藍出が概説しだしたその事件は、2013年十月二十日の日曜日早朝に起きていた。(ここでは時系列に沿うことなく、後日談等も併せて記すこととなる)
死ぬには早すぎる、二十八歳の女性が窒息死したのだ。経験することなどごく稀な、特殊な事情のせいで恋愛経験のない、ゆえに未婚のままの、儚すぎる横死であった。しつこいようだが、あまりに気の毒な突然死だったのである。
さて、その日のうちに犯人逮捕がなされたという意味では、単純な殺人事件といえよう。
だが、動機の点での不可思議さを完全には払拭できないままそれでも送検し、大阪府警察としては捜査本部を早々に解散してしまった。なぜなら殺害事実の証拠は充分だったし、何より、自首してきたうえに自白にも矛盾はなかったからである。送検は当然であった。
ただし親が我が子を、愛娘をむざむざ殺したのだ(しかも今小町と評判の“沢尻エリカ”似の美形を)。たとえ天地が逆転したとしても、子殺しなど、人としてできることではない。これがごく普通の感覚だ。にもかかわらず…事は起きてしまった。それで二親は、再起不能者のようにただ打ちひしがれていたのである。
そんな哀れな姿を見るにつけ、また死因や殺害方法において検死解剖と矛盾しない自白を信じるならば、殺意はなかったと認めざるを得ない。見方によれば、はずみであった、いわゆる過失致死であろうと。第三者の立場で思えば、強迫観念から、両親は一種の心神耗弱状態に陥ったのであり、つい魔がさした、そうとしか説明のしようがない、となる。
だが別の視点の傍目八目(おかめはちもく)は、こんな事態が起きたこと自体、やはり理解に苦しむに違いない。動機が不可思議なゆえんはここにある。否、殺害に、動機の欠片もなかったのである。殺害事実は信じがたいことだが、供述通りある儀式の結果とするしか見様がなかった。
裁判では、しかしこれを過失と認めるだろうか。また、果たして真実はどうだったのかと、特に第一審で審理する裁判員たちは悩むに違いない。
はたまた両親はいかなる心裡で、拷問まがいの沙汰に及んだのかとも。
藍出は自分の仕事ではないが、今後の推移に気をはせながらこの事件の話を進めた。
ところで、通報を受け臨場した検視担当官は、死体の全身が、とは身体はもちろん髪の毛もそして着衣も含むという意味だが、ぐっしょりと濡れていたことにまず首を傾げた。現場は海浜や湖畔どころか、(規模的には比較にならない)風呂場ですらなかった。溺死する状況にはなかったからだ。ただし窒息が死因で間違いない。眼瞼や口腔粘膜などには溢血点、わかりやすくいえば微小な出血斑が発現していたゆえにだ。これらは窒息死体にみられる顕著な特徴で間違いない。一方、縊死・扼殺・絞殺のどれとも違っていた。首まわりに索条(ロープなどの凶器)痕や指などによる圧痕等がなかったからだ。つまり、これという決定的な死因を究明できないままの検視となったのである。
捜査員たちは、遺体の身元とその経歴も当然調べあげた。氏名は樫木伊沙子。
……そして驚いた。八年前に一人の女性を殺害していたのである。傷害致死罪で、五年の懲役刑を言い渡された、元陸上自衛隊員であった。半年の残刑期のまま刑法第二十八条により仮釈放を許され、一旦は実家に戻ったのである。だがその直後、どこへとも告げず、奥の間の金庫にあった四十二万円とともに姿を消したとのことだった。
普通なら一時の失踪、である。だが彼女の場合は、違法行為なのだ。と同時に、これがこの不幸な女性の人生において二重の意味で、問題の行動となってしまったのである。
ひとつは…、両親が愛娘の中に、魔物が棲みついているとの判断をくだす大きな原因となったこと。さらには、一カ月の出奔の間に伊沙子自身が為したる行為自体。
だがこれは、今の段階ではまだ何も明らかになっていないので、後述となる。
ちなみに五年の実刑…最高裁が大阪高裁判決を支持し、確定した刑期であった。
仮釈放中の身であったにもかかわらず、神道系のある宗教法人の代表などを務める両親にも自らの逐電後の居場所や目的を告げず、違法行為と知りながら行方をくらましたのには、彼女なりの一大理由があった。出所後すぐに、なさなければならない件を片づける、がそれだ。遂行のため、獄中にあって完璧と伊沙子には思えたある計画を練りに練っていたのである。――早くやり遂げたい――そのために、模範囚で日々努めたのだった。
