悲嘆にくれても、ふたりがそれを喜ぶどころか悲しむだけで、また「わたしが駅に迎えにいっていれば」との悔いや怨嗟に身もだえをしてもなにも生まれない、それが現実だとも。
悲嘆にくれても、ふたりがそれを喜ぶどころか悲しむだけで、また「わたしが駅に迎えにいっていれば」との悔いや怨嗟に身もだえをしてもなにも生まれない、それが現実だとも。
ここで、誤解を招かないためにひとつ。
ここで、誤解を招かないためにひとつ。
こどもが一人きりではなく、複数人数であったとしても、亡くなった子への悲嘆が薄らぐものでは決してない。こどもはまだ他にもいるから、なんておもえるはずもない。
それが、なにものにも代えがたい存在以上だったのに…。
たしかに、外ではほとんど飲まなくなったわけだが、いまにしておもえば母でもあった妻を、ありったけの存在で労わりたかったのだと。もっといえば、溢れんばかりの愛情表現でもあったのだと。
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