誰とはなしに、いつもの居酒屋へ皆の重い、無言の足が向かった。やはりというべきか、暗い顔を突きあわせつつの苦い酒が、各人の終電まで続いたのである。
そして、翌日のデカ部屋。
皆がいまだ歯噛みするなか、藤浪だけが自分が担当し事故死扱いにした件に対し、言い出すべきかどうか迷った末、「じつは疑惑を払拭できないでいる案件があるのですが」と心情を吐露したのだった。昨夜からの、切歯扼腕の雰囲気を変えられればとの思いもあった。
「半年前の、渡辺直人の件か?」藤浪の苦闘を知っている和田が問うた。
「はい」直人の件という言葉に途端、苦い記憶が心奥から湧き出(いで)た。「当時は、事故か自死かの見解を出すよう上から早急にやぞと急かされ…」とはいえ、精一杯捜査したとの自負はあった。しかし上申した結論はというと、満足のいくものでは到底なかったのである。
「せっつかれたんやな。お前の調書を読んで、わしもそんな印象を持ったんや」和田は、数日前のことだけに、はっきり覚えていた。

藤浪は小さく肯いた。せっつかれたと認識してもらっていたことに対してか、同情されたことにだったのか。あるいは両方に向けたものであったのかもしれない。
「つまりお前は、溺死が事故だったとは言い切れない。拓子が死んだ原因を作ってしまった直人が、自分を結局は許せなくなり自殺したと」和田は、藤浪のデカとしての力量をさらに知りたくて、自分の推測とは違うことを故意に切りだした。
言われて、普段の怜悧(れいり)が戻った。「その可能性もあります。が、それなら、義理の父親から睡眠薬を処方してもらう時期がおかしいです。拓子の死の直後なら納得できるのですが」
「藤浪は、直人が自殺したんなら半年のズレの説明がつかない、そう言いたいんやな」
「むろん、そうです」少しむきになった口調だった。
「なるほど」いつの間に帰ってきたのか、笑顔で矢野も同調した。一課の別の係の警部から「相談がある」と電話が掛かってき、一時間半ほど前に席をはずしていたのだった。面談は二十分ほどだったが、相談というよりむしろ依頼であった。残りは、その依頼に関し、藤浪が作成した捜査資料に目を通すために費やしたのである。「そういえば今世間を騒がせている、射殺された病院長の遺書がつい最近になって出てきたと、事件担当の係長が今の今、教えてくれたんや」それがどう関係してくるのかは、続けなかった。ただ、「溺死は事件やった」とのみ。しかしだ、こんな唐突な発言、矢野警部には似つかわしくなかった。
「遺書?がですか。それでどんな…」今、先輩と後輩の両警部補が問題にしていた直人の溺死を事件と断定した理由が書いてあると憶測し、藍出は遺書の内容を問うたのだった。
ところで捜査一課の大半の係長が、矢野の明晰な推理力や洞察力を頼ってそれとなく情報を洩らしてくるのだ。暗に事件の謎解きを期待しているからだった。先刻も、(今日の)昼飯にうな重を奢るから話を聞いてくれと懇願されたのだ。「むろん、これから説明するが、ただしこのこと、口外してもらっては困る」と釘を刺して。
「その辺は、僕たちを信用してもらって大丈夫です」和田は小さく胸を張った。
皆も肯いた。
「もちろん、わかってる。そんなことより、もったいぶらず遺書の内容を早く教えろと、飢えた狼みたいな顔になってるで、みんな」ちょっといじわるをした。
「お願いですから焦(じ)らさないでください。直人の溺死の件とどう関わりがあるんか気になって」藍出は思わず唾を飲みこんだ。根が正直なのだ。

矢野はそんな部下たちの、「事件ならば解決せん!」と鼻息を荒くする好奇心まるだしのデカ魂を好ましくも頼もしくも思った。ズバリ「『…一人娘の彩奈に、我が全財産を残す。妻が亡くなっていれば、病院の理事長職も彩乃に就いてもらう。2013年五月九日。渡辺卓』そういう内容や」と今度はもったいぶらず、必要な個所だけを告げた。遺書がなぜ今頃になって出てきたかについては、あえて省いたのである。それでも遺書の内容から重大事を、和田や藍出なら気づくだろうし、また、藤浪の能力の試金石にもなると思慮していた。
ちなみに、遺書は、渡辺卓の高校の同級生で、現在は個人で弁護士事務所を開いている藤村某が直人死亡の前夜に院長室に呼び出され、その時預かったものだった。だが、運悪く数時間後の深夜に酔って自宅階段を転がり落ち、弁護士は昏睡状態に陥ってしまった。「覚醒したのはつい最近のことちゅうとった」それで意識が戻った翌日、渡辺卓の射殺事件を、弁護士の事務員でもある妻が担当医の許可を取ったのち、夫に知らせたのである。
すぐに、配偶者の渡辺恵子理事長に遺書が届けられ、それでようやく表に出たのだった。

