秘密保持がようやくなって百一日目の十一月十八日午前零時十九分、それは予定より二日以上早かったが、巨大な実験装置が完成したのだった。
 社が決定したのは十一月二十日午前十時であった。この日の早朝、マスコミ各社へ重大発表と称するメールを送ることに。完璧なサプライズのつもりで。
 しかしそれより二日早いこの日こそが、彦原が本来立てていた計画どおりの完成日だったのである。
 じつは彦原による、とんでもない目論見がうごめいて、社の予定日より早めたのだ。正確にいうと、彦原の実行日より公式発表日は二日遅くなるよう、かれが故意に設定したのだった。完璧なサプライズに魂消(たまげ)るのは、X社のほうであった。
 いずれにしろ、かれが少年のころ思い描いた夢を形となした、壮挙の日だったのである。
 年齢の面から類似点が多いので、あえてたとえればこうだ。十五歳の野口清作(のちの英世)が秘めていた少年(十五歳)の夢、目指しつづけた医師に苦学の末なった(二十一歳)のである。やがては、精進のかいあって細菌学の世界的権威とうたわれるまでになったのだった。後年、かれが命がけで手がけた事績(黄熱病や梅毒など細菌病原体の研究等で三度、ノーベル生理学・医学賞の候補《第一回目は三十一歳》になったほど)の数々。
 それと同じような、否、不具合な例で恐縮だが、比較にならないほどに破天荒な壮挙なのである、彦原の発明というのは。重ねていうが、まさに、空前にして絶後なのだ。
 しかし…、
 このあと、ある驚天動地の大事件のせいで、X社あげての予定していた各種祝賀行事開催は、ついに実施できなかったのである。

 それがどんな大事件だったかは、今はさておく。
 それよりまずは、彦原が少年期に発想し確立していった理論をしることこそ肝要であり先決であろう。ただし概要であるため、数式でしめすたぐいの難解な理論を期待されては困る。どこにスパイが潜入しているか、わからないのだから。
 ここで取りあげるのは、七月十六日の昼前、トイレで謎の男栗栖浩二が彦原に鎌をかけた“宇宙物理学理論を基盤とするタイムマシン”についてである。
 蛇足ながら、所謂(いわゆる)“タイムマシン”を直截(=そのものズバリ)的に創出するという理論ではない。
 ちなみに、彦原理論解明のキーワードは、“ワームホール”である。
 SF作品“スタートレック”などに出てくる言葉だ。直訳だと虫穴、意味を付加して和訳すれば“(リンゴの)虫喰い穴”となる。命名者は、米国の著名な物理学者、ジョン・アーチボルト・ホイーラーだ。1957年のこと。ちなみに、子どもでも知っている“ブラックホール”の命名(1967年のこと)者でもある。
 この“ワームホール”には、アインシュタイン・ローゼンブリッジという別名がある。
 かの“アインシュタイン”の高名を冠しているわけだ。それは一般相対性理論をおし進めてゆくと、“ワームホール”存在の可能性が垣間見えるからである。ある意味、予言といってもいい。逆からいえば、相対論抜きだと、ワームホールの理論構築はできないことになる。
 追記するならば、現代人として、アイザック・ニュートンにも感謝しなければならない。万有引力の法則に代表されるニュートン力学や微積分法と相対論がなければ、人類は宇宙に眠る資源を入手できなかった。
 二人の天才物理学者とその理論のおかげで、まずもって、二十世紀後半の人類は宇宙を目指せたのだから。
 さて、約百三十七億年前(あくまでも仮説)に、ビッグバンにより誕生したとされる現宇宙。
 この大宇宙に存在する、たとえば銀河系A宇宙の時間・空間、それとは別の時空に存在するB宇宙空間を直接繋(つな)ぐ、いわばトンネルとかバイパスのような抜け道、簡単にいえば、それがワームホールなのだ。
 つまり、自分が今いる銀河の時・空から、遥かかなたの時・空間、ということは、別の四次元(か、もしくはそれ以上)宇宙へ移動できる直通トンネルのような存在、と換言できよう。
 またワームホールの通過により、しつこいようだが、空間だけでなく時間の移動までが、結果的には光速かそれ以上で可能(詳細をしるには、相対論をはじめ宇宙物理学のマスターこそ必須)となる。
 ただし2011年九月二十三日の発表による、ニュートリノが光速より約60ナノ[一億分の六]秒速く進んだとの実験結果(いわゆる、タイムマシンの可能性を示す理論)とは、なんの関係もない。ついでながら、上記九月の実験結果は、翌年五月実施の同種実験により2012年六月八日にいたって、正式撤回がなされたのである。
 少し横道にそれたが、ゆえに、ワームホールを自在に操れるとする理論の構築こそが、“時空超え”には必須となってくる。
 以上が、タイムマシンに頼らないタイムトラベル理論のもっとも簡明な説明といえよう。
(筆者の説明が稚拙だとしても、彦原の行動により、いかなる理論かは、いずれ明らかとなろう)
 さて、彦原が四歳だった2068年に、ワームホールの存在が映像と検証により証明されたのだった。
