ここで、余談を一章まるごと。
現段階におけるタイムトラベルにかんする、大閑話だ。
CEOのみならずとも、実験が完璧な成功をたとえ収めたとしても、それでもいまだに不完全であることは、読者もうすうす感じていただけていると思う。
それでも蛇足で記述したい。ただし法制定等のこととは、まったく観点がちがう。
今回のタイムトラベルが不完全なのは、残った二機目がいつ帰還できるかわからないという欠点のせいだ。
2095年の地球への帰還用ワームホールが出現するまで、指をくわえるか、首を長くするか、果報は寝て待つかは飛行士の恣意まかせ、あるいは好みだ。
が、とにかく宇宙で待機、ということに変わりはない。
彦原の、ワームホール自在作成装置が完成しなければ、帰還は五日後・五年後・極端な話、五十年後かもしれないわけだから“運まかせ”もはなはだしい。たしかに不完全きわまりない。
そんな不確実にもかかわらず、いわゆる人体実験が許されるのか?…との疑念がわく。
当然だ。人命は地球よりも重い、尊い存在なのだから。
しかしながら、とX社CEOになりかわり反論させていただく。まずはこれが現時点での、時・空をこえて旅をする唯一の手段であること。
「なるほど。だとしても、そんなにも不完全ならばやめておけばいい」、との至当の常識論。いわく、「そんな愚かな・ムチャな・非計画的な・非経済的な・危険な旅をなぜさせるのか?する必要があるのか?ありえへん・狂気の沙汰・するのは命知らずの冒険家だけ・真っ平ゴメン・金もろてもイヤ」エトセトラ・エトセトラ。
ならばと、“人類の歴史”にもとづいての反論を、ちがう角度から展開させていただこう。
ただしこれから人類と記すそのほとんどにおいては、推定二十万~十五万年前に誕生したとされる現人類、すなわちホモ・サピエンス(ヒト)のことをさしている。
また、進化論的見地においては、多地域進化説(略説すると、たとえば約五十万年前のヒト科の一種でホモ・エレクトスとして分類される化石人類の代表、北京原人やジャワ原人および旧人ネアンデルタール人が、化石の出土したそれぞれの地域で現生人類へと進化したとする旧来からの説のこと。中国では、北京原人をじぶんたちの祖先とする説を有力視している)ではなく、アフリカ単一起源説を採用する。
つまり、東アフリカにて現出した唯一の現生人類が世界に分散していったとする説である。
採用理由は以下のとおり。
ヒトのDNA(核DNAのほうではなく、赤血球等から抽出可能なDNA、母系遺伝であるために、全ての現生人類に共通するミトコンドリアDNA)を遡及(さかのぼること)追跡してゆくと、東アフリカ出現の上記のホモ・サピエンスに、たどりつくからだ。
また、男系であるY染色体から遡及していったハプログループの追跡結果(詳細は省く)においても、アフリカ単一起源説を有力とした。
さらにいえば、世界各地で発掘された現生人類以外の化石人類とは、DNAが異なるのである。
ということは、単一起源説以外、どうやら説明がつかないことになる。ほかにも単一起源説を有力視する論証が多々(詳細割愛という怠慢の許しをこう)あり、よって、世界の人類学者の大半が支持しているのである。
ただしこの第六章における記述そのものが、あくまでも学説であって、真実と断定できるわけではない。真実は、このタイムトラベルがやがてもたらすこととなろう。
さらなる仮説をついでながら。
トバ・カタストロフ理論である。出アフリカの原因、つまり、楽園だったはずの地をみかぎったその理由をここに求めようと思う。
推定七万四千年前、インドネシアのスマトラ島北部トバ火山が巨大噴火を起こし、結果、地球の大半が氷期になったと考えられる。
二十世紀後半のことだが、遠く離れたパキスタンにおいて、火山灰が約二メートル堆積している地層が発見された。地質や地層の年代分析等からトバ山由来の火山灰と推定され、それゆえトバ火山大噴火を推測できるのである。
氷期は、地上10Km以上に吹きあげられた火山灰や塵・噴煙などが、貿易風など大気の大循環により浮遊拡散しつつ地球の大半を覆い、によって赤外線をふくむ太陽光を遮断したからで、5~10℃地表温度をさげたとされている。
まずは、光合成にたよる植物全般が気温低下の悪影響もあって、より生育しにくくなった。つぎには、草食動物の棲息が困難になった。つられて肉食動物も。悪い連鎖は当然、ヒトにも容赦なく襲いかかったのである。
その多くが餓死していった人類は、よって、一万人程度にまで激減したと推測される。今日でいうところの、“絶滅危惧Ⅱ類”となったわけだ。
誕生の地、東アフリカにとどまっていたのでは確保が困難となった食料を、四分五裂に散らばりつつ別天地に求めるしかなかった。こうして、人類の地球規模のグレート・ジャーニー(これも有力な学説)がはじまったのだ。