概略を聞くと即、岡田以外は、別のことで驚いた。しかし驚愕にも三通りあった。
和田と藤浪は、天を仰ぐようにして驚倒したのだった。
が、天真爛漫岡田君は「その病院長には、子供はいないと週刊誌に載ってましたよ。だからすでに跡継ぎが事故死している渡辺総合病院の存続が危うい…な~んてことが書かれてました」素直に、上っ面の内容に驚いたのだ。「まあそれはいいとしても、彩奈?でしたっけ。それって隠し子ってことですかね。だとしたら誰との間にいつできた子供でしょうか?」事件解決とは無関係である。芸能リポーターずれの能天気もここまでいけば特性か。

そんなバカ田君はさておき、今のところ情報薄な藍出たちが驚いたのは以下の点だった。「その遺書、いくら直人が死んだあととはいえ、全財産たって高が知れてるでしょう。いわば“婿殿”なんですから。ですが、そんなことより気になった点が二つ。一つは、なんで遺書なんて早々と書いていたんでしょう、たしか、まだ四十代でしたよね」射殺事件をニュースで知っている藍出は年齢に関し、尊敬する上司に確認のアイコンタクトをとった。

警部は首肯で返した。
「ですが、それよりも不可思議なのが、『妻が亡くなっていれば』云々のくだりです。もしそうなったとしたら、おそらく二ケタは違う規模の全財産でしょうし、加えて理事長職までを娘が手にする。これって、何か臭いませんか」藍出は言外で、直人溺死だけでなく、向後の妻殺害の可能性についても暗に言及したのだった。
しかし、「なるほど。妻殺しを前提に遺書を書いたというわけですか。こりゃ驚いた」病院長がもし射殺されていなかったら、のちのち、妻を殺したかもしれないと。今度はそのことに岡田君、驚倒したのだった。
刹那、和田がそんな甥の口を掌で塞いだ。「警察官として驚くべきは、そこと違う。ええか、遺書を書いた日づ…」
「おっとそこまで」やはり和田は気づいていたと改めて感心しながら、矢野はその先を藤浪に続けさせることに。「和田さんが言わんとしたことの続き、お前ならどう説明する?」
「おそらく、ですが」藤浪は肯きながら、「病院長が遺書を書いた日にちが、直人の溺死の前日だったというところに驚け、ではないでしょうか」

矢野は、満足の笑みを新米の部下に送った。
一方、和田は複雑な表情になった。鋭敏な同僚には敬意を表するが、たとえバカでも身内は可愛いからだ。
だが、岡田にはまだ理解できないらしい。焦点が定まらない眼で瞬きばかりしていた。
「おい、バカ甥。ええか、直人が生きている状況で、全財産を娘だけに残せると思うか。金額の多寡はこの際別としても、遺留分権という制度が民法により規定されてるやろ」和田は悔しげに少し語気荒く言った。デカである以上、知っておくべきだと思ったからだ。今後、遺産相続をめぐる殺人事件を捜査することもある。その際、事件解決に必要ともなるであろう知識のひとつなのだ。
ちなみに遺留分権について。
遺産の相続に関して、原則、被相続人が記した遺書の趣旨が尊重される。被相続人の意思尊重とは、被相続人が当然ながら死後もその基本的権利を有しているということだ。したがって相続人Aの排除を被相続人が望めば、尊重されることとなる。ただし、完全なる排除まではこれを認めていない。それが、民法にて規定された遺留分権である。その主旨は、被相続人の遺志に関わらず、相続人の今後一定の生活保障をするためである。つまり遺留分権とは、遺産相続の一定割合を取得しうる相続人の権利のことである。
「なるほど」やっと気づいた、らしいバカ田君であった。
しかし、和田は半信半疑。「全財産云々はな、直人の死を予期してたからや。では、なぜ予期できたか」
「あっ、直人を殺す計画がすでに出来上がってたからや」ここで岡田の顔に初めて陽が射したよう。一方、
ようやく半年間のモヤモヤが消えた藤浪はもっと満足げ。いい表情になった。手術を受けた白内障患者のかすみが消え、スッキリと心まで晴れた、まさにそんな心地であった。
枷(かせ)をつけられたための事故死説だったとはいえ、やはり自分の出した結論に納得できず、日々、鬱屈としていたのである。
「でも、そんな日付の遺書を書いたりすれば、あとで怪しまれると何で考えなかったのでしょうか」藤川の指摘は至極もっともだった。
と、突然の矢野、何を思ったか「あははっ」快活にひと笑いするとそれを噛み殺しながら続けた。「すまん。ひとつだけ、小さくて大きなウソをついてしもた。実は2019年やったんや。それを2013年と言(ゆ)うたんは、皆に気づいてもらうためやった。いやぁ騙して悪かった。許してたもれ」矢野がたまにみせる茶目っけでもってもう一度、少し申し訳なさそうに、それでも小さく笑った。「おそらく卓は、記述日を六年後にしておけば、直人の溺死や妻の死亡とは無関係な遺書として偽装できると考えてたんやろ」
一同、さすがに苦笑いした。

そんななかでも、矢野を藤浪は面白い人やと感心しつつ、ただならぬ発想のできるこの人につき従い、捜査のイロハを徹底して学ぼうと決めたのである。十数年前の藍出がそうであったように。

