さても…、彦原が企むはじめてのタイムトラベルにおいてもっとも有用となるのが、過去の地球で威力を発揮する、特殊な船外服だ。2095年最新の、彦原お手製ハイテクスーツ、である。かの007ジェームズ・ボンドならずとも、垂涎の逸品とうつるだろう。さすがの“Q”もつくれなかった代物である。
 しかし船外服の件は現時点では些細であり、また彦原が個人的に必要とする道具ゆえに、後記(ごき)とする。
 さて、船外服とは比較にならない、人類史上未曾有の実験が成功した時点での大問題の惹起を、世界企業X社CEOはすでに織りこみずみであった。
 そのための布石も、六年前、専務のときから怠りなくうっていたのである。
 ひとつは、タイムトラベルにかんする法、仮名“タイムトラベルおよび同ツアー法”の制定と施行だ。
 法案の根幹だが、“歴史を絶対に変えるなっ!”こそ、まさにその大原則であった。
 歴史を絶対に変えるなっ!が、ではなぜ大原則なのか?
 老婆心ながら、あえて端的な例で大問題点をしめそう。
 日本史上驚天動地の大事件がもしおきてなかったら?…つまり信長が、惟任日向守光秀に討たれていなければ、日本の歴史は今とは随分ちがったはず、である。
 まずは、秀吉の天下統一もそのあとの文禄・慶長の役(朝鮮出兵…たしかに、明国侵略をぶち上げた信長の受け売りではあるが)もなかったであろう。さらには、徳川幕府もできなかったはずだし、となると首都が東京ではなく、それどころか、その地名さえ江戸のままだったかも…すくなくともだ、歴史的見地から、東京への改名はあり得ないのである。
 穿(うが)つようだが、滋賀県の安土(信長が天下を安堵したあとの、軍事・政治・経済の中心地にと構想した要衝の地。そこに巨大な安土城とその城下町を構築しつつあった)がその地名を冠していたというのはどうか、等々。
 そうなると、日本史の教科書の記載内容をのぞいてみたい、なんて気持ちになる。
 そんなこんなで、この、人類がはじめて経験する大きすぎる課題にたいし、当事者である巨大企業X社の首脳として、現CEOはその辣腕をすでに揮(ふる)っていた。財閥出身のかれは専務という立場のときからすでに財界の重鎮であり、行政府にたいしても大きな影響力を有していたのである。
 でもって、空前ゆえに、人類が経験したことのない課題への具体策として…。
 上記したように、まずはタイムトラベルおよび同ツアー法成立のための下準備からはじめた。
 すでに一院制になって二十年以上(2089年当時)たっていることが、X社にとって幸いした。
 2050年ごろには、アフリカにおける経済力の弱い途上国にてもすっかり定着してしまったグローバリズム。
 それにより、日々刻々情勢が変化する世界経済。端的な例として2016年、英国国民がEU離脱を選んだ十数時間後、世界は大幅な全面同時株安に陥った。
 つまり一寸先は闇なのだ。日本がもし現状に安住して変革に逡巡し、世界水準の法治国家であるための努力をおこたったならば、はげしく競いあっている多面性のなか、置いてけぼりにされるばかりでなく、各国が争うようにしてすすめているスピーディ化にもついてゆけず、ついにはマイナス成長が常態の三流国へ陥落してしまうはめに、
 そんな危機感を、じつは官民問わずいだいていたのである。
 それで憲法を改正し、総選挙のない半数改選の衆議院による一院制に因(よ)り、国会審議時間の短縮化をはかったのだった。
 政官(政治家と官僚)および財界が、そのための法整備を2051年の通常国会から本格化させた。
 憲法四十二条はもとより関連する五十九条等々の改正をめざしたが、「国会軽視であり与党の我田引水だ」と声高にさけぶ野党の反対で、結局、成立に十五年かかった。
 それ以前のことになるが、通常国会(常会)や臨時会というような会期自体を廃止し、すでに年中会期としていたのである。こちらは世論があと押しをし、五十二条、五十三条および五十四条等はなんなく改正された。
