和田とて、この最悪の結果は当然知っていた。それでも読後、悔しい吐息を洩らした。寸時、気分転換にもう一服し、星野が作成させた、別の事件の資料を読み始めたのである。
大阪市内福島区にある渡辺総合病院の病院長渡辺卓四十二歳が、自宅玄関前で、秘書が運転する車から降りたところを狙撃されたのだ。2013年十月十一日金曜日午後九時過ぎ、ライフル銃(凶弾からそう推定した)で後頭部を撃ち抜かれての即死だった。
射撃した場所は、入射角度や死体に与えたダメージなどから、翌朝には特定できた。捜査員がおよその見当をつけ、同行の鑑識が遺留物検査をし、微かだが発射残渣を検出したため特定できたのである。ただし薬莢は落ちてなかった。犯人が持ち去ったからであろう。
渡辺邸から約150メートル離れた五階建て古マンションの屋上であった。腕の良い狙撃者なら問題ない距離だ。しかも、と和田は思慮した。夜間だけに面のわれる心配が少なく、否、凶行後の逃走を妨げる事態も起きないだろう、犯人はそう計算したのではないか。
ちなみに、現場を精査した捜査員の見解はこうだ。入射角度からみて、犯人はうつ伏せでライフルを構えた。また狙いすましている点、さらには被害者が一人だけとの理由から、通り魔的凶行ではないだろうと。狙いすましたというのは、銃声が一発だったと訊きこみでわかったからだ。つまり、渡辺卓を狙った犯行とみるのが自然ということである。
銃声についてだが、住民はまさかそれとは思わなかったという。閑静な住宅街で一帯は平和そのもの。「車のバックファイアやと思た」と、異口に同私見だった。
ところで、マンション屋上部で犯人がうつ伏せでライフルを構えることができたのは、古いマンションタイプにおいて時折見かける、四囲を金網フェンスで囲った屋上だったことと、屋上四囲の、外壁へ通じるパラペット(立ち上がりのコンクリート)が、高さ二十センチ程度であったことによる。だからうつ伏せでも、身体を安定させられたのだ。パラペットがもっと高い状態だった場合、犯人が寝転べばその銃口は夜空の星にあいさつする破目になった。狙撃した地上のホシは、このことからも場所を選ぶうえで下調べしていたと思われた。むろん、行き当たりの偶然を完全に否定しうるものではないが…。
犯人にとっての場所的要件だが、まだあったと考えられる。屋上に侵入しやすくしかも他人が上がってこないことだ。当該マンションは、この点でも魅力的だったに違いない。
屋上には上がれないよう、普段、手前の扉に南京錠を掛けていたと大家。が、壊されていた。簡単に壊せる程度の鍵だったからだ。
要件を満たしたので、ここを狙撃場所に選んだと捜査員は確信した、そして和田も。
ミスショットなしに一発で仕留めた手並みから、プロを雇った殺しの線も含め、捜査は進められている。プロを雇ったとすると、これは仮の話だが、政治的動機も無視できない。だが書類によると、渡辺病院長自身、政治家に転出する動きを見せてはいなかった。また、特定の政党や政治家との関係は希薄で、せいぜい付きあい程度、特に親しい団体にしろ個人にしろ存在しなかったともある。となると、動機が政治がらみとは考えにくくなった。
ライバル病院との水面下での熾烈な患者獲得競争も現実に存在した。しかし、それが殺人の動機とも考えにくい。病院長が死んだところで形勢が変わるほど、患者の病院選びは気まぐれではないからだ。何より、優秀な医師の存在こそが関心の的なのである。
すぐに立ち上げられた帳場だが、動機を持つ人物を、渡辺病院関係者・現患者とその家族・元患者とその家族の中にいないかで当たり始めた。概ね、怨恨の線ということになる。
病院関係者だが院の内外でたて分けて事情聴取することとなった。現在勤務している医師・看護師等、事務関係者が内部だ。ちなみに病院理事長は被害者の妻、渡辺恵子五十三歳であった。約半年前、息子が浴槽で事故死したその母親だ。被害者は入り婿であった。
外部とは、当院を辞めた医師・看護師等、元事務関係者と出入りの業者である。
捜査本部も、そして捜査資料を読んでいる和田が考える捜査の方向性も、一致していた。