それはさておき、卓の不運が生んだ誤算は、直人死亡の前日に遺書を預けたことだ。その弁護士が重篤に陥り意識不明のまま入院してしまうとは、誰に予見ができようか。ために、工作は案に反して失敗し、かえって直人殺害の疑惑を決定的にしてしまったのである。

ところで矢野だが、今度こそは確証を見つけ出し何としても送検しなければと強く決めた。自身に課した、捲土重来であった、たとえ犯人が死亡していたとしても、だ。
「藤浪、お前が担当したんやから、できるだけ詳しく事件の内容を皆に教えてやってくれ」矢野は、自信を持って“事件”と言い切った。

指示どおり藤浪は概要を述べるのだが、その前に断わりを入れた。以下がそれだ。
彼にとって唯一の不満として、行政解剖がなされなかった事実をまっさきに述べたのである。そのせいで検視頼みとなり、微訂正された死亡推定時刻は午後八時六分から八時半ごろとなった。直腸内体温の計測や死体硬直の具合などから検視担当官が判断したのだと説明した。なお死体には心臓マッサージの痕跡以外に、刺傷や殴打痕・圧痕・索条痕などの外傷は全くなかったとも補足説明した。また、死体の爪に血痕や皮膚片などもなかった旨を述べ、浴槽に無理やり沈められた可能性を示す争った形跡も認められなかったと概説。
おかげで、アリバイがあり動機の薄い義父を、結局捜査圏外人物と判断してしまった。
また、侵入者など存在しなかった渡辺邸は、一種の密室状態にあった。つまり、死亡推定時刻には直人以外誰もいなかったのである。以上の状況から、いささか不本意ではあったが、殺人事件では?との疑惑を消去するしかなかったのだとした。
自殺についても、動機が希薄だとしてその可能性を否定した。……恋人の転落死に関わっていたという新事実が明らかになった今日(こんにち)をもってしても、自殺説には同調できない。
自殺するなら、愛を告白した相手である拓子が目の前で死んだ直後でなければ、その意義を失う。自殺は、悪い意味での勢いでもって、死出三途へ踏切る場合も少なくなかろう。逆に時期を逸すれば、喚起された冷静さや恐怖心が踏み止まらせることも少なくない。
漱石の代表作“心”における“先生”はともかくとして、くどいようだが、一般的には半年という時の経過とともに、自殺熱は冷めていくと考えられる。だから転落死を、悔恨による後追い自殺とするには、半年後では合理性に欠けてしまうと。
つまり消去法ではないが、動機の希薄な自死も消え、必然的に事故死が残ったのである。
ちなみに、半年前の時点では不注意といえるほどには物証や供述等に対する見落としはなかったと、藤浪は今もそう思っている。
加えての、事故死に帰結させた理由、他にもないわけではない。
まず血液検査からは、ハルシオンという睡眠薬を服用したうえ飲酒もしていたとの結果が出た。血中濃度から、睡眠薬は軽症状患者の使用量の約二倍、アルコールも、酩酊を想像できるほどの量と推定できた。肝心のそのハルシオンだが、服用すると記憶障害のほかにめまい・ふらつき・幻覚症状などの副作用が出ることもあるとわかった。
にもかかわらず、医師の卵の直人は睡眠薬服用の事実を忘れて飲酒し、生活習慣に従い入浴したと藤浪は推測した。なぜなら、そうとしか説明できなかったからだ。
浴槽に両足を入れた直後、めまいやふらつき・幻覚症状を起こし、ために足元が滑ってつんのめってしまい、大きな浴槽という不運がそれに重なった。うつ伏せで身体全体が湯船にすっぽり収まってしまったという図式だ。つまるところ身体ごと湯の中に落ち、あげく呼吸器にまで湯が入った。すでに理性を喪失し、薬効とアルコールで身体的機能も鈍化していた直人は焦りまくり、浅い浴槽内で溺れてしまったのだろうと。
入浴中の溺死が交通事故死より多いという現実から、こんな憶測をしたのである。
藤浪は当然のことながら、現場の状況も洩らさず述べた。現場とは風呂場や脱衣場、だけでなく二階の直人の部屋、キッチン等もである。むろん、直人の部屋にあった睡眠薬入りのビンやウイスキーのボトルのことなども、キッチンには卓が置いたと初動捜査時に申述した食事後の食器類についても言及した。また、グラスの中身などの検査結果も忘れなかった。その他、採取された指紋にも殺人事件を推する不合理性は全くなかったのである。
矢野も満足のいく報告であった。
病院長の遺書が露顕していない段階においてはたしかに、藤浪が憶測した情景以外、説明のできない直人の溺死であった。
だが、今や状況は一変したのである。
「わからんのは、どうやって事故死を演出したか?です」とは、西岡の率直な疑問だった。
「藤浪、お前の見解は」直腸内体温の早期低下や死体硬直の早い発現をどんな工作によって偽装したのかとの問いだ。矢野のこの狙いのひとつに、新米に発言させることで皆とのコミュニケーションを円滑にしたい、があった。もうひとつは、彼のデカとしての力量のほどを可能な限り知りたかったのである。矢野はせっかち、なのだ。
「見解といえるほどのものはありませんが、…僕ならこんな工作をします」さきほどから藤浪は、矢野の視線を痛いほど感じていた。ここからはお前の出番や、リリーフ(投手)は任したぞと言いたげな熱い視線を、である。それで概要説明をしながらも、心密かに思案を巡らせていたのだった、渡辺卓がいかにして偽装工作したのかの最終推測を。
「僕なら…か。大いに結構。それを皆に聞かせてやってくれ」推理力だけでなく想像力も推し量れるわけで、遠足前日の楽しげな子供のような顔になった矢野は肯いた。
二人の先輩警部補も、期待の眼で見つめている。
三人の部下は生意気にもお手並み拝見と、矢野係の先輩としてどこか上から目線だった。
「義父の卓は直人の弱みにつけこみ、己が意のままに操ろうと考えました。それには弱みを見つけなければ。それで探偵を雇った。おかげで想定以上のネタを手に入れられた。拓子の転落死です。ただし強烈すぎた。で魔がさし、計画を変えたのです。苦労をかけた彩奈に全てを残そうと。しかしながら、妻の恵子が旅行に出かけるまでは手を出せません」
「なるほど、半年前からの殺人計画やったと。面白いな」藍出は、思わず身を乗り出した。
「そして待ちに待った日がやってきました。数日前から用意していた睡眠薬を、当日の昼に、漢方の疲労回復剤などと説明して渡します。包装していた本来のパッケージから眠剤だけを取り出し、あえてビンに入れたのは、ハルシオンという表示を直人の眼にふれさせるわけにはいかなかったからでしょう。いくら半人前の医師でも、ハルシオンが何かくらいは知っていたでしょうから」これにより、包装がはずされていた理由の説明もついた。