 で2089年当時のこと、代表権を有する専務は先をよんで、タイムトラベルおよび同ツアー法にかかわる国内法の整備についても、法務省の官僚に急がせたのだった。
 当然、すべては水面下で、である。
 まずは法務省内に特別チームを組ませた。三年をかけ、極秘裏に法案をつくらせたのだ。同時に整備的意味あいのの関連法案を、与党幹部にはたらきかけ可決成立の準備をさせておいたのである。
 最終目標は、歴史的大実験の開始前日までに、法の制定と同日の施行をやり遂げることであった。
 ちなみにCEOは、周知期間の設定は不要と考えていた。たしかにそうだと、法案の内容をみればわかる。国民一般には当面無関係な特別法なのだ。
 また、反対理由の考えにくい法案だけに、趣旨説明から審議まで数日。それでもって採決、そういう段取りは可能とふんだ。
 そんなことよりなにより長期間の審議を設定しないのはつまり、事前の情報漏洩を絶対にさせないためである。
 PJTの正確な内容が、うわさの域をこえその一部でも露見すれば、日本国としてうける損失は計りしれないからだ。
 異例というより前代未聞の国会運営を承知のうえで、可決成立させねばと決めていた。
 本来ならば法案の各条項はまず、各小委員会か部会での集中審議ののち可決成立させ、本会議においても審議・採択・可決の段取りを踏むのだが、そんな手間を省かせたのだ。
 天下りの受け皿である巨大企業の首脳から耳打ちされた法務官僚だ、動かないはずがなかった。くわえて、主要三大政党の一部幹部にも当然はたらきかけたのだった。
 官僚たちは議員にも政党にも常々恩を売っているので、反発する議員も党も存在しないとふんでいた。
 むろん、法制化を急がせたのは、国益のためであった。
 くどいようだが、X社から、あるいは法務省の官僚や国会議員からであれ、今もしこれら秘密裏につくった法案の内容やそれにむけての工作が一部でも漏れれば、そこからおおきく波及し、やがて国家的甚大損害を招きかねない。水面下と火急こそが必須だったのだ。    
 ところで、彦原のタイムトラベル原理を知ったのは、専務就任直後だった。
 かれはすぐさま原案づくりに着手した。そのとき、案の主旨も列記したのである。歴史をかえる極悪性と劫罰(=地獄に落ちたような苦痛を目的とした罰)の必要性を理解させるためにだ。それをもとにした法案の骨子は以下のとおりだった。
 ことに1)から3)はその性質上、超法規的手段をとらざるを得ないほどの最重要事案なのである。同時に、実験成功の前日に法令化する必要性があるのは、これら三条だった。
1)①タイムトラベルの技術やそれに類する極秘情報の一部においても漏洩したものは、その三親等までのものの、それぞれが所有する全財産を没収。(犯罪にはまったく無関係の親類縁者にとって、違法であり不当だとの至当の反対意見が、特に日弁連中心にでるであろう。だが、犯罪行為で得た巨利をかれら親戚の管理下で隠した事例も過去に数多(あまた)あったため、無茶を承知で、それでも見せしめも兼ね連帯責任制をとるのである。こんなにも不当かつ厳しい罰則のいっぽうで、いやだからこそ、巻きこまれることを恐れる親族の内部告発や情報提供を、官憲【=おおむね、検察や警察をさす】として期待できる案にしている。不当な目にあわないためのにげ道を用意しておけば、国家権力の横暴との批判を緩和できると、専務は考えた)