 NASAが三十九年前の2056年に発射し、地球から二光年先の宇宙へ送りこんだ、光の5分の1の速度で航行する無人探査機サーチ6号。目標とした宇宙域に到達し、全方位スキャン(スキャンとは精密調査のこと、全方位における捕捉可能半径は約五百億km)を開始して二十二日後だった、搭載した、当時の最新式スキャナーが、突然出現したワームホールをとらえたのだ。
 その映像を地上で受信したのが、二年後の2068年七月のことであった。
 ところで、サーチ6号航行の目的位置を“二光年先の宇宙域に”と設定したのは、計算上、ワームホールの出現頻度が最も高いとスーパー量子コンピュータ京19がはじき出したからだった。
 幸運なことに、さらなる棚ぼた的新発見もあった。発現から約三十分後に、そのワームホールが宇宙に溶けこむように元の位置で消滅したときの、二年遅れ(二光年の距離の結果)で届いた映像、これが新発見その一である。くわえて、しばらくは発生位置にとどまり、移動はしない可能性が高いとの情報を得たことも。
 このふたつの、世紀の大発見のおかげで、ながい準備期間のすえに日米で一大プロジェクトが組まれた。
 地上発射が2085年から隔年にて三度、JAXA(国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構)が主体で、予算大幅削減により弱体化したNASAと共同の実験として廃品同然を含む実験機あるいは無人探査機を、ワームホール内に送りこんだPJT(プロジェクト)だ。
 三回目もとうぜんのこと無人だったが、2089年と決したのは、地球への帰還用ワームホール発生の場所と日時を予測可能とする理論構築に時間を要したためだった。三度回の実験は、映像情報だけでは用をなさず、どうしても機の帰還を必要としたからだ。
 ちなみに2085年はというとその年頭、光速航行(約300000km/毎秒という速度を維持するワープ航法)の実験機がついに完成し、ついで見事、無人航行実験が成功した年でもある。
 そのワープ航法だが、理論上可能だとのプレゼンが米某有名私立大の研究チームにより、日本時間の2077年の五月三日になされた。
 それは、ワームホールとタイムトラベルについての勉学に熱中していた天才少年が、十三歳になった誕生日でもあった。
 その三カ月後のことだ、NASAと民間非営利団体米国科学アカデミーによる合同チームが、「計算式に誤謬(ごびゅう)(=ミス)はない」と発表したのである。
 それから八年後の成功となったのだが、いまだに実用化のめどすら立てられないワームホール利用計画を揶揄(やゆ)(=からかい)しつつ、民間企業体がつくった持ち株会社(じつは、日本政府機関が株式の34%を所有)のPJTチームは自分らの宇宙航法こそ画期的だと、我田引水さながらの発表をしたのだった。
 自分たちのも、世界情勢の変化で足かけ八年を要したが、それにはふれなかった。
 さていっぽうの日米国家PJTチームは、ワームホールを利用して別時間の別宇宙空間へごく短時間で移動し、到着したその宇宙空間を、今度はワープ航法を使ってピンポイントで任意の目的点にまで光速で移動できる必要性や有用性および発展性を、根気よく説得し交渉をつづけ、ついには提携合意にこぎつけたのだった。
 その間のすったもんだは、報道されたとおりいろいろとあった。
 結局、いわば日本国が所有する株34%が、最終的にものをいったのである。まあ、そんなことはどうでもいいのだが、おかげで、ワームホール頻発領域と地球とのあいだを航行する時間が十年から二年へ、大幅短縮させられるようになったのだ。
 これにより、日米による宇宙開発の未来は洋々たるものとなった。
 さて、話を戻すとしよう。
 ワームホールへ潜入するまえに、実験機の推進力(メイン動力)をオフにした第一号機であったが、ワームホールに文字どおり吸引されるがまま呑みこまれた刹那、間髪入れず、地上への映像発信をふくむ全コンタクトが、予測したとおり二年遅れで取れなくなってしまった。まさに、《鉄砲玉の使い》のごとくになるとした理論どおりであった。
 2087年一月に実施した二回目の実験(ブーメラン計画=活用したワームホールが消滅する前に元の宇宙空間へよび戻すPJT)も成功させ、のぞんだ三度目のPJTでは二機を用意し、数十種類による生物実験をおもな目的として実施したのである。
 エサや水・肥料の供与そして光源など、実験用動植物の生命維持に必要な物質や要件の供給は、二機ともに地球出発のときからAIロボットがつかさどった。
 では、AIの主力たるコンピュータの仕事は?というと、補佐する二台をふくむ三台が船の全運航、なかんずく、ワームホールをつかった別宇宙への入りと出、出とは再度のワームホール利用を出発点とする地球への帰還全般である。二度目の実験成功があっての試みだ。
 つまり発進から帰還までの全工程を、コンピュータがすべて取りしきったのである。