和田たちは、藤浪の推量に聞き入っていた。
「偽りの薬効説明のあと、『ただし試供品やから、効果のほどを知るために二人で分かちあおう。私も飲んで効き目を比べたいから、僕の指示後に飲む』ことを約束させます。手渡すことで、直人の指紋を自然な形でビンにつけることにも成功しました。そのとき、「漢方薬独特の臭いがしないか嗅いでみ」とでも言って、ビンのふたにも指紋を付けさせます。ですからもちろんのこと、箱も使用上の注意書きも元から存在してはいません。再度、指示なくして飲むなと釘を刺しておいて午後八時三分、家政婦が帰路についた時間を見計らい直人の携帯に電話を掛けます。『ある男から突然の電話を受けた。菅野拓子の転落死にお前が関わっていると聞いた。ママにはばれないよう、手を打つ必要がある。そこでや、お前は大急ぎで食事を済ませ、心を落ち着かせるためリビングのテーブルに置いてあるオールドセントニックを飲んで小一時間待っててくれ」直人は通常、餃子と冷麺の場合はビールを飲むのだが、そうしなかったのは卓の指示があったからと推測したのだ。ちなみに、自室にセントニックを運ぶのは初めてだったとも。「帰宅したら、大事な話をしようやないか。心配いらん、決して悪いようにはせんから』そうとでも言って安心させ、自分の計画へと誘(いざな)ったのではないでしょうか」矢野の眼を見つめつつ、だが、いささか自信なげだ。
しかし、「ほほう、すごい想像力やな」和田は良い意味で感心している。
「それだけの想像、いつしたんや」疑義を解く説明もあり、藍出も同調しつつ尋ねた。
「詳細は、日付のおかしな卓の遺書が出てきたとお聞きしたときからです」
“お手並み”に相づちを送っていた藤川は、「えっ、そんな短時間に?」と。このエリートは、自分たちと頭の構造が違うと驚嘆してしまった。
「いえ。ある程度なら、関係者への事情聴取を全て終えたあと、もし病院長が犯人ならばとの仮定を設けて熟慮を重ねましたから。ですが、所詮は想像の域を脱することはできませんでした。さらには判断を迫られたこともあり、やむなく、事故死だと上申しました。そんなわけで、結局は挫折したのです。それでも、実際にはどうしても払拭しきれない滓(おり)が心に残り、それからも夜毎、仮説に沿って想像を膨らませてみた、ただそれだけです」先輩の賛辞が耳に痛かった。自身、納得のいく推論だと胸を張れる内容ではないからだ。
藤浪の、そんな心裡を見透かしつつ、ただひとり矢野だけが得心していない表情で口を開いた。「いくつか補足や訂正をしてもええか」

藤浪には元より異論はない。「はい」と答え、まるでかしこまるように居住まいを正した。
「同時に僕の推論を話しつつ、いくつか、藤浪の推論の不備や矛盾点についての解決もしていこうと思うんやが」矢野は藤浪を鍛えるために、ここは教官になりきるつもりだ。