伊沙子は、出奔後一カ月でまた両親のもとに戻ったのだが、それは懸案事項を、ようやく遂行したからだった。七年と七カ月、長かった積年の念願が晴れて叶い、有り体にいえば、想い残すことはなくなっていたのである。
おかげで?なのか、心には大きな穴が逆に、ポッカリと空いてしまった。
いや、この表現は正確ではない。深い陥穽(かんせい)に落ちこみ、自身、闇黒に立ちすくんだまま何もする気が起きず、閉塞のままただぽつねんとしていたのだった。生きるよすがの欠落、生き甲斐の喪失、つまり、生きていくこれからの意味を完全に見失ってしまったのである。
そんなふうになる一カ月前、たった一人の愛娘の約七年半ぶりの帰宅を、両親は涙ながらにうち震えて喜び合う、はずであった。今度は、刑務所での接見ではない。制限を受けないどころか、抱き合うことだってできるのだ。幸せに満ちた団欒を囲めるのである。
それなのに無念にも、娘の仮釈放直後の帰宅時間帯が、宗教法人の代表としての仕事と重なってしまったのだ。だからといって、当信仰が信者にとって霊験あらたかだと講釈をする定例儀式の会を延期することはできない。それで、出所の手続きと迎えや付添い等を、このあと半年間観察に当たる保護司にお任せしたのである。
儀式に相応の衣装をまとった夫妻が揃ってこそ信者にありがたみを提供できるとして、いつものとおり二親は本殿にいた。娘が殺人犯となったせいで激減した信者を確保、さらには増やすべく日々信者獲得に専念しなければならなかった、からだ。
だがその日、実際には、彼女は一時間も家にいなかった。それで、喜び合う暇(いとま)などなかったのである。いや、彼女の中にそんな気は微塵もなかった。そのときの伊沙子には、計画の完遂こそが全てだったのだから。
一方、七年半ぶりの帰宅直後の出奔など「まさか?!」の両親は、本殿での信者との対面中も心は娘の許にあった。それで、ようやく儀式を終え、刑務所での面会以来五日ぶりの再会とはいえ、今日からは親子を隔てる仕切り板などなくゆっくり話し合えると、心も軽やかに、こみ上げてくる笑顔のまま二人して娘の部屋に足を踏み入れたのである。
だがそこに、愛娘の姿はなかった。ただ机の上に、置き手紙がポツンとあるだけだった。
文面に、へたりこんでしまった母親は嘆き悲しむことも忘れ、(羽化したあとの)空蝉のようにただ呆然としていた。
父親はとにかく家中を捜しまわり、それから原付に乗ると駆けずり回るようにしてコンビニや公園などを捜索した。が、虚しく帰途につくしかなかったのである。
そのあと夫は妻を抱き支えるように励ましながら、父親として、娘の違法行為の善後策、何ができるか、何をすべきで何をしてはいけないかを主導しつつ決めていった。
翌朝、少しも心癒えぬ母親ではあったが、一人で大阪市内にある大きな興信所へ行き、捜索を依頼したのだった。父親は信者の相手をしなければならなかったのである。
さて、問題の置き手紙だが、[早ければ三週間、遅ければひと月、あるいはそれ以上掛かるかもしれないけど、用が済めばちゃんと帰ってくるから心配せんといて…]云々と認(したた)められていた。心ひきちぎられそうな親たちには、あまりに短く素っ気ない文面であった。
「用が済めば帰ってくる」とはいえ、それでも何ごとかと、あの子は何を考えているのかと、二人とも心揺らぎ慄き、その日から眠られぬ夜が続いたのである。
心配は一ヶ月間、二人にのしかかるように間断なく続いた。こういうとき人間というやつは悲しい生き物で、良いことは思いつかない。悪いことばかりの想念に、二人は押し潰されそうになってしまっていた。耐えられたのは、二人が長年連れ添いながら、人生の山も谷も力合わせて乗り越えてきた夫婦だったおかげかもしれない。もしひとりぽっちで苦悩の海原を漂っていたら、はたしてどうなっていたことか。
ところで、どれほどに痛歎を伴う心配だからといって、警察に捜索願を届け出るわけにはいかなかった。仮釈放というのはいまだ刑が執行中の状態なのだ。したがって、保護観察官か保護司による監視下の身であらねばならない。当然ながら、身柄を預かったかたちの両親(法的には身元引受人となる)に行き先を明らかにせず外出することは許されない。
