとて、精神疾患をうたがう文献もたしかに存在している。失禁や狂乱の症状があったと、当時の宣教師の記録にあるからだ。だが、それも時期がもんだいで、残念というべきか、死の二カ月前のことなのである。

もちろん、脚気死因説を否定するものではないが。

ただまちがいのない事実として、賤ヶ岳の合戦までの秀吉の事績と、以後の残虐性を後世につたえる事跡と、それが同一人物のだとしたら隔絶しすぎているし、発病により妄想や錯乱などをおこしたとしても、時期がズレすぎているのである。

それでもあえて、一万歩ゆずって同一人物だったとしよう。

はて?…で、おもいつくのは唯一、

”ジキル博士とハイド氏”、つまり二重人格だった、との仮説である。

そこで必要となるのが科学的検証、つまり証拠である。とうぜんながら、おおきな病気なのだから、なんらかの症状がでていなければならない。

具体的には、パニック障害や統合失調症などの症状がだ。

しかしながら、それほどに顕著な病状があったとする文献はみあたらないのである。失禁や狂乱の症状があったとの文献だが、それはしょせん、死去の二カ月前のものでしかない。

結論をいそぐようだが、“二重人格”は単なるおもいつきだ、としかいいようがないのである。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 今夜は、最高の宵・良い・酔い(2)

移封された大名は、歴史的にみて、そのほとんどが一・二年は苦労をさせられている。動乱の世をおえた江戸期ですらそうであった。まして戦国時代、さらには百五十万石という巨大所帯の大移動であり、当初はあらたに検地も必要となった。

それよりなにより、縁もゆかりもない関東の領民にとってはよそ者でしかないのだ。そのうえで、いまだ北条氏の残党がのこっており、不穏なうごきをみせていた。

人心をまだ掴めていないということは、攻めこまれたときに、領民が味方になってくれる可能性はひくいことを意味するのだ。

つまり、豊臣家にとってまさに千載一遇の、願ってもないチャンスが到来したのである。この機に、因縁をつけてでも攻めていれば徳川家を滅亡させることは難しくなかったはずだ。

なのにしなかった。小牧・長久手の戦いの敗北で、家康に臆したのか。影武者に、機をみるそこまでの才がなかったからなのか。

もし臆したのだとしてもだ、後継者として指名した実子鶴松(秀頼の兄。三歳で病没するが、家康の関東移封直後は存命)のためには、やはり後顧の憂いは排しておくべきだったのではないか。

執拗ではあるが、機をみるに敏な本物の秀吉ならば、肉親への情にはとくにあついだけに、そうしたと確信する。

 秀吉が老いたからと反論するひとは、二度の朝鮮出兵を説明できない。

でもって、もうひとつの疑義。

知略においても群をぬく秀吉が、なにを血迷ったか、外征にうって出たのもしんじられない愚行である。

天下統一後の閉塞感打破のための遠征との説や脳梅毒の弊害説もあるが、あまり信をおけない。

なぜなら、外征などせずとも、秀吉が発令した惣無事令(1587年十二月の私戦禁止令)を無視し、戦をおこした罪状のある伊達政宗や、土佐一国に押しこめるにあたり一度は戦となった長宗我部家などを次々と平定(家康はあとまわしにしたとしても)していけば、身内だけでなく譜代・外様をもとわず、家臣たちの領土を拡大できたはずだから、である。

そうなれば、家臣団の閉塞感をかんたんに打破できたであろう。また、秀吉自身も直轄領を、二百二十万石超から三百万石以上に拡張することも可能であった。

そうでなくてもすでに豊臣家は、金山・銀山・海外交易など、金のなる木を有していたのだ。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 今夜は、最高の宵・良い・酔い(1)

   今夜は、最高の宵・良い・酔い

 白日夢のおかげで、小学生時からの疑義にようやく、満足のいく解答をえることができたのだった。

 秀吉は、豹変したのではなかった。戦国期にあって、できるかぎりの流血を避けてきた羽柴秀吉と、残虐を平然となした豊臣秀吉は、双子とはいえ、まったくの別人だったのだと。