さても、残る五人は藤浪の推論に納得できたためどこに不備があるのか、それを考えてはみたが、おいそれとは指摘できなかった。されども、矢野の推理力には全幅の信頼をおいている。「どこに不備が?」とは、だから誰も言わない。
「藤浪の推測どおり、理事長の恵子が旅行に出かけてる期間を狙っていた。少なくとも二日間は不在やないと犯行には適さんからや」もとより、藤浪のを全否定するつもりはない。「ところで直人が診察を拒んだという話、ほんまなんやろうか。なぜなら、カルテや処方箋なしでの眠剤の処方が医師法に違反することは医師、まして病院長にとってただ事ではないはず。それでもあえて、医師法第22条に違反したことをすんなり認めたんは、殺人とは比較にならんほどの軽い刑罰で済むからや。…いや、というよりおそらく、情状を酌量され不起訴になるという計算もあったと思う」言った矢野の、眸の奥からの光彩が強くなった。「また処方した日が偶然、恵子の旅行当日というのもいかがなものか。加えて、眠剤を処方してくれと直人がいってきたときの印象やが、直人は『感情を表に出すタイプやない』云々、続いて『これといった印象は受けなかったので(中略)普段どおりやったように』と言っていたのに、数瞬後には、『思いだしました。(中略)悩みごとを抱えている風に』へと変えてしまった。急変させた理由やが、直人の印象を刑事が質問してくることを、当初は全く予期してなかったためやと思う。だが、計算外だろうと想定外であろうと、質問に答える以上は、後日、再度の事情聴取となったとき、自分に疑いを向けさせないために予め変更しておいた方が無難と計算し、発言を改めたんやないかな。さらに、義父の口述やけど、納得しかねるのがまだあった。睡眠障害の原因を訊いた返答が、『医師の立場からも当然、尋ねました。が、何も…。いまだに心を許していないからでしょう』やった。血は繋がってなくても父と子やし、まして卓は精神科医なんや。疾病の原因や患者の状況を把握せずに処方したなんて、少なくとも僕は信じない。いくら直人が無茶を言ったとしても。では、なぜそんなウソをついたのか。それは、睡眠障害で苦しんでたことにし、不自然ではなく本人希望の形で睡眠薬を飲む状況を作り出したかったからや」藤浪を見た。「けどな、直人も医師なんやから、モンスターペイシェントみたいなマネ、はたしてしたやろか。カルテ作成を拒否し薬を要求する、そんな勝手ができないことは百も承知なわけやから。それでも眠剤を渡したとゆうなら、卓自身、医師として失格やと思う」

六つの顎は肯くのを忘れ、十二の眸がじっと、矢野の口元に焦点を当てていた。
「つまり、睡眠薬をほしいと直人が言ったという申述自体怪しいと僕は思う。なんちゅうても、全ては病院長の口からしか出てない話やから。それと、大きな病院ほど薬を置いていない場合が多い。だから通常、院外の薬局で買うことになる。ところで今回の眠剤やが、卓自身が所有していたのを使ったと僕はみてる。さらに、睡眠障害を患うほどの悩みで苦しんでたマザコンの直人が、旅行前日の母親に相談してないのも、どう考えても腑に落ちん。いや、というより睡眠障害自体も、ほんまの事なんか。半年前ならわかるけど」拓子転落死の原因を作り、死に顔まで見てしまった直後なら睡眠障害も理解できると言いたいのだ。「もっとも、直人が愛する人の死亡に関わってしまったとは、捜査員¬=藤浪にもさすがに言えんかった。まあそれも当然で、直人の過去を私立探偵か何かを使って調べていたことになるさかい。それっていかにもいわくありげやろ、なんで探偵まで使ったんやて」
一同ここで初めて感心のため息をつくと、ただただ肯いたのである。
ちなみにその、私立探偵の件については憶測だったが、さすがに、特定の人物の過去を調べるなら適材だろうと。しかし正鵠(せいこく)を射ていた。卓はまさに、私立探偵を使って直人の弱みを見つけ出していたからである。矢野の憶測が中(あた)ったのはたまたまではなく、あくまでも論理を重ねたその帰結であった。
「それはともかく、万が一、警察が優秀な捜査力でもって、自分に本格的な疑惑を向けてきたときには、ある女性の転落死が自殺の動機やったと、そう暴露しようとは事前に考えていたやろうけどな」それほどに大事な事実を警察に隠していたのはなぜだと詰問された場合も想定していた。妻の恵子が傷つくのが可哀そうだったとでも言って、刑事が示した疑義をかわしたであろうとも付け加えた。
しかしこの推測にはまだ続きがあったが、今ではなく、三十数分後、述べることとなる。