まして数日以上行方をくらますなど、まさに暴挙である。いや遵守事項違反であり違法行為だ。七日未満の旅行などの場合は、保護観察官などに申告しなければならない。また、転宅や一週間以上の旅行等なら、保護観察所の長の許可を得なければならないとある。これら、更生保護法第五十条に違反すれば、ただちに仮釈放が取り消されることはまず間違いない。そればかりか、出奔先において身柄を確保されれば否応なく収監されるだけでなく、単純逃走罪により懲役一年以下の刑罰が加算されることにもなろう。
それで両親は、多すぎる別途料金を出す代わりに、私立探偵に医者の格好をさせ往診のマネをさせた。これも、二人でひねり出した善後策の一環であった。
宗教上の通常行事の都合でと日時を指定し、ひとの良い保護司はそれに合わせてくれた。地元では名代の神社の神主の依頼だったからだ。狭い範囲ではあるがいわゆる名士である。
居間に案内された保護司の前に進み出たニセ医者が言った。「じつは、刑務所で受けた心労が原因だろうと推測するのですが、昏倒し、一週間後の今朝退院したばかりなのです。当分は安静が願わしいので協力して頂きたいのですが。しかし、役目上どうしても会いたいとおっしゃるのならば会わせます。が、病状が悪化した場合、私は責任を持てません。病状悪化の責任をご両親が追及するとなるとその相手はこの私ではなく、当然あなたということに…。その辺のところ、おわかり頂けますよね」と、やんわり脅したのである。
ニセとは知らぬ医者の、面会回避要請をはねつけるには、保護司の立場は弱すぎた。法的立場をいうと、保護司法という法律により法務大臣の嘱託を受けた非常勤の国家公務員だ。さりながら実質は、無給のボランティアである。しかも、強制力のある権限を与えられているわけではない。万が一、治療費の請求や民事訴訟でも起こされた日には、割りが合わないでは済まない。時間的にも金銭面でもまる損をするかもしれないのだ。
「では、良くなったら会わせてください」と頭を下げて、保護司は辞した。
そんな伊沙子だったが、不運にも再帰宅から一週間あまりで、司法解剖にまわされる変死体となったのだ。あまりに儚く短すぎた人生。憐れな最期である。しかも、愛されている両親の手で殺害されたのだった、窒息という苦しみの深海に引きずりこまれつつ。
ところ七年半前、まだ二十歳だった彼女は素直で健気な娘であった。しかしながら思い出したくもない、唾棄にも値しないある事件の直後、その場にやってきた主治医の妻をカッタ―ナイフで殺したのだ。はずみだった。殺害の意思はなかった。だが殺人という事実が、伊沙子を伊沙子でなくしてしまった。仕事、恋愛や失恋、結婚と出産など、ごく普通に過ごせただろう若き女性の人生が百八十度方向転換したのだ。否、そんなものではない。堕ちる以外ない、それだけは確かな先の見えない人生へと完全に狂ってしまったのである。
その、唾棄にも値しないある事件とは、
逮捕後の伊沙子が私選弁護人に主張した思い出すもおぞましい蹂躙(じゅうりん)のことだ。両親は、殺人の原因になったとする娘の哀訴を事実として当然信じきった。
だが伊沙子を殺人者として審理した刑事裁判では、(最高裁判所調査官のスクリーニングを含む)三度とも彼女らの主張は認定されなかった。伊沙子の哀願を裏付けるにたる実効力のある証拠を、弁護側として提出できなかったからだ。もし立証されていれば、刑期に情状が酌量されたであろう。少なくとも、伊沙子の両親はそう信じて疑わない。
ちなみにこれは両親の全く知らないことだが、一ヶ月間の出奔の目的は、伊沙子にとっては唾棄にも値しないある事件に、けりをつけるためだったのである。
本来の、普通人の道程を一度脱線した彼女の人生は、次第次第に常軌から逸脱し、短期間でついに奈落の底に堕してしまった。だが、ある事件の存在を“最後の審判”の中で事実として認定されていれば、仮釈放後における“罪と罰”はなかったに違いない。
それは、この両親も同じであった。滝行による悪魔祓いと称した愚行で、娘を殺す最悪にまでは突き進まずにすんだはずである。
憐れにも、善かれと信じて為した結果、彼らが陥った無間地獄。そして…、