 くわえての、ボクが学生とよばれる身分になったころにうまれた疑念も、これで解消できたのだった。その疑心…、

 ひとつは、自身亡きあとに天下をねらうであろう徳川家を、暴君はどうして滅ぼしておかなかったのかというナゾ。

もうひとつはなぜ、渡海してまで不要な戦乱を二度もおこし、大量殺戮をくりかえしたのかということだった。

羽柴秀吉は、野戦においてもけっして戦下手ではなかった。その証拠が、山崎の合戦と賤ヶ岳の合戦における勝利である。

前者はいわずとしれた、信長が称賛したほどの戦上手の明智光秀が敵であった。じじつ、光秀のおかげで、丹波や丹後方面での信長の版図は拡大している。

後者においても、強敵上杉家に対抗できると、信長が確信してあたらせたほどの戦巧者の柴田勝家があいてであった。幾多の武勇から、鬼柴田の異名をとっている。

たしかに、1584年の三月から十一月にかけ、秀吉と家康は一度だけ戦火をまじえている。既述の、小牧・長久手の戦いがそれだ。

本来ならば、十万対三万(どちらも最大にみつもっての推定)という数倍の兵力を有していたのだから、この戦において秀吉が勝利していてもおかしくない。

だがあきらかに、(戦略上の勝敗云々は意見がわかれるとしても)戦闘自体は敗戦の憂き目にあい、なだたる家臣たちをうしなっている。一言でいえば戦術のミスである。というよりも、この戦そのものが、やらずもがなであった。

賤ヶ岳の合戦では味方にひきいれた信長の次男・信雄(かつ)を、戦勝から八カ月後の翌年頭、つまらないことで怒らせ、それが因となり、戦端をひらくことになったからだ。

その信雄だが、信長のDNAを受けついでいないのではないかと疑いたくなるほど、暗愚でしられている。

しかしこのていどの人物を制御できなかったのだから、羽柴秀吉らしくもないと言わざるをえない。

さらにらしくないのが、両合戦での敗北である。

人誑しの術をつかって、たとえば事前に、雑賀衆と根来衆のうごきをとめておくべきだったとおもう。

かれらは、数千丁の鉄砲を所有する有数の、独立した武装集団であり、信長でさえ手こずったほどなのだ。

かれらにたいし、懐柔の天才ならば、すくなくとも敵にまわさないくらいならできたであろう。ところが有効な手をうつことなく、おかげで秀吉は着陣をおくらされたのだ。

孫子に、“後(おく)れて戦地に処(お)りて戦いに趨(おもむ)く者は労す”とあるとおりで、名将にあるまじき愚行である。苦戦をしいられた原因のおおいなるは、これと慢心にあったとみていい。信雄は凡庸であり、味方は数倍の兵力だと。

で味方の将兵は、総大将の言動をつぶさにみているのだ。やはり影武者の、秀吉のこの体たらくでは、士気があがるはずもなかった。

また、本戦にはいっても信じられない負けかたをしているのだ。その典型が、信長直参の大名だった池田恒興献策によるといわれる、二万の兵による奇襲作戦である。

奇襲というのはほんらい、少人数だからこそ敵には気づかれずに実行でき、よって有効なのである。すくなくとも、桶狭間の合戦のときの信長軍のように、豪雨に乗じるなどの煙幕の役割をはたすものが必要であった。

にもかかわらず、なんの策もなく大軍をうごかしたのである。また、陽動作戦をとった節すらない。敵方はとうぜん気づいた。ましてや、野戦を得意とする家康である。

けっか秀吉軍は、副将級の池田恒興と森長可などが討たれるなど、大敗したのだった。ところでこの奇襲策、じつは、秀吉によるとの説こそ信憑性がたかいとのことだ。

やはり、である。白日夢をみるその本因は、ここにあった。くどいが、本物の秀吉が、こんな愚策を実行したとはかんがえにくいからだ。

さらにこの両合戦のあとも、秀吉には、家康を討つチャンスはあった。1590年の関東移封直後である。

家康が出生地の三河を拠点に、みずからの手で切りとっていった計五カ国を、秀吉の命で手放さざるをえなかった。必然だが、家康につき従う強力な三河家臣団も、父祖伝来のかれらの地盤をうしなったのだ。

« Older posts Newer posts »