不当(本人がそう思った場合も含む)解雇等の退職理由は動機になりうると。または恨みを懐いている出入り業者。たとえば多大なバックマージンを要求され、会社との板挟みで病気になった医療機器メーカーの社員がいても不思議ではない。見つけ出すのは難しいだろうが。
それにもましての困難が、病院への患者の本音の評価を知る作業だ。殺害動機を持つほどともなれば隠蔽や虚偽という、人間ならばこそが作る壁や陥穽(かんせい)に阻まれることとなろう。
なかでも医療ミスの有無の捜査こそは、その典型だ。生半可な捜査では表に出てこない。
病院側は当然、必死で隠そうとする。患者側も、動機があからさまにならないよう心掛ける。たとえ復讐を果たしても逮捕されたら自分たちの負けだ。病院は刑事罰を問われないからである。したがって、医療ミスという真相は闇を棲みかにしてしまうに違いない。
医療ミスと、言うは簡単だが、警察にも検察にも医学の専門的知識がないぶん、捜査自体暗中にての手探りとなる。今回の事件でも場合によっては、闇の中で暗号を解くような捜査となるかもしれない。挙句の果てに、殺害動機すらわからない可能性も。となると、犯人像がおぼろげにも浮かび上がらなくなってしまうのだ。
だからといって手をこまねいているわけにはいかない。捜査本部は、捜査の鉄則ともいえる、一番身近な存在の妻にも疑惑の眼をむけた。妻が犯人なら、プロの狙撃手を雇ったと考えられるから、アリバイの有無は関係ない。問題は動機があるか、である。
女好きとの評判から病院長の身辺調査をし、浮気や隠し子の有無を調べ上げた。たしかにお盛んだったが婿養子という立場上、特定の相手はいなかった。風俗やホステス相手の性欲解消であり、妻の恵子もギリギリ大目にみていたようだった。年齢差十一歳の姉さん女房に引け目を感じていたのか。あるいは女遊びを理由の離婚では不具合だと、病院の評判低下回避のために辛抱したのか。もっとも外に子供を作っていれば、話は別だろうが。
ところで特定の相手がいないぶん、当然なのだろうが隠し子も出てこなかったのである。
入籍を前に、渡辺家も卓の過去も調べあげた。結果、有能な医師である。前妻はすでに死亡しており、さらに子供はいない等。むろんこれが卓を婿養子にした大きな理由だった。
つまりは現妻の犯罪として捜査を推し進めようにも、大きな壁にぶち当たったのである。
そこで、女遊びよりも強い動機となりうる、例えば多額の使い込みや財産乗っ取りなど、妻と渡辺家を裏切る行為の有無も入念に調べあげた。が結局、見出すことはできなかった。
動機面で、疑惑を根拠あるものに進展させるまでには至らなかったということだ。
それでもと、捜査員は粘った。さらなる追跡法は、妻恵子名義の銀行口座等の金銭の動きであった。プロの狙撃手を雇ったのならそれ相応が支払われたはずだと、金融関係を当たった。しかし簡単ではなかった。金融関係と一口で言ってもまずは数が多い。加えて、個人情報の中でも重要な情報だけに、各行から取引自体の提示に難色を示されたからだ。
渡辺理事長は取引銀行にとって超がつくお得意、融資先としても貯蓄額の多い客としても。機嫌を損ねるは愚の骨頂なのだ。それでも一応、社会貢献という建前から情報提供が事件解決に果たす可能性と、金融機関が死守せねばならない情報の重みとを天秤にかけたようだ、難色はその結果であった。
こうなると、就任半年の府警本部長が動かざるを得なかった。大阪府警はここ一年半、未解決殺人事件を多く抱えるという黒星続きで、世間からは無能だとか給料泥棒呼ばわりされ、非難や冷笑に曝されてきた。だからこの事件だけは何としても解決したかったのだ。
まず、全国銀行協会会長に頭を下げた。郵貯のトップ代表執行役社長にもお願いをした。「それならば」と限定的協力で妥協した。各機関が警察の要望に合わせた調査をし内容を報告するという妥協だ。経済事件に限らず、重要な証拠となる場合は令状を取り強制捜査もできるが、あくまでも状況証拠程度でしかない以上、“お願い”するしかなかったのだ。
一行を除き、取引銀行数行はしかし、ここ一年の間で、短期間に合計が百万円以上のまとまった金銭の動きはなかったと情報提供した。
