それらを踏まえたうえでこんどは、紀元後の人類に目を転じよう。
その一 ユーラシア大陸東方の遊牧民だったフン族が、西端のヨーロッパにまで大陸大横断し、その間、他民族を排斥あるいは隷属して大帝国を築いたのだ。
言語学的論証によると、ハンガリー人やフィンランド人はかれらの子孫であり、長期間に白人化したといわれている。ときに、奴隷たちをふくめた数万をはるかにこえる人数といい、一万キロ近い移動距離といい、この民族大移動は有史では空前だ。行きつく先が人口を養える沃野とはかぎらないのに、である。つまり、ムチャで無謀で長大な旅だったのだ。
そしてこれを端にするゲルマン民族など、諸民族の大移動(紀元四世紀から七・八世紀ごろのヨーロッパにおいて。西洋史ではこれを民族移動時代と呼称)を引きおこす。
その二 千年以上続いた、陸路・海路における広義のシルクロード。
陸路は、南北の交易路もあったが、主流は、ユーラシア大陸を大横断した東西路だ。
いつ砂嵐が襲うかしれない荒涼たる灼熱の広大な砂漠帯を越えねばならず、また、氷と雪に覆われた急峻(=傾斜が急で険しいこと)な大山脈も踏破しなければならなかった。過酷、ではとてもいい表せない道なき道もあったであろう。しかもつねに、盗賊群が虎視眈々とねらっていたのである。
海路も困難の極みでしかなかった。十二世紀頃までは、大船をつくる技術はまだまだ未熟だったからだ。動力もなく、せいぜい数十から百数十人ていどの船では、人力以上に、風と潮流まかせとなる。平穏な海が、大風・大波・サイクロンなど大自然の脅威へとその様相を急変させると、人力の抗(あらが)いなどただただ虚しく、赤子のように翻弄されるがままであった。
インド洋および南シナ海横断等、一万kmをこえる長距離であったぶん、難破や沈没は茶飯事だったにちがいない。
ただし、“困難を極めた航海”という意味での例外はある。大船建造技術を習得しつつあった十五世紀初頭、中国明朝永楽帝がとおくアラビア半島およびアフリカ東海岸にまで、提督の鄭和(ていわ)以下二万七千八百人、六十二隻の大船団を派遣したことだ。
当時の世界最大をほこった宝船(ほうせん)は全長百三十七メートルの巨艦だったと記録(『明史』など)にある。しかも七度の大航海だったという。しかし中国人はなにごとにおいても大袈裟に表現する習性があるから、それぞれの数字を鵜のみにはできないのだが。
それでも、特質すべきは平和外交のための派遣であったことだ。略奪や占領および植民地化が目的ではなかった点、後世のコロンブス(コロンビア国の語源)たちとは大きくちがっていた。
その三 十五の末から十六世紀、西欧から発した数千キロ超の渡海。当時もまだ天候に左右され、まともな海図もなかった大航海時代。鄭和による、財宝などを手土産としていた悠々の渡航とちがい、飢餓や渇水、疫病に苦しみながらの大航海であった。
クリストファー・コロンブスによるインドを目指した大航海がその象徴だ。ほかにも、有名なエンリケ航海王子(かれはパトロンであり航海の指揮者であった)が派遣した探検隊を草分けに、ヴァスコ・ダ・ガマ隊やマゼラン隊など、だれもがまさに命がけであった。
キリスト教のまちがった世界像が信じられていた時代であり、逆に、地球が球体だと証明されていない時代に、未踏の地への大航海というものがいかに無謀な冒険だったか。
大洋を突き進み海の果てまで辿りつくと、あとは滝のようになった海に呑みこまれ、船は真っ逆さまに墜ち、二度と戻れないと信じられていた時代なのだ。
尖端の探検家たちはさすがにこれには半信半疑だったろうが、それでも有名な話、マゼランと腹心たちは世界一周の途上で戦没している。人類史上初の世界一周が、苛酷な旅だったというなによりの証左だ。
ところでマルコ・ポーロの東方見聞録をたよりに、ジパングをその象徴とするアジアの黄金をもとめたコロンブスが、三度にわたり到着したのは中央アメリカ近海にあった島々であって、かれはそこをインド遠海と信じていた。
まあ、ムリもない。アメリカ大陸の存在など、ヨーロッパ人はだれ一人しらなかった十五世期末なのだから。で、コロンブスの思いこみはトンチンカンなものとなった。
コロンブスがスペインにもたらしは報告がまちがいだったことが、アメリゴ・ヴェスプッチ(アメリカの語源)のアメリカ大陸発見により証明され、かれは詐欺師の名にまみれながら、失意のうちに没したとのことだ。
その死の十数年前、西インド諸島にあったかれと千五百人の部下は、人間狩りもどきのはてに数千人単位の大殺戮をなんどもくり返した。すべては、パトロンであるスペイン女王イザベル一世に提示した目標量の黄金略奪をはたすためであった。
それで、見せしめの手足切断・拷問・惨殺や放火に明けくれたのだ。また劣情から強姦もし、カリブ海の島々の民衆を奴隷とした。わずか数年間にもかかわらず、結果、かれらの手による直接の死者だけでも数十万人と推計されている。どうひいき目にみても、悪逆のかぎりを尽くしたという以外にない。
以上の歴史をふまえたうえで、数百万年前を頭にすこしおきつつ、数十万年前へ遡(さかのぼ)るとしよう。
アフリカ大陸での人類(古人類学が定義する初期の化石人類)創生後…、人類のとおい祖先の祖先である、直立歩行し道具をつかえた猿人から、やがて進化の過程であらわれた北京原人やジャワ原人などの各原人が、地球上の各地へ命を賭し艱難辛苦のすえ、散らばっていったのだ。
さらに進化し人口増加したネアンデルタール人やハイデルベルク人などの、新人(ヒト)と対比しての旧人(この区分には異説があり)がユーラシア大陸各地へと移動しなければ、現生人類が繁栄できたかどうか?