②内部告発者あるいは情報提供者とその二親等の親族は、当該犯罪にかんし免罪されるものとす(官憲に協力したものは、一項の連帯責任から免責される…まさににげ道である)。ただし、当該犯罪行為で得た金品は免責対象とはしない。(情報提供等は、政治警察あるいは秘密警察へ身内を売る卑劣な行為との見方もでき、さらには歴史にみる独裁国家の、弾圧や粛清を連想させるものだ。が、タイムトラベルにかんする当該極秘情報を知りえるものが三親等にいないかぎり、国民一般にはまったく無関係という法律である。ゆえに過去にあったような、法を為政者が悪用しての弾圧や粛清は起こりえない。当該極秘情報漏洩罪の適用範囲が、X社社員とX社関係者などごく一部に限定されるからだ。逆に、あきらかな虚偽の内部告発にも厳しい処罰でのぞむとした。法を悪用させないためであり、冤罪をうまない処置でもある)
③機密漏洩にたいする刑罰だが、抑止効果を期待しつつ見せしめの意味もこめて、当該犯罪者は餓死刑とする。審判が確定した日に麻酔をしないままで抜歯(激痛を甘受させるとともに、舌を噛み切っての窒息死を不可能にするためだ)する。そのあと拘束衣をきせ自由を完全に奪う(ばかりでなく便の垂れ流しによる恥辱と悪臭で人間の尊厳すら蹂躙し、精神面を破壊する。ナチスドイツが人格破壊目的で人体実験をした強制収容所での精神的拷問の亜流として)。また、しだいに体力が弱っていくなか、生命を維持できるていどの量のビタミン類にくわえ、ミネラルや糖分・必須アミノ酸入りの飲料水だけは与える。(意識明瞭のまま飢餓で苦しませ、確実にすすむ餓死への恐怖を致死までの約一・二カ月間強要するためである。非人道的残酷さでもって、罪の重さを本人にも社会にも知らしめることを目的とする過酷刑だ。「残忍をこえ、もはや暴虐だ」との批判、たしかに沸騰するであろう。だが、歴史変更という、それが巻きおこす計りしれない事態を考えれば、いたしかないと世論もやがて、容認するであろうと、法案作成に従事したものとしては期待するのみならずそう信じてもいる。ときにこれらは、2063年施行のスパイ防止法のその最高刑である死刑を踏襲した量刑である。したがって)
④当該法令施行前の機密漏洩であっても最高刑に処し、減刑の考慮はしない。(くどいが、スパイ防止法よりも残酷刑にするのは、歴史の変更が大罪中の大罪だからである)
2)①タイムトラベルの技術やそれに類するすべての機密情報を所有するX社は、情報漏洩を完全に防止するための最大最適の処置を常にとらねばならない。
②当該技術を知りうるもの(以後は乙と表記)には守秘義務(当然、家族にたいしても適用)を課し、乙の存命中は当該義務の消滅はしないものとする。つまり乙が立場の変化(離職や定年退職等)をした場合でも、違反者は最高刑に処す。
③秘密確保のための監視を乙にたいしほどこす必要性が発生した場合、事前にX社役員の過半数の賛同を要し、管轄の裁判所にその旨を書面で提出、裁判所の許可を得なければならない。
④X社設置の漏洩防止装置等の監視・管理および保守・点検等にあたっては、第三者機関がおこなうものとす(X社が、それらへの怠慢等や自社に都合のよい処置をとらせないため)。
⑤乙が存命中、なんらかの手段で当該情報を残し、その後乙が死亡したのち、情報を他者が取得した場合、X社にその旨をすみやかに報告しなければならない。当該義務をおこたった場合、終身禁固刑に処す。また、故意、瑕疵(=ミス)にかかわらず漏洩させ、もしくは当該情報を流用したものは最高刑に処す。それで利益を得たものがたとえ善意の第三者であったとしても、最高刑に処す。
3)①乙のヘッドハンティング防止のため、X社にたいする義務づけも厳格にする。義務を負う執行役員以上の管理怠慢は十五年以下の懲役刑に処す。
②同社は乙個々に、国を愛すること・会社を守ること・日本国民としての誇りをもつ等の教育(いわば矜持教育)を徹底する義務を負う。国益を守り、極秘情報遵守のための教育である。
③タイムトラベルの研究者および専従者への俸給をはじめとする待遇は、これを半期ごとに労使双方の個々の話しあいにより査定し、双方納得のいく結果をみなければならない。不調の場合は代理人により交渉を完了させるものとする。不満を懐かせないためである。