ところで報酬としてスナイパーは当然のごとく、現金のみで小切手などは受け付けない。しかも手付けと成功報酬に分けて受け取るから、帳場はとくに事件以後の大きな引出しに注目した。一行のみ一度だけ、数百万単位が引き出されていた。その報告に帳場は一瞬色めきたった。だが、すぐに失望が覆った。葬儀費用だったからだ。金額も一致していた。
別の高額引出し法について検討がなされ、すぐに結論が出た。一行での引出しに拘らなければいいと。それで、複数の金融機関を使った同一時期の引出し状況を調べてもらったのだ。その合計が相当な高額となるかどうか。しかし一年前以降で、各行の引出し合計金額だが、十万円にもならなかったのである。この程度では凄腕のスナイパーは雇えない。
それにしてもセレブの金の使い方ではない、何か裏があるのではと主張するベテラン捜査員が何人かいた。だが、理由はつまらないほどに簡単だった。夫人は金額の多寡を問わず買物も公共料金等も、たとえば旅行費用なども全てクレジットカード払いだったのだ。
家政婦が買う食料品や日常品もクレジットカードで支払わせていた。だから、まとまった現金を引出さなかったのである。
そこで帳場は考えた。偽装名義の口座を作りそこから報酬を渡したのではないかと。しかし各行は全否定した。渡辺恵子ほどな立場の顔を見知らない行員はいない。顧客管理は重要ゆえに、偽装口座をむざむざ作らせる無能な行員はいないと口々に断言したのである。
ならばとて、夫名義の口座を調査対象として依頼。だが、疑惑の目を向けた捜査員にとって残念な結果に終わったのである。生前時の、不審な金銭の動きは全くなかったからだ。
残る最終手段。消費者金融等から借りる手立てだ。予め、捜査から身を守る手錬として。だとしたら返済のため、いずれ、理事長はまとまった金額を引出すだろうと見立てた。その場合は告知をと各行にお願いしたのである。しかしこれも空振り三振に終わるのだった。
それでもの渡辺恵子犯人説。その仮定の動機だが、帳場の見解とは違い、和田が拘泥するとしたら、やはり息子の死である。ちなみに故病院長にとっては、実の子ではなかった。
さても長男の死だが、初動捜査の結果、殺人を疑う材料は出てこなかった。それで本格捜査のための帳場は立ち上げず所轄のみの捜査となり、結局、事故死で処理したのである。
それでも、待てよと和田。もし跡取り息子の死に、再婚の夫の卓が関わっていると妻が確信したとしたら、“復讐”という揺るぎない殺害動機が存在したことになるではないか。
しかしながら捜査本部は、息子の件と今回とは無関係とした。それよりお盛んだった桃色遊びの相手の中から、動機を持つ人物を洗い直したのである。激しくトラぶった女性がいないか、再度の入念な洗い出しに方針を決めたのだ。きっかけは、動画投稿サイトにモザイクのかかった被害者の性行為動画が流入しており、秘密裡の女性関係を暴露されたからだ。ただし、警部全裸絞殺事件のときの映像ほどには、出来はよくなかった。動機はやはり男女関係のもつれによる怨恨、となると浮気相手が犯人ということに。
また、必死の捜査を嘲笑うかのような事件六日後のこの動画投稿だが、目的が夫人を犯人に仕立て上げるためと考えればそれなりに辻褄が合うとみる捜査員もいた。
一方、警部全裸絞殺事件の模倣か?はともかく、動機は嫉妬だとする単純な観点から、疑われたのはやはり夫人であった。だが、動画投稿は夫人とは別人であろうと。恵子が自らに疑いの向く愚行をするはずないのだから。
以上のごとくに始動して十日目の捜査だったが、すでに多岐にわたって進められていた。大阪府警察だけでなく、警察全体の威信がかかっているといっても過言ではないからだ。
しかしながら、初動捜査の遅れや誤謬(ごびゅう)などなかったにもかかわらず、これといって進捗していないようだ。暗中模索といおうか、結局は捜査に一筋の光明をいまだ見いだせぬまま、であった。
和田はまたも一服喫した。その間に、医者・妻・殺人事件の三つの言葉から、遠い記憶が今度も呼び覚まされたのだ。――たしか…、八年ほど前に起きた医者の妻殺害事件――であった。若い女性患者が医者を間に挟んだ三角関係の末、その妻を殺したとの事件だ。