それはそれとして、賛嘆に似た呻きが皆の肺腑から洩れ出たのだった。
「ところでさっきの話、直人が眠剤を欲しがったからとするよりは、こう考えた方がしっくりくる。つまりカルテや処方箋なしでの処方も、要求した眠剤を服用しその事実を忘れて飲酒したというのも、あくまでも卓がでっちあげたストーリーであって、狙いはその方向へ警察をミスリードしたかった」藤浪がそれについ乗ってしまったとはあえて責めなかった。言わずとも反省すると踏んだからだ。「けど、僕はひねくれてるせいか、卓の敷いた路線にも疑心を持ったんや、直人ははたしてそこまでボンクラなんやろうかってね。ハルシオンと飲酒を併用する、それが女性に後日たとえば不埒な目的に使用するための人体実験やったとしても、それでも飲酒後に風呂には浸からんやろ、危険性をはらむからな。簡単にシャワーで済ますんとちゃうか。いや、それもどうかな。先に汗を流しさっぱりしてから食事を摂り酒を飲む。五月も中旬になると、若い人なら多くがこの順番と違うかな」事件関係者各自に対し、その人物になったつもりで矢野は、かの心裡を読み、行動を推理する。これが矢野流なのだ。「仮に卓の供述どおり睡眠障害で直人が苦しんでたとしよう。だとしてもハルシオンは即効性やから就寝直前の服用が原則と直人クラスの医師でも承知してるやろ」だから食後の服用はあり得ないと言いたいのだ。「それにや、記憶障害などの副作用の知識が希薄だったとする卓の物言いも苦しい。僕はそんな風に感じたけどな」
「推理を聞けばなるほど、警部に同意する以外ありません」それほど完璧だとした和田は、「ですが、まだ疑問も。どうして卓は直人をなまくらと言いつのり、事故死した風をよそおったのでしょう」細部にまで計画を巡らせた卓にしてはどこかお粗末と言いたいのだ。
「ボンクラ扱いにした理由まではわからん。が、おそらくそれしか手がなかったからと違うやろか。それに直人の日頃の仕事ぶりを病院長の立場からみれば、素人同然と思えたんかもしれん。それが潜在意識に刻まれていて、自然と口をついたんかもな」
「他に手がなかったというのは、卓にとっていかにも苦しいですね」と藤川。
「事故死にみせるにはそれしかなかった。かといって、自殺はいかにもマズい。浴槽内での溺死が自殺の手段として不自然極まりないこともやけど、何より動機が希薄やからな。となると、無理をしてでも半年前の拓子の転落死を動機づけとせんならん。それには二つの死が深く関わっていることを警察に示唆する以外手がないわけで、しかしそんなことをすれば、息子を警察に売ったと理事長の恵子が激怒するに違いない。結果、卓は病院長の座から転がり落ちるだけでなく、離婚訴訟で被告の立場に追い込まれてしまう。これでは直人を殺害した意味がなくなる。一方、殺人事件扱いとなると、もっとあかん。司法解剖にまわされる可能性が高くなり、そうなれば死亡推定時刻が午後十時前後三十分に訂正されてしまう。アリバイがなくなるばかりか、邸にいたのは直人以外卓だけとなる。当然、殺人犯として人生は台無しに。だから事故死としては多少苦しくとも、背に腹はかえられんかったんと違うか」事実、事故死で処理されたわけだし、とはさすがに言わなかった。藤浪を庇うためというよりも、あの時点では殺人を疑うに足る材料がほぼなかったからだ。
皆はまた肯くことをも忘れ、固唾を飲んで次の言葉を待った。
ところが矢野は、このあとも推理を披露するだろうという期待を故意に裏切ったのである。「藤浪、殺人事件とわかったこの段階で、直人の行動に対し、ん?と思う点はないか」まさに教官役の質問をぶつけたのである。
思いもよらずの投げつけられたボールだったがすぐに投げ返すべく、藤浪は半年前に暗中模索したが結局は懸案のままで終わってしまった疑問を口にしたのである。「七時半には帰宅したのに八時になってもまだ食事のテーブルにさえ着いていなかった。三十分間、一体何をしていたんですかね?その点不思議に」上から迫られて事故死と判を下した藤浪だったが、頭の中、じつは疑問で満ちていた、つまり他にも多々あったということだ。
「言われてみればたしかにそうや。シャワーを浴びたわけでもビールを飲みながら少しくつろいでいた風でもない。部屋のテーブルに缶ビールの飲みさしや屑かごに空き缶があったとは、鑑識の報告になかったように記憶してるが…」和田は藤浪警部補に確認した。
「ええ、そんな形跡はありませんでした」さもノートでもめくるように事も無げ、鑑識が撮った現場写真を半年前の記憶の襞から取り出すと断言した。「ただ、パソコンを使っていなかったとまではいえませんが。あるいは長いトイレとも…。しかしこれだけはいえます。携帯や家の電話で誰かと連絡を取っていたというようなことはありませんでした。電話会社に問い合わせて調べましたから間違いありません」藤浪は、矢野が期待していたとおり抜かりのない優秀なデカである。
「ところで、食事を部屋へ運びましょうかと家政婦が尋ねたとき、たしか、『これを済ましたら自分で冷蔵庫から出す』と言うてたんやなかったっけ。ほな、直人が言った『これ』って一体何や?」和田にしてみれば、じつはこの謎がのどに突き刺さった鰯の小骨のようで、どうにも気になって仕方なかったのだった。
そんな空気の中、「家政婦は見た、かも」と。岡田はまさかのウケでも狙っているのか。