④乙の離職や定年退職後の再就職は、(監視する必要上)X社の子会社や関連会社のみとする。
⑤乙による出版等またはメディアやSNS等の利用について、X社で得た先端知識やそれにかんする情報の流用は守秘義務違反とす。違反者は、違反内容に応じ、懲役二十年以上とす。
4)タイムトラベル船の設計ならびに航行の安全等において、X社の企画に違反したものは最高刑として終身刑に処す。具体的には①船体面はステルスにし、そのうえで地上では透明装置により不可視にしておかなければならない(過去の人間に、宇宙船の存在を認識させてはならないからだ)。
②タイムトラベル船の乗客・乗員の生命を最優先とする安全航行について、装置・機器のトラブル発生時や目的の時・空間と異なった場合の管制センターへの通知法(ワームホール突入直前に信号を送ることで、管制センターは誤った時・空間である航行先を知ることができる)、ならびに救助方法など詳細な規定を設けることとする(一例。万が一のため、タイムトラベル船は、救助専用船をつねに帯同しつつ航行しなければならない。ワームホール自在作出装置搭載を義務づけた救助専用船には強力なトラクタービームの設備も義務づける。トラクタービームとは牽引光線であり、いわば、港湾内において大型船舶の牽引や誘導をするタグボートのロープの役割を果たすものである)。
5)①(厳しい法的規制をうけるのは当然で、そのかわりとして)過去にいくことを法で許可されるのは、X社が開催する歴史探訪ツアーを唯一とする(二十世紀の日本に存在した専売公社がモデルである。タイムトラベルの完全なる管理手段として一社に絞りこみ、自由競争はこれを認めないとの立場をとる。X社のタイムトラベル技術流出の効果を無意味にするためだ。自由競争は認めなければ、盗む意味がなくなる)。また、海外への流出を防ぐため、タイムトラベルにかんするいかなる情報であれ、社外へ送信を試みる場合、半時間ごとに自動的に変化するコードを解読できないと、情報が消去されるセキュリティシステムを採用する。
②歴史探訪ツアーを許可する時期は、完璧な意味でのタイムトラベルが可能(ワームホール自在作出装置の完成)となってからとす。
③X社は、歴史探訪ツアー中の乗客・乗員に歴史変更をさせない万全の処置をとらねばならない。実験航行の段階においても、X社は同様の処置をとるものとする。
 そこで問題となるのが“歴史探訪ツアー”の運営方法だ。
 現CEOは四年ほど前だったが、以下の原案を専務にのみ示したのである。その前日すでに、代表権のない会長や二人の副社長、ほかの役員からも一任を取りつけていた。
 CEOの辣腕に、役員の数だけをたのみに対抗してもムダだと。かれらに味方する株数が、CEO指示をうわまわる見こみはほぼ皆無で、よって、いわば長いものには巻かれろ状態であった。
 彼は孫正義や松下幸之助のような創業者ではないが、実力も内外からの信頼も絶大であった。私利には動かないという、経営者以前に、ひととしての美学を保ちつづけているためであろう。
 株主総会も毎年、しゃんしゃん(=議題がつつがなく採択されること)で終了している。筆頭株主である政府からは水面下で全面白紙委任を受けており、のみならず、年二回の配当が高利率であるため、一般株主たちの反対意見がでることも一度もなかったからである。
 で、歴史探訪ツアー客はというと、基本的には数~数十メートルの地上より眼下にひろがる時代を、つまり真実の歴史を目の当たりにできるのだ。
 さらには歴史探訪の現場に、船外設置の数機の超小型空中飛行カメラを送りこみ、船内の巨大な360°(全方位)スクリーンに映し出されるそれらの3D映像と生の音声をも堪能できる。しかも、バーチャルリアリティ(=仮想現実)も併用することで、触覚も楽しめる施設となっている。
 具体例として。