一部の週刊誌は、肉体関係にあった医者を“略奪愛”せんとして発覚し、略奪に失敗した女性患者が、嫉妬や憎悪という負の感情を爆発させ事件を起こしたと、当時そう報じた。興味本位の上に予断と憶測で書かれた記事だ、そんな感想を持ったとうっすら覚えている。
ところで、このあと知ることになるのだ、この事件と病院長射殺事件が密接に関わっていたことを。
それはそうと、事件を扱うオーソリティの警察といえど、発生時期が相当にズレているばかりでなく手口まで違うと、それらに関連があるとは気づかないのである。というのも、
とりわけ常習犯という輩は、同じ手口で犯罪を繰り返しやすい。得意な分野の犯罪を手掛ける場合、慣れていてしかも成功を積み重ね安心もできるからだ。特に窃盗や空き巣狙い・スリ等に多いが、保険金詐取目的殺人の犯人も、過去の犯罪事例をみるまでもなく同じ手口を使うようだ。それで多くは逮捕という結末を迎えることになる。逆をいえば犯罪者が分野も手口を変えれば、警察は悪党の尻尾に触れることすら難しいということだ。
なぜなら警察は、証拠品や遺留物とにらめっこしつつ暗中模索し、犯罪の分野や手口も参考に、否、重視し捜査するからである。ゆえに意外性に弱い。それで、複数の事件が不可視の深層で繋がっていても気づかないのだ。刑事稼業の長い和田の実感でもあった。
そして今はまだ、二つの事件がつながっていたことを誰ひとり気づいていなかった。
それでも義理の息子の溺死と病院長の射殺にはたして関連は?と思索する和田。五ヶ月半前、事故死で処理された息子の件、その五カ月後に義理の父親が射殺されたのだ。関連を調べずに済ます和田ではなかった。――およそ半年の間に渡辺家で二人が死んだ――のは単なる偶然だ、でいいはずないと。事と次第では、妻による夫殺しの可能性があるとも。
ただしその場合、殺し屋を雇う費用の捻出が問題となるのだが。高価な宝石や不動産のいずれかを売却して工面したとも考えられる。しかし憶測はここまでだ。事件を担当していないのだから。担当で同期の警部にこのことをそれとなく教えることにはなるだろうと。
あるいは事によると、自分たちが調べるかも?とも。単なる勘ではなくそれなりの根拠があってのことだ。過去にも、矢野係が鞍替え担当した事件があったという事由による。
ちなみに子息の事故死とは、後述する藤浪警部補が当時担当した件、総合病院理事長の息子が酔っぱらった挙句、自宅の風呂で溺死した件であった。
和田は部屋に戻ると、溺死の具体的状況を知るために、まず星野管理官が作製した捜査資料(パスワード入力によって検索できる、先刻のファイル)に隈なく目を通した。
ところでこの件を捜査資料に加えていたということは、警視も忙しいなか疑惑を懐いている、少なくとも事故死と個人的には認定するに至っていない、とみて間違いないだろう。
ただし、和田も気づいていないことがあった。なぜ星野管理官がこんな風に捜査資料を作成したかについてである。じつは、未解決事件解決のための専従捜査をする組織が向後作られる予定だからだ。そのための資料作りは必要不可欠だったのである。

2013年五月十日金曜日午後十時一分、渡辺卓病院長が自宅で入浴しようとして、浴槽内でうつ伏せになっていた息子を発見したと119番通報があったのである。
あまりの事態に動転しつつも、形(なり)振り構わず湯船から出すと床に敷かれたマットに寝かせ必死の心肺蘇生法を施した、いわずと知れた心臓マッサージと人工呼吸をだ。たしかに、死体胸部中央付近には心臓マッサージを施した痕跡が強く残っていた。父親というより医者として反射的に出た行動だったと、機動捜査隊の警部の質問に答える形で述べていた。119番に電話したのは応急処置直前だった、とも同警部に口述したのである。
ところで病院長の過去について、溺死体が結局は事故として処理されたせいもあり、調べられることはなかった。その必要性を誰も思慮しなかったからだ。八年近く前に妻が女性患者によって殺された、当事者だったという事実をである。下世話を売り物にする週刊誌が“略奪愛”の果ての殺人と報じ、一時(いっとき)世間を騒がせた事件の被害者家族だったことを。
それはさておき、息子が死んだこの日、院長の妻で病院理事長、そして死体の実母でもある渡辺恵子は、三泊四日の韓国旅行に出かけていて、留守であった。