遡(さかのぼ)って、その端緒となった七年半前の殺人事件。…概要はこうだ。
いずれは婿養子を迎え神官に据えねばならないが、それまでは自由を謳歌してよいと両親の許可を得た伊沙子。高校卒業後、大学入学を選択せず、志願して陸上自衛隊に入隊し、そして二年がたった。しかし相当な腕前となった射撃を含む毎日のハードな訓練と男女格差の人間関係に、心労は深まっていった。それで二週間の休暇願を出し駐屯地を離れた。
そのじつ、女優沢尻エリカ似の明眸皓歯ゆえに受けたセクハラであった。彼女の場合、心安らぐ実家に近い心療内科の滝本クリニックにかかったのは必然である。
通院三日目、彼女はその日の最後の患者だった。被告側が主張する忌むべきある事件は、診察中に起きたというのである。
そんな、診察室での異変に気づいた滝本医師の妻は、上層階にある住居の台所から駆けつけた。そして患者が「卑劣な行為をされた」と主張するのを遮り、ただちに夫を庇い伊沙子を口汚くあなずり、罵声を浴びせかけたのだ。行為を事件としてもし認めれば、クリニックの信用は失墜してしまうではないか。妻として、それをなによりも恐れたのである。
一方、背徳どころか、全く身に覚えのない不当な蔑みを同妻からも受けた伊沙子。さらには仕事がらみで大きな精神的損傷に苦しんでいただけに、図らずも憤怒が彼女を支配した。当然のごとく激しい揉み合いとなった。途中、滝本医師が止めに入ったが騒ぎは収まらなかった。まずは椅子が倒され、診療室のドクター用デスクが大きく揺れ、常備の筆立ても倒れた。中身がバラけカッターナイフが伊沙子の足元に落ちたのである。
それを反射的に拾うと罵倒を繰り返す夫人を黙らせるべく、思わずナイフを構えかけた。その姿に妻がむしゃぶりつくようにして挑みかかってきたので、もう、無我夢中になった。ナイフはあくまでも威嚇のためであって被告人に殺意がなかったぶん、妻の強硬な態度に対し、逆に恐怖を感じたのである。こうして揉み合ううちに互いがさらに興奮し、自己防衛および闘争本能だけが露わになってしまった。理性を喪失していた伊沙子は逆上のまま、敵の頸動脈を切り裂いたのである。この目を覆う惨事は、一瞬の出来事であった。
それから一カ月半後の公判において弁護人は、「殺意どころか危害を加える気も全くなかった」と繰り返し、概ね以下のごとく主張したのである。「ゆえに、過失致死が至当である」また弁護側の医師による精神鑑定の結果、当時は心神耗弱状態にあったとも。「この点も情状酌量頂きたい。ところで裁判長、何より滝本医師の手による事件の事実ですが、どうか深慮につぐ深慮をお願い申し上げます」むろん弁護人は、上記の卑劣な事件については時間を割いて徹底した弁論=意見陳述を繰り広げたのである(だが今は省略する)。「とはいえ、最悪の不幸な事態を招いてしまい、今は深く反省しています」との弁も忘れなかった。
被告側は起訴から二年半弱、逆転を信じ最高裁まで争った。しかし弁護側の意見は、反省の点以外ほとんど入れられなかったのである。こうして、懲役五年が確定してしまった。
服役から四年半、ようやく、仮釈放で実家の玄関をくぐったのだ。が、このときの滞在は、既述したとおり約一時間だけであった。
それから一カ月後の夜。両親は置き手紙に記されたこの日を、一日千秋で待ちに待っていた。帰ってくるのか、いや、なにがなんでも帰ってきてほしい。しかし…。
この煩悶だが実は、一週間以上前から繰り返し襲ってきていたのだった。ひとつには、興信所に依頼した捜索だが、伊沙子の居所は雲を掴むようで杳としてわからない、そう報告が来ていたことにもよる。姿をくらました手練(てだれ)、まるでプロのように鮮やかで、手を尽くしても(とは興信所の言い訳か)結局見つけることができなかったからだ。見つかっていれば、結果は違ったものとなったかもしれない。もしそうならばとて、残念の極みだ。
だがそれはおいておく。
苦衷の因はまだあったのである。何度も読み返した手紙。用事を済ませ、早ければ三週間で帰宅ができるともとれる内容だった。親なればこその、愛娘の無事な帰宅を当然期待した。しかし一日一日の、過ぎてしまってはとてつもなく長く感じる次の二十四時間。気がおかしくなりそうだった。それを、手を取りあうようにして耐え忍び続けたのである。