 不明だからこそいまだ論争の的である邪馬台国の所在地はもちろんのこと、卑弥呼の容姿やファッションも、本能寺の変をふくむ前後の謎(惟任光秀謀叛の真相や秀吉の中国大返しの真実)も、関ヶ原の合戦俯瞰も合戦にまつわる数々の謎(小早川等の裏切りや徳川秀忠勢38000の家康本陣への遅参【1585年第一次上田合戦で徳川勢に辛酸を舐めさせ煮え湯をのませた真田昌幸・信繁親子の首を手土産にすることで、父家康に認められたかった】等)も。さらにはクレオパトラ七世の美貌のほどやピラミッド建造風景も、ナスカの地上絵をだれがなんの目的で描いたのかも。挙げたらキリがないがそのほか、歴史上の謎のすべてを居ながらにして、しかも尋常でない臨場感をあじわいつつ見知できる、をあげた。
 一点の疑いもない真実をしかも安全に目撃できる、そういうツアーなのだ。
6)映像と音声にかんし、戦場などでの殺戮の生々しい場面や倫理上問題のある場面にはボカシをいれ、局所的消音処置もほどこす、等の規制をくわえるものとする。方法として、カメラから転送された映像と音声は、規制装置をとおさなければ放映を許さない。そのさいのタイムラグは0・1秒未満とする。また、これは当然のことだが、規制をくわえる必要のないものはそのまま流す方式とする。規制対象については、詳細に明記しておく。
7)①宇宙船内にとどまったままでの“歴史探訪ツアー”でなければならない。“歴史を絶対に変えさせない”ため、地上には降りたたせないということだ。たとえ国が許可した歴史研究の学者であろうとも、同様に降りたてない。採掘等の学術的作業は、いわゆるロボットが許可されたプログラムにしたがって行ない、歴史を変えさせることはさせない。
②宇宙船は下界と完全に断絶し、船内から声を流すことも紙一枚おとすこともできない仕組みに設計しなければならない。歴史上の人物になにかを教えるだけでも、歴史は容易に変わってしまうからだ。たとえば、戦死者約1600万人を出した第一次世界大戦の原因となった1914年六月二十八日の事件、オーストリア・ハンガリー帝国皇帝の甥で王位継承者夫妻暗殺だが、もし暗殺者の存在を示唆するメモを歴史ツアー客が船上から投下したら、テロリストは事前に逮捕され暗殺は未遂となり…、大戦の原因が消滅したのだから、あとは言わずもがなであろう。
③とはいっても、彦原チームが取りくんでいる二隻の実験船のみは、土や空気を採取するなど船外活動が可能な設計となっている。だが実験終了と同時に、この七条の法令に違反しない船体へと改良をくわえるものとする。
④例外として、超小型空中飛行カメラや空気・水・土等採集専用ロボットの船外作業は、この法に抵触しないものとす。歴史変更を目的とはしていないからで、よって、歴史変更を可能にすることのない処置をほどこした機器のみに使用許可をあたえるものとする。
 ときに、4)から7)は必要に応じ、随時法制化していけばいい、そう考えている。

 …さて、このように重要な法の審議と制定にもかかわらず、国会でだれも問題にしないだろうと、CEOが個人的に嘆かわしく思うことがある。
 それは一般国民との関係が希薄な法だけに、国民は当然ながら、議員も管轄官庁外の官僚も国民うけしないと判断するマスコミすらも関心を示さないにちがいないからだ。
 国会を例にあげると、応答する大臣や官僚はもちろん、質問する議員も票や評価につながらないと考える事由による。絶対に必要な法律ではあるのだが、国民との距離は、そう、宇宙のかなたの星以上にありすぎる。
 また、議員は当然、課長以上の官僚の事績までが情報開示される当今においては、人気投票的気分で議員の当落、あるいは官僚の出世が決まってしまうのだ。議場はさながら、パフォーマンスショーの舞台と化してしまっていた。だから不人気な事案にはかかわりたくないというのが本音なのだ。
 それを、識者も良識的な政治意識を有する賢明な国民も、悪弊として問題にしているくらいなのだが。
 