病院長は執務を終えて午後九時過ぎに帰宅すると、通いの家政婦が調理した冷麺と餃子をつまみにロング缶のビールを飲みつつ、一階のリビングにおいて、部下で若手の心療医が記した小論文を読みながら晩の食事を済ませたと。そのあと、シャワーを浴びようとして息子の変わり果てた姿を発見したとのことだった。午後十時より少し前だったという。
渡辺卓への事情聴取をした機動捜査隊主任は、詳述に不自然さを感じることはなかった。119番の入電記録とも時間的に符合しており、事実、そのせいもあって感じなかったのだ。
ちなみに機動捜査隊とは、凶悪犯罪の初動捜査等で現場に急行する専門な執行隊である。
午後十時半、到着した検視担当官は、床で仰臥状態の若い男の死体にまずは合掌した。
機動捜査隊の警部補は、被害者の自室にあった睡眠薬を飲んだ可能性について言及した。
ところで検視(刑事訴訟法による死体観察)は、死体の損傷(その形状から凶器を推定したり、ためらい傷や吉川線など外力作用【事故なのか故意かも可能であれば報告】による傷か自傷かの判断)・変色(圧迫痕やうっ血など)・異臭等を見つけ出す作業でもある。
初動捜査にて、凶器や薬物使用、その他に由る殺害か事故死あるいは自死か等を含む死因、さらには死亡推定時刻などを短時間にて判断しなければならない検視は、特に殺害の疑いをもつにいたった場合、捜査を左右することにもなる非常に重要な任務なのだ。
まず、死体温度を計るため水銀体温計を肛門奥に挿入。体温の正確な測定法として、検視では直腸内測定が常套だからだ。体温計が仕事をしている間に部下に手伝わせ、死後硬直と角膜混濁や死斑の状況等を手際よく確認した。本来なら死体の乾燥状況もチェックするのだが、少し前まで浴槽に浸かっていた以上、調べる意味がなかった。通常なら目の粘膜や皮膚等の乾燥具合からも、およその死亡推定時刻を割り出す手掛かりになるのだが。
ちなみにいろんな角度から死亡推定時刻を推し測るのは、例えば体内温度測定だけで推定したとすると、以下の不具合が起こりうるからだ。
1 間違った結果が仮に出たとして、他のデータと比較しなかったならば、その誤謬に操られた格好となり、捜査の方向を誤らすことになる。 2 さらに、もし犯人が死体の体温低下を狂わせる工作を施した場合、その工作に踊らされて死亡推定時刻を見誤ることにもなろう。結果、最悪の場合、冤罪という悲劇を生むこともあるということだ。
それ故に、可能な限りの測定方法を駆使するのである。
さて、職務に専念する警部は検視用七つ道具の一つ、ルーペを使い、発見や判定が比較的難しい、鼻口部に細小泡沫を多く含む白色あるいは赤色の液の存在を自らで確認した。結果、溺死と判断した。のち、創傷や扼痕(首を絞めた指の痕)・圧痕(体を押さえつけた痕)等、それらが無いことを確認した。つけ加えるに、外傷がないことから、よって「溺死の原因は不明」としたのである。
一方、眼瞼や口腔等の粘膜への溢血(小出血斑)発現は部下が確認した。顕著であった。
ところで、以下は検視時の仮定の話だが、首にひっ掻き傷があれば防御創の一種の吉川線とも考えられ、死体の爪の間に被害人以外の皮膚や血液が残っていれば、他殺と具申する。刺傷や擦過傷・銃創などの創傷、その他、殴打痕や索条痕(索条とは凶器となったロープやネクタイ等を指す)などの有無やあったときのその状態も観察するのだが、検視担当官はこれらも死因および自・他殺や事故死の判断材料とするのである。
死体にはそれら一切の痕跡だが、全くなかったと報告書に明記した。
参考までに“検視”だが、刑事訴訟法229条で検察官が行うと規定。だが現実的ではない。そこで同条第2項では、検察事務官か司法警察員の代行を認めている。鋭敏な捜査感覚と法医学の専門知識を要するために、特別な訓練を受け死体観察に精通した専門の警察官、通常は警部クラスが担当するのが現状だ。刑事ドラマ等で“検視官”と呼ばれているのはこの人たちのこと。加えて検視規則5条で、検分には医師の立会いが必要としている。
ついては、検死官とは表記しない。検死は、日本の法令用語には存在しないからだ。だが、あえて使うとすれば死体検案のことで、医師法第19条により、監察医や嘱託の警察医等の医師でなければできない専門分野なのである。