そんな、期待と不安が入り混じるなか、二人の、心がねじ切れるくらいの苦悶を知ってか知らずか、
「ただいま」
何ごともなかったかのように帰宅した娘の素(す)の顔に、母親は図らずも、「長かった七年と七カ月。やっと帰ってきたと思たらすぐおらんようになって!あんた、いったい今までどこに行ってたん!」きつい口調でなじったのである。刹那、心配のあまり落ち窪んだ目からは、涙がほろりこぼれ落ちた。「…けど、ほんま良かった、無事な顔見れて」愛娘の、再度の帰宅に心底安堵したあと伊沙子を抱きしめた。そのままで「お父さんもやけど、ほんまに眠られんくらい心配したんやし」今度は、恨み事がつい口をついて出てしまったのだ。
事実、“殺人事件発生”とのTV報道がなされるたびごとに、両親は、“まさか、伊沙子が被害者では”との不安に襲われ、違うとわかるまでは息ができなくなっていたのだった。
ところが伊沙子は無表情、突っ立ったままハグを返すこともしないで、「子供やないんやし、心配せんでもええと手紙に書いてたやんか。それに、見てのとおり元気いっぱいやし。もうええやろ、けどこう見えて私、けっこう疲れてんねん。寝るわ」親の心配など全く気にしているふうではなかった。顔は伊沙子のままなれど心はまるで別人の、ようだった。
七年と七カ月の離間が、二親をして信じがたい残酷を思い知らしめることとなった。
「以前の伊沙子なら、心配かけたことには素直に詫びてたのに…。あんた、ほんまに変わってしもて」七年半超の歳月と娘を弄した事件が、こうも伊沙子を豹変させたかと恨めしく、また二つの事件がもたらした結果があまりに痛酷で、思わず涙が溢れてきたのだった。
父親とて同感だった。しかしながら二人の様子を黙って見ているうちに、ある考えが頭をもたげたのである。産まれ落ちた家系のゆえに彼は、神官の色に五臓までが染まっていたからだった。それでも――悪魔に憑かれたに違いない。それ以外に、あんだけ健気やったこの子がこんな風になるはずない!まして人をあやめてしまうなど…――との嘆きで留めておけば悲惨を見ることなく、そして何事もなくして済んだのだが、――そやっ!悪魔祓いすればええんや――と腹を決めてしまったのである。
だが、常人からみれば、この不可思議にすぎる決断。父親の精神も、すでに常軌からはずれ始めていたのだろう。眠れずにあれだけ苦しんだのだから、異状に堕してしまっても不思議はなかった。――神の霊験にすがれば、元の伊沙子が蘇るはずや――
この発想、まともとは、常人にはとても思えないが、あるいは合理性を欠く教義にどっぷり浸かった日常を過ごしてきたせいか、愛娘の人格変貌を正体不明な悪魔のせいにしてしまったのである。
自分で自分を制御できないという苦悩に喘いでいる娘の真情を、慮(おもんばか)らなかったのだ。
それゆえに、やがての不幸な結末を迎えてしまうことに…。
翌朝から娘に“滝行”を施し、その霊力でもって悪魔を退散させることにしたのである。「ええ子やった。あんなことをする子やなかった」だから必要なんだと、母親にも協力を強いたのだった。結局、性格の悪変や殺害行動自体を悪魔の仕儀として転嫁し、説諭や訓導という父親の、愛情と忍耐とを要する本来の責務から逃避してしまったのだ。
ところでこの父親、一途に娘を想う人物ではなかった。先祖から譲り受けた宗教法人の代表としての顔も、折りにふれ、のぞかせていたのである。約七年八カ月前(起訴まで一カ月半を要した)、娘が殺人を犯したおかげで、代々の宗教法人は大打撃を受けていたのだ。
それを、年月をかけて失地回復に努め、信者数をピーク時の三分の一にまで戻し、ようやく復元の途に就いたところであった。
父親は、今が一番の勝負所と心中、秘していた。――伊沙子を元の、出来の良かった娘へと蘇生させ、見事に社会復帰させたる!――それによって宗教法人の威信を取り戻し、霊験あらたかと逆転攻勢に打って出、信者数の拡大を図るつもりなのだ。滝行実施はむろん、愛情の発露ではあった。だが、野望のために強いる親と子の苦行でもあったのである。
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