いっぽう、たんなる通行人のひとりとなることができた被疑者は、なにも恐れなくてすむ。むしろ、素顔だからこそ安心できたのだ。

ふつうなら、被疑者の素顔が報道により知れわたった、世間でよくある事件と、今回はあきらかにちがった特色をもっていた。

「ずいぶん前のことだし、記憶にないですね」そうとぼけたのは、連続殺人犯に、心境の変化がおおきくなったからだった。

 この急変に、「おい」と、和田は机のひとつも叩きたくなった。そのうえで、「トイレのドアなどに指紋をつけないよう、ゴム手袋でもして、出っ歯やつけボクロをはずしたのだろう」と言ってやりたかったのである。

しかし証拠がないいじょう、たんなる憶測でしかない。この、じぶんの憤りのかたきを、敬愛する警部ならとってくれると信じ、辛抱したのだった。

「パソコンをつかってキミの変装した顔を再現し、目撃者三人にみせれば、証言をえることは可能だ。だから、今さらごまかしても意味がないだろう」

冷静な矢野のいうとおりだった。今さら逃げ隠れしてもはじまらないのである。

だが、「そうおもうんなら、まあ、好きなように作文してみれば…」なにを思ったのか、豹変したのである。

ここにきて、完敗をみとめたくないとの天の邪鬼が頭をもたげたのである。“一寸の虫にも五分の魂“ではないが、かれなりの意地もあったのだ。

 まだ、第一と第三の狙撃事件の犯人をじぶんだと証明できていないことで、こんどこそ一矢報いてやろうと、そうかんがえたのだ。それはある意味、悪あがきでしかなかったが。

――三つの爆破事件において有罪となるだろうし、必然、死刑との判決がをくだされるであろう…――。

だが、たとえそうなろうとも…できるだけ抗いたかった。せめても、自尊心を守るためであった。

警察が全精力をかたむけても証明できなかったとなれば、その点においてはじぶんの勝ちなのだ。ぎゃくに、警察は恥をかくことになる。

たったひとりを相手に、実証ができなかったとなれば、巨大組織のくせになんとだらしがないと。そこを裁判で、おもいっきり強調してやろうとかんがえたのだ。

「いままでのは、いわばひとりごと、供述のようにきこえたかもしれないが、あるいは世間ばなしの類、ですよ」可視化用のカメラにむかい、歯をむきだして笑ったのだった。