つぎは眼球の混濁加減を見る角膜混濁。まだ透明であった。死後数時間で白濁し始めることから、二時間未満と推定した。死体硬直はすでに始まっていた。発現時間には諸条件や個人差もあるので幅を持たせ、死後一時間から一時間半プラスマイナス三十分と。
最後の見立ては死斑だった。だが、なかった。あれ?と首を傾げた。発現し始めていないとおかしいからだ。この不思議を、他の検視結果と合わせ初動捜査担当の機動捜査隊の警部にまずは告知した。そのときに病院長の事情聴取を伝聞で聞き、ようやく納得したのである。縦2メートル、横1.2メートル、深さ0.6メートルの特注品の大きな浴槽に、発見時はうつ伏せ状態だったがすぐに湯船から出し、床マット上に仰臥させ、心肺蘇生法を施したと供述。ところで、結果的にはこの処置のせいで死斑が消えたのだ。つまり、水槽内で一旦は腹部等に発生していたはずの死斑が、応急処置せんと仰向けにしたため、今度は背中の方へと移りだした、時間的にみてその過程にあったということだと。
辻褄が合っていると合点した和田も、死斑に関し検視担当官が疑問を懐き、上記の事情聴取伝聞ののち納得したとの職務に対する忠実を知り、優秀な担当官だと感じた。
その死斑だが、死体の体位に応じ地球に近い側に発現し始める。生命が活動していれば、心臓の拍動により血液は重力に関係なく体内を循環する。だが心停止と同時に血流も止まる。それで万有引力により、血液は地球に近い側に集まりだす。死体が仰向きだと背中側へ、首吊りのようにぶら下がっていると手の先にもだが、多くは脚部に発現するのだ。
少々長い説明となるが、死後七時間以内の初期段階の死斑は血管内のうっ血であるため、体位を変えたり死斑に圧迫を加えたりすると容易に消失する。だが、七時間を越えたあたりからの死斑は、血液の色素が皮膚組織などに深く浸透し沈下した固定系へと変化するため、体位を変えたとしてもあるいは死斑に圧迫を加えようとも、消失も退色もしなくなる。
余談ついでにもうひとつ。死斑の色調あるいは強弱によっては死因をある程度絞ることが可能となるのだ。たとえば、一酸化中毒死や青酸ガス中毒死だと鮮紅色となる。もし緑色を帯びていれば、硫化物中毒死を疑ってよい。死斑の出現が弱いと失血死もあるが、腎不全や慢性肝炎などの病死とも考えられる。河海などでの溺死の場合、発現しないことも珍しくない。が、それは波や水流により死体が上下に回転し位置が定まらないからだ。
ところで今回のように入浴時の溺死で死後一時間半以上なら、波も水流もないために死斑が出ていて当然なのだ。否、窒息死体であるから、本来なら死斑は強く出現しているはずである。検視担当官が不思議がったのも当然というわけだ。
その、機動捜査隊員から“検視官”と呼ばれたベテラン警部は、測定体温からの死後経過時間判定を急ぐことにした。死体現温度35℃を基に諸条件を整理し、なかんずく気化熱による体温低下も計算内に入れ忘れなかった。通常ならば、(今回は風呂場の)気温と湿度や風の有無等・着衣(全裸だった)の内容とその状態・日光の有無や死体への照射具合(夜間なので当然無い)等の各種条件によって体温低下の進み具合はかなり違ってくる。むろん、死者の生前の通常体温を基準とするのだが、今回は三十六度五分とした。被害者の平熱を知る人がいなかったからだ、まして死亡直前の体温となると…。担当官は今現場の各条件を総合的に判断し、経過三十分で五分の下降と計算したのである。
よって死亡推定時刻だが、同日午後八時から八時半ごろと推定した。家政婦が帰宅する同八時少し前「お食事、持って上がりましょうか」と問い、自室にいた直人が「冷麺やろ、少しでも冷たい方がええから、これを済ましたら自分で冷蔵庫から出す」と返事したとの証言、および病院長の供述(後述となる)を知らなかったゆえに、少しズレが生じたのだ。
ところで、検視は解剖より手っ取り早いぶん、出る結論における多少の誤差は織込み済みである。よって、概略でもかまわないことに。特に殺人の場合、初動捜査においては死亡推定時刻と死因の推定こそが重要なのだ。早ければその分、犯人の逃走や証拠隠滅・アリバイ工作等の時間を奪えるからである。