のんきなことを言っている場合ではないと、皆無視をした。しかし、もし見たとしたら謎がひとつ解けることにはなる。それが事件のナゾ解明につながるかまではわからないが。
「ドア越しだったはずですが念のため確認します」藤浪は家政婦の携帯にまたもや掛けた。
質問の時間は短く、一方、耳を傾けている時間の方は圧倒的に長かった。
「やはり、ドア越しだったので見てないそうです。が、とつけ加えて、でも不思議だったそうです、ハーハ―って、何か息を切らしながらの返答みたいやったと」
??…謎がひとつ解ける前に、新たな謎が増えたといわんばかりの顔がうち揃った。皆、疲れているのか、どうにも思考力が落ちているようだ。
「どうやら仮の想定の、長いトイレでもパソコンでもなかったみたいやな。そんなことで息が切れることはないやろうから」嫌味に聞こえそうな言葉だが、矢野の口から出ると他人の耳朶を涼やかにかすめてしまうから不思議だ。その自覚あるやなしや、そんなことにはお構いなく警部は、「もはや、これも調べる手立てはないが、『息を切らしながらの返答』との証言のおかげで今、確信できたんや」と自信の眉目となり、さらに推理を展開した。「まずは卓が直人に半強要しつつ、ある必要から、激しい運動を勧めたと。つまり、二十分ほどのエクササイズを帰宅直後に実行するよう、事前に指示していたと僕はみてる。させる口実やが、サプリの効果が運動後とそうでない場合とでどう違ってくるか、業者から簡単な実験を頼まれたからとでも言って、部屋で腹筋や腕立て伏せなどをさせたんやないかと。あるいはこんな手を使(つこ)たかも」ここで、西岡が先刻淹れてくれていたぬるい番茶でのどを潤した。より簡単な説明に集約すべく、思考の時間がほしかったのだ。「肉体的疲労がストレスを緩和させ、精神安定にも効果的とする医学上の学説を利用した可能性もある。さらに脳医学の直近の研究で、運動による悩み解消効果も証明されたとでもいえば、逆らえる立場にない直人は従ったやろ。それでももし拒否した場合は強要もできた。材料としては、藤浪の推測どおり拓子の転落死や。この脅迫に抗うことはできんかったに違いない。それはともかく激しい運動の目的はただひとつ、死後硬直を早く発現させるためや、詳細な説明は省くけど、筋肉内に疲労物質である乳酸を急増させれば硬直が早まる可能性やが、かなり高くなる。例としては、“弁慶の立ち往生”がそうや、もっとも弁慶のは一説に過ぎんけどな」本人も認めているように、藤浪の憶測は突っ込み不足だったとした。ただし、矢野が“弁慶の立ち往生”を例として挙げたわけだが、ちと古いのではなかろうか。