ちなみに食料に困窮した多くの動物も、小型化しつつ(推測)移動拡散していったとされている。
さて、このときの我々の祖先は、生き抜くための必要性に迫られたわけだが、古今東西、“旅”とは危険に挑みつつ、いや、いちばん大事な命をも顧みず道をきり拓(ひら)いてきた冒険そのもの、でもある。
近世になり、治安のよかった江戸期ですら、旅人は近親者などと水杯(今生最期を覚悟するわかれの儀式)をかわしたのだった。
はなしを氷期に戻そう。夕刻のように暗くそして肌寒い朝ぼらけ、そんな一日のはじまりを迎えるたび、飢餓一歩手前の身をみなで鼓舞しあい、移動しながらわずかな食料を確保しつつ、その多くがアフリカ大陸を北上していったのである。
北東部(現エジプト)からシナイ半島を経てアラビア半島をわたり、岐路を東あるいは西へとった人々。むろんその途上を、定住の地と定めたヒトたちもいたであろう。
子どもを守りつつその手前、紅海の南東部バブ・エル・マンデブ海峡をわたり現イエメン・オマーン(アラビア半島の南方海岸ぞい)をとおり、ホルムズ海峡の最狭部を経てイランに上陸した人々。
そこを起点に北ルートとよばれる経路で移動していったヒト。かりに、グループAとしよう。長い年月をかけ東アジアへと辿りついたこのヒトたちの子孫は、やがてモンゴロイド(大別、黄色人種)と称される。
いっぽう、ヨーロッパ大陸へむかった人類をグループBとよぼう。コーカソイド(いわゆる白人系)と分類されることに。
南ルートをたどったヒトもいた。現インドの南岸からインドシナ南岸、マレー半島、現インドネシアなどを経由しオセアニアに安住したオーストラロイドで、グループCである。ただし、不明な点がおおい。たとえば、大洋をわたった舟の材料も、帆が動力だったかもわからないというか、朽ちてしまったせいだ、もはや調べようがないのだ。
で、“journer”ではなく小さく“trip”ていどでアフリカ大陸にとどまった人類をグループDとする。彼らはネグロイド(黒人系)でとよばれるようになるわけだが、たとえばアフリカ大陸を西方へ移動、あるいは南下、なかにはマダガスカル島にわたり定住したヒトたちをもふくむ一団だ。
ついでの余談だが、ここで、AとBの人々が寒冷化に耐えられた一因について。
獣にくらべ、すくない体毛のゆえに奪われやすい体温を保持するため、狩猟で得た獣の毛皮を縫合して衣服をつくる技術をすでに習得していたとの説が有力だ。動物の骨などを加工し縫い針をつくっていたことが、化石などから証明されている。
さてグループAのうち、その一部が新天地をもとめ極寒のシベリアへと移り住んでいった。かれらを新モンゴロイドとよび区別している。
また最古にみつもって三万年前のことだが、氷結したベーリング海峡(最狭部で約86Km)をわたり、人類未踏(いわゆる化石人類…旧人や原人などは生息してなかった。化石がもし発掘されたら、ノーベル賞級の発見である)の北米大陸の、具体的にはアラスカや北部カナダに定住した部族を、人類学的にイヌイットと。ロッキー山脈に沿いつつ東西および南部へ安住の地をもとめたヒトたちをアメリカンインディアンと。これは単なる呼称のちがいである。やがてメキシコ等をもやり過ごし、南米大陸はアンデス山脈の両裾を西へ東へ、あるいは南下した種族はインディオと。一万年ほど前には、マゼラン海峡を望む南米大陸の南端にまで到達したのである。
東アフリカ発、なんと六万年をかけ、果てしないほど無数の世代交代のすえに、地球の最大円周四万Kmを凌駕し、なし遂げた命がけの旅だ。
その間、大自然はまったく容赦しなかった。それでも新天地をめざしたのである。吹雪くなか断崖に落ちたヒトは数知れず。また激流にのまれたものも…。うしなった仲間に涙しつつ絶壁をこえもした、そんな無謀で過酷な、まさに大いなる旅だったのだ。
いっぽうグループCの一部が、数千年をかけ、並太平でない太平洋の荒波をものともせず舟でわたったメラネシア・ミクロネシア・ポリネシアの人々の祖先。難破・沈没をくり返したすえに、イースター島(現チリ領)にまでわたりついだのだ。
いまも海底には、子孫の繁栄を願う、先駆者たちの英霊が眠っているにちがいない。
またオーストラリアにはアボリジニが。かれらはなんと、数万年前の原始的狩猟法とその道具を今世紀にまで伝承しているのだ。
陸に、海に、命しらずの旅。総称して…グレート・ジャーニー。どれほどの困難や危険にみち溢れていたことか、そして無数の犠牲者をだしたことか、想像をこえてあまりある。
それでもやり遂げたホモ・サピエンスにたいし、ちがう呼称をつける学者もいる。
ひとつはホモ・モピリタス(移動するヒト)であり、別の名はホモ・ルーデンス(遊ぶヒト)だ。
たしかに移動するヒトであり、ちがう見方をすれば遊ぶヒトでもある。
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