ここで和田、唐突に、…平等であるべき捜査に地域格差などあってはならないと思った。だが変死体検死解剖においてすら、実態は全国一律ではない。行政解剖を主業務とする監察医制度の実施は東京23区・横浜市・大阪市・名古屋市・神戸市のみで、以外の自治体には無い。これが実情だ。だけでなく、人員や使える経費の多寡の問題等、各々の地域で諸般の事情があり、上記の五都市以外では、変死体であっても検死解剖に付さないことも少なくない。これも実状なのだ。もっとも五都市でもその全てを、というわけでもないが。
よって弁護士などが問題提起している。対象が死者とはいえ、憲法の下の平等に反する可能性に。否、そればかりでない、殺人を看過している事態も決して少なくないことにだ。
たしかに経費の加重がネックという現状はある。だが、検死解剖から他殺とわかることも少なからず存在する。にもかかわらず費用云々が理由で、警察が死因や死亡推定時刻等の大事な情報を得られないまま凶悪犯罪を看過しているとしたら、果たして法の下の人権や平等が行使されているといえるだろうか。たとえば角田美恵子主犯の尼崎連続殺人事件。
検死解剖により変死体の死因が究明され、早い段階で主犯以下が逮捕されていたら?…以降殺されずに済んだ人々、また脅迫や洗脳によって凶悪犯罪に加担させられ今も精神的被害に苦しむ、元は善良だった人たち、そんな不幸を未然に防げたのではないだろうか。
警察官としては当然、ひととしても和田は悔しいのだ。

科捜研からの報告書には、多量のアルコールと通常使用量の倍程度のベンゾジアゼビン系睡眠薬ハルシオンが検出されたとあった。その分析法について…。ガスクロマトグラフ質量分析装置や試薬等を用い、死体から採取した血液を分析する検出法、と記されていた。
テーブル上に置いてあった睡眠薬と飲酒を併用したのが本人なら、自殺か事故死であろう、となる。ところであとの家政婦の事情聴取によると、直人の言葉の状態からまだ飲んでいる風ではなく、バーボンのボトルもこの時点では、家政婦がいつも出しておくテーブルの上に置かれたままだったという。ときに、直人とは若き死体の生前の名前である。
家政婦の退去後、直人が二階の十二畳の自室に持ってきたのであろう、リビング用テーブルの上にはベリーオールドセントニック十五年物とグラスが一つ、他は食べ散らかしたままの食器類と小ビンが雑然と。ただしアイスペール(氷を入れておく容器)はなかった。
仮に殺人事件だとして、氷に睡眠薬が混入されていた…としたらアイスペールは犯人が持ち去った、が妥当だろう(翌日の科捜研での検査によると、ボトルの中のバーボンから睡眠薬は検出できず、グラスからのみであった)。だからといって家政婦の線はない。中年女性一人で若い男を溺死させられるはずがない。加えて直人の死亡時、彼女は帰途にあった。そして、邸には他に誰もいなかったのである(後述するが、調書にはそうあった)。つまりこれが、殺人説最大のネックなのだ。
ではと、睡眠薬がグラスからのみ検出された別の可能性について、警部は考えた。食器類の横にあった薬ビンから睡眠薬を取り出し、グラスに入れ時の過ぎゆくままに溶かすというやり方だ。普通なら錠剤をそのまま口に含み、バーボンで流し込めば済む話。なのに、なぜ?しかしながら自殺志願者たるものは、常人とは異質の思考をするともいう。
解せない点はあるが、自殺とみるのが自然だろう。機動捜査隊の警部は、死体が無傷なことや邸には他に誰もいなかったなど現時点で手にしえた情報からそう考えた。
ちなみに司法解剖はされなかった、事件性が希薄という理由で。アイスペールがなかったことで殺人の可能性が小さく浮上したが、あとの義父の証言で疑問は解消されたからだ。
変死体ではあったが、行政解剖にもまわされなかった。検視により、死因や死亡推定時刻がほぼ断定できたこと、打撲痕や扼殺・絞殺の痕跡等、また、死体の爪に血痕や皮膚片はなかった、などにより、争った形跡も認められなかったからだ。さらにいえば現場は豊中市であり、監察医制度を採用していない地域だったことにもよる。いわば地域格差だ。