それはともかく、東アフリカから散らばっていったおかげで、潤沢とはいえなくなった食料を確保できるようになり、旧人もながく生存しえたのだ。
そして結果的に、現生人類の存続にも貢献したのである。
おかげで、のちにおとずれる氷期において現生人類は飢餓により絶滅することなく、後世へと生存しえた。やがて文明を築く古代へとつうじていけたのだ。化石人類にたいし、感謝にたえないではないか。
さて、目を時空ともに身近な日本国へ転じよう。
国家の一大事業だった遣隋使や遣唐使たちも、日本海をわたるのに命をかけた。史実、多大な犠牲者をだしている。それでも遣唐使にいたっては、二十回近く(諸説あり)つづけられた。大洋に比するまでもなく狭い海域にもかかわらず、目的地には到達できず北にながされ、あるいは南に漂着した。さらには難破・沈没などに見舞われた厳しい渡航であった。
逆に唐から、失明しつつも命からがら鑑真とその一行が来日している。井上靖作”天平の甍”にくわしい。
こんどは宇宙に視点をむけよう。
ガガーリン少佐(飛行中に二階級特進し最終階級は大佐)による初の有人宇宙飛行。
つづく、有名なアポロ11号の快挙。ケネディ大統領が提唱した人類初の月面到達だ。1969年七月二十日であった。アームストロング船長がその歴史的第一歩を月面にしるしたのである。これら宇宙開発の史実を、…ムチャな・非経済的な・危険な旅といわずして…云々。
しかし挑み、やり遂げたのである。前人未到の危険にむかったそれぞれの有人宇宙飛行…、命がけで、莫大な経費をかけ、そして国の威信をかけて。
執拗だった記述はこれでおわる。が、以上のように人類史を読みとくことにより、ヒトと命しらずの無謀な旅は、切っても切り離せないということがよくわかる。
また、命しらずの冒険心にたいし、脳科学の論点から切りこむとこうなるのだ。
脳内化学物質・神経伝達物質としてしられるドーパミンは快楽物質として作用する。子どもが好奇心旺盛に行動するのは、ドーパミンのはたらきと関連しているからとも。グルタミン酸は興奮作用をもち、オクトパミン(名称はタコに由来)は積極・能動性のもとだとのこと。カフェインはその両方の作用にはたらきかける物質だ。エルケファリンは達成感や陶酔感を呼びおこすのである。(科学分野として広い未解明領域をもつゆえに、断定表記はむずかしい)
これらの物質は一例だが、文化人類学も参考に展開を試みる。すると、ヒトはときに応じ、ほかの動物とくらべ脳内化学物質・神経伝達物質をよりおおく放散することで行動範囲をひろげ、多角的な能力すらもつようになったと考察できる。
つまり、脳内化学物質・神経伝達物質が冒険心を大いにくすぐった結果だったと。
結論、冒険心やフロンティア精神は、ヒトの特性なのだ、
と思っていたら、
覚醒させられる論文が2012年、今から八十年以上前に発表されていた。
昆虫でしかないハチにすらも、フロンティア精神が存在するというのだ。イリノイ大の研究論文として、世界的に権威ある科学誌「サイエンス」が掲載した。
それによると、餌場を巣の近辺ていどにしか求めない臆病な個体がいるいっぽうで、危険をおそれずとおくまで蜜を捜しにいく個体もいるという。後者の冒険好きなハチの脳を調べると、グルタミン酸を検出したとのこと。また、オクトパミンやグルタミン酸のレベルをあげたハチは、臆病転じて冒険ずきになったとも。逆に、ドーパミンを遮断すると非行動的、いわゆる引きこもりになったとの実験結果も。
つまりハチといえども、脳内化学物質が冒険心を大いにくすぐったのだ、と理論づけていた。おかげで、ヒトの特性ではなくなってしまった。
しかし慌てるなかれ・嘆くなかれ、だ。論文は、つぎのような示唆もしていたのである。
人類は進化の過程で脳内化学物質を大いに活用し冒険心を向上させ、それで、好奇心や新奇探索への意欲が強くなった結果、新たな食料源をもとめる行動力を得たのではないかと。また新経験により手にした優位性を糧に、さらなる冒険心を湧きたたせたとも考えられる。
人類は長い時間をかけて新経験から学び、知能を高めてきた。経験が知の源としったのだ。それを仲間や次世代に残す術としての言語をあみ出し、経験から得た知を積み重ねることで、すこしでも危険性のすくない冒険を可能にした。換言すれば、すこしでも安全に新世界をめざせるよう工夫したからこそ、さらなる冒険が可能となったのだ。つまり、
ヒトは単に、無謀でムチャな冒険に徒手空拳で挑んだのではなかったとも類推できる。
以上の事由ゆえに、この計画が正当とは評価できない御仁も、人類初の試みの、大きな第一歩くらいの位置づけならしてもらえるだろう。
したがって「そんな愚かな・無茶な云々の、危険な旅をなぜするのか?する必要があるのか?」が、愚問であったと気づいてもらえたであろう。
数百万年前からのはるかに遠い祖先の命しらずの挑戦があって、人類は地上において繁栄し、我々はその恩恵を蒙(こうむ)っている。そのことを感謝するとともにけっして忘れてはならない。
そして我々はかれらの、勇猛果敢というDNAをうけ継いだのである。
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