 ところで、法制化の件はCEOの手を離れつつあるので、これ以上の子細はおいておくとして、世界有数の大企業のCEOが立場上問題にするもうひとつが…。当然ながら、経済的側面である。
 とくに日本の景気動向には最大の関心、いや責任すらもつ立場にある。そして企業人としてはむしろ、日本の良好な景況のために貢献することのほうが重要だった。
 かけた巨費の数十倍以上の巨利をうむ一大発明であることは自明だ。どんなにエクスペンシブでも、世界中の金満家がツアー客として我さきに来日するにちがいない。そこで、申しこみ時とツアー本番の複数回か長期間の日本滞在をなかば強いる方法を考えついた。
 X社に本人が直接来社しての申しこみ以外は受けつけないと決めたことだ。
 それによって、すくなくとも二度滞在しなくてはならない。あるいは申しこみ時から実体験までの長期滞在ともなれば、そこでまず、日本の観光産業を潤わせることができる。さらに日本製品の顧客とすることにもつながり、“おもてなしの心”で、日本びいきの外国人を生みだす民間外交としての意義ももたせられる。
 国益そのものとなる展望がはてしなく広がるのだ。
 残る最大の問題は、この巨大利権を国家・国民のために守りぬくことである。
それには海外諸国をある時期まで騙して、日本だけの利権として承認させねばならないということだ。むろん、難事中の難事である。
 がそのために、WTO(世界貿易機関)における条約締結に向け、CEOがまだ専務だった六年前からこちらも関係官庁に働きかけていたのだった。とはいえ国内外にたいし、手のうちをさらすようなマネはしなかった。換言すれば、タイムトラベルのTの字すら、おくびにも出さなかったということだ。
 長年の懸案だった新多角的貿易交渉におけるグローバル条約締結がオーストリアのウイーンでなされたあと、ようやく世界経済はその垣根を取っぱらったのである。そんな状況下で、本来の目的をかくしつつ、国際間で協調しあえる条約締結を専務は目論んだのだった。
 ちなみに、国際間の貿易完全自由化が取りきめられてから三年後のグローバル経済は、2093年九月に大きな転換期をむかえていた。通貨が世界統一されたことだ。おかげでもはや、通貨危機そのもの自体はなくなっていた。
 ところで、経済のグローバル化ができあがり通貨の世界統一化がなされたからといって、他国によるX社株の大量買い占めや買収工作(敵対的M&Aならば最悪)など、不安要素が解消されたわけでは、もちろんない。否、その逆だ。
 じじつ、利益をあげている、あるいは今後期待できるとされる企業の経営陣は、買収にたいし戦々恐々の日々を過ごしていたのである。だから、X社が日本政府の34%出資でできた会社だとはいっても、一寸先、なにが起こるかわからない。
 巨大マネーをあやつる投資家やヘッジファンドの連中が、勤労の一滴の汗もながすことなく指先ひとつや口先ひとつで生き馬の目を抜く荒技は、前世期末からすでに茶飯事なのである。
 外務省と経産省などはその防止策に大わらわ、となった。しかし学業は優秀であっても、知恵をはたらかせ有効な手だてを編みだす能力はカラッきし(天下りなど保身術にかけては天才ダ・ヴィンチも脱帽の創造力と悪知恵を案出するのだが)、国民・国家のどちらにとっても役立たずのまさに烏合の衆で、屁のツッパリにもならない輩だと専務は見ぬいていた。
 そこで機が熟したとみて、五年半前からの懸案事項を解決すべく国家的特殊法人等保護条約案を起草するいっぽう、関係各省庁に知恵をさずけた。(ただしその詳細は、機密保護法に抵触するゆえに省く)
 ところでこの、国家的特殊法人等保護条約案だが、国連海洋法条約(正式名称は海洋法に関する国際連合条約)に基づいた海洋・海底資源等や漁業における排他的経済水域をもとに発想したものだった。排他的経済水域のように、国家的特殊法人や経済的国際特許の排他領域、または保護や不可侵を認めあうという、国際間の条約案である。
 そういえば、グローバル化が定着して数十年、関税が世界経済の発展に足かせとなっていた過去への反省から、各国が努力と協調で、国際的貿易完全自由化をおし進めてきたのだった。
 それだけに、たしかに逆行する条約ではある。
 だが、各国にもそれぞれ事情や思惑、そして利害があり、貿易完全自由化は行きすぎとの批判や是正を望む声が各国政府に根強く残っている状態であった。
 じじつ、特許や著作家などの知的財産権も脅かしているサイバー攻撃(政治・軍事面でのスパイ行為としても利用する、中国や北朝鮮による相変わらずのお家芸)などの国際的問題だが、枚挙に暇がないというのが実状だ。
 この許されざるサイバー攻撃には、各国あるいは各組織が有効な対抗策でのぞまねばならない。ちなみにX社は独自の万全な対策をほどこしているので、これにたいしても、なんの憂いも感じていない。
 しかしながら、社外におけるセキュリティは別だ。それで、充実すべく手をうったのだった。
 知的財産権への脅威たるその主原因が、ひと・情報・もの・カネの流通にボーダーがなく、また規制もないぶん、<悪貨は良貨を駆逐する(もとは経済学グレシャムの法則だが、悪がはびこると善良を破壊するの意)>のたとえではないが、完全自由化の悪用による弊害が、あらたに国家間の軋轢(あつれき)の原因となった。そのせいで弊害が顕著化しだしたからだ。
 そこで知的財産権を多く所有する経済大国(とくに米・日・独・英・仏・印)の間でだが、自国益のために保護しておきたい分野の、その防衛権を主張しはじめたのだった。
 それを、役員会で次期CEOに内定したばかりの専務が絶好のチャンスととらえ、国連での条約締結にむけ関係省庁にうごくよう促したのだ。国連に多大な資金提供をする上記六カ国などの巨大企業と各政府に、まず働きかけさせたのである。
 つぎに、日本が援助する百を超える途上国にたいしても、それぞれ基軸と考える独自の産業や得意方面の貿易黒字を見こめる分野の保護・育成をするためとして、途上国各政府に賛成票を投じるよう水面下で説いてまわらせたのだ。
 それらの工作が功を奏し、現CEOがえがいた図式で、国連を舞台にようやく条約発効とあいなったしだいである。
 こうしてCEOの、“タイムトラベルツアー法”制定と国連における国際条約締結の下準備といおうかお膳だての、長年の労は報いられ、…るはずだった。肩の荷をおろし、ドン・ペリニヨン・プラチナで祝杯となる……はずであった。だが、
 そんなムードなど、木端微塵となって吹っ飛ぶ大事件が……、
 既述したごとく、やがて起こるのである。
 ところで、現時点では、まだ法制定はされていない。つまり、“歴史を絶対に変えるなっ!”は、いまは仮定の話であり、せいぜい観念や概念でしかないのだ。
=歴史を絶対に変えるなっ!が、なんぼのもんじゃい!=ふだんの温和な彦原らしくない考えを、かれは髣髴(ほうふつ)した。黙殺すればもはや無いにひとしいとの、ムチャクチャな想念だ。
 それにしても、らしくない乱暴な考え。だが理由はもちろんあった。企てている前代未聞の恐ろしい犯罪行為にたいし、本来のかれならばそれを自身が絶対に許さないし、考えるだけでも自己嫌悪に苛まれると確信していた。
 法の有無以前、人倫に悖(もと)るからだ。
 しかしながらそんな優等生君では、目的の完遂などおぼつかない。決起の直前に、心身に異常をきたす恐れさえあるからだ。だからこそ、ふだんとはちがう自分を演じることで、本来の自分をおし殺そうとしたのだろう。
 すくなくとも、二人の真逆な彦原を戦わせることで、生来、人倫に厳格な茂樹という、計画遂行の妨害者のパワーを削ぐしかない、そうきめたのだった。
 ジキル博士をハイド氏の悪の力で抑えこもうというのである。
 甚大無比な犠牲のすべては、壮大な大義のためだと。