まあそれはそれとして、一同、感嘆に値する推理だと正直頭が下がった。なぜなら、死亡推定時刻を午後八時すぎと検視させるために、被害者の筋肉内の乳酸多量発生の因にまで推理したことと、それが医者ならではの偽装工作だと、そう見抜いた洞察力に、である。
筋肉疲労が死体硬直を早く発現させることを知識では知っていても、それはあくまでも机上であって、実際の事例に遭遇することなど誰もその経験がない。それで、なかなか現実性のある想定はできなかったからだ。
「もうひとつ。死亡推定時刻を割り出した腸内温度やけど」疲労感という概念を今日に至るまで持ったことのない矢野警部、「これにも相応の工作があった」とキッパリ。
――それはどんな?――と、全員が好奇心を全身の毛穴から横溢させた。
だけでなく餓鬼さながらに急いた藤浪、思わず発したのだった。「どんな手で検視を撹乱させ、実際の死亡時刻から一時間以上ものズレを生じさせたのでしょう?やはり医師の知識を駆使し…」捲土重来(けんどちょうらい)を期する藤浪は問うだけでなく、半年前の憶測を捨て死亡時刻を午後九時四十分ごろと推測し、そう披露したのである。むろん、根拠があってのことだ。
さても、その時刻に教官矢野はほぼ同意し、以下、藤浪の代弁をしたのである。卓の帰宅直後(午後九時過ぎ)の犯行は難しかろう。なぜなら、工作の準備がまだできていないはず、が主な理由だった。むしろ119番通報の前、心臓マッサージの真似ごとや服を着る時間等々を逆算すると、自然、午後九時三十分から四十分ごろと推定できるからだ。
藤浪は、やはり悔しそう。「誘導された死亡推定時刻のせいでアリバイが成立し、結果、捜査線上からはずさざるを得なかったわけですし、事故死に誘導させられもしたわけですから」卓の掌上にて玩(もてあそ)ばれていたと知り、今日こそ思いっきりほぞを噛むこととなった。
「工作ですが、巧妙な計画犯罪の手口から察するに、風呂を殺害場所に利用したことと関係しているのではないでしょうか」藍出も疲れている。取っ掛かりは口にしたが、さらなる推測の呂律が回らなかった。それでも疑問だけは提起したのである。「何で直人は風呂場で死んでいたのか?渡辺卓犯人説を聞いたときからずっと、その点に疑義を懐いていたんです。というのは、風呂場を使うとなると手間が掛かります。そんな面倒なことするよりも、階段から突き落とした方が手っ取り早いでしょうし。それをあえて、しかも頭の良い医者が風呂場をチョイスした。となると、何らかの必要性があったからではないか」
「君もそう思うか」矢野も、彼独自の推理の糸口は同様であった。ただし、階段を使うというくだりには否定的だった。確実性に欠けるだけでなく、失敗した場合、卓が背中を押したことが公となってしまうからだ。さらには、死亡推定時刻の偽装工作もむずかしい。
ややあって、「あっ!」藤浪が大きな声をあげた。「そうか、体温をより速く下げる工作のためですよね。水風呂の中で溺死させれば…。そして殺害後さらに氷を湯船に浮かせ、少し時間をおいてから死体を床に寝かせる。直後、浴槽に湯をはればいい」
寝かせたのは救急車を呼ぶ数分前で、医師である義父が心肺蘇生法(AEDや医薬品等が手元にない一次救命処置)を施したとの供述に矛盾を生じさせないため、また、偽装工作を露見させないために浴槽から引きずり出した、その結果である。
むろん、「工作された」と洩らす直人の声は、閻魔にしか聞こえない。
藤浪は、――それにしても――なぜこんな、小学生でも思いつきそうな単純なトリックに気づかなかったのかと歯噛みした。少なくとも医師の専門知識など必要ないのである。
「じつはな、どうやって死亡推定時刻を狂わせたのか、卓の遺書が出てきたとの一報を聞いたときからずっと考えてたんや。藤浪が気づいたとおり、手っ取り早いんは死体を水風呂に浸けて体温を下げさせるこっちゃ。そのあと浴槽から出し、たとえば氷枕を腰部に当てる。絶対にしたとは断定せんが、この手で死体の腸内温度をさらに下げることも当然可能や。そして救急車が来る直前に氷枕を隠してしまう。そうすれば、警察もこれらのトリックには気づかんやろと。卓は医者だけに、法医学の知識を身につけるのも事故死に偽装するのも造作なかったやろうし、検視をミスリードすれば行政解剖に回されることもないと踏んだ。事実、思惑どおりとなった。加うるに、他にも卓にとっての好条件が揃ってしまった」次第に、苦汁を飲んだあとのような眉へと変わっていった。「解剖費用やけど、最低でも二十五万は掛かるし、執刀医は増えへんのに変死体は増加する一方や。にもかかわらず公的経費削減の声は日増しに募る。さらに、邸のある豊中市に監察医制度がないのも卓を利した。立場上、奴はその辺の事情にも明るかったやろ」矢野にしては珍しく、ここで愚痴が出た。「仮にそれでも行政解剖してたら、食べ物の消化具合等から卓には不具合が生じたんやけどな」“天網恢恢疎にして漏らさず”とはいかなかったことが、よほどに悔しいのだ。天網の一端を担う刑事になった動機ゆえに、制度の不平等に怫然としたのである。
和田も、捜査の地域格差に憤る一人として、強く肯いた。
矢野は教官役として気を取り直すと続けた。さらに具体的になった。「肛門から体温計を刺し込んで腸内温度が最適な数値に下がるのを確認しもって、救急車到着の前に、浴槽の湯を39度くらいにしておけばええ。また、自分の食事分やビールをトイレに流せば、飲みながら食事していたように偽装できるしな。それと、初めから十一個しか入れてなかった眠剤のビンを直人の部屋のテーブル上に置いておくことも忘れなかった」
「えっ、十一個しか入れてなかった?」初動捜査時、ハルシオンが十一粒だったことは確かだ。「だとすると、直人はビンの眠剤を飲んでないことになります」頭が混乱しだした。「ですが間違いなく服用していました」血液検査でハルシオンの成分を検出していたからだ。「では一体、眠剤をいつどんな手を使って飲ませたのですか」バカ田ウイルスが藤浪に感染したわけではないが、警部の連発弾に気圧され脳の回路が機能不全に陥ってしまった。
一方、矢野の推理は冴えわたり鋭さも増していった。「おそらく、セントニックに初めから混入しといたんやないかな。そうすれば、帰ってから飲ませる時間も手間も省けるし」
「じつは僕も初めは疑いました。ですがビンに残っていたウイスキーからは眠剤、全く検出されませんでした」藤浪は、鑑識に念押しで問い合わせたことを思い出しながら言った。
「藤浪!」矢野の瞳から叱責の光が放たれていた。岡田になら照射しなかったであろう。「家政婦の証言、忘れてないか。前日よりセントニックの量が増えていた不思議な現象の説明、お前の憶測どおりやと、ちっともできてへんけどな」
藤浪と和田以外、頓狂な表情となった。発言の意味を理解できなかったからだ。
が、委細構わずの矢野。「家政婦さん言うたはったやろ、『夜いつものとおりテーブルに置いた(セントニックの)ビンですが、残りは確かに半分程度だったのが、次の日(サイドボードに)なおすときに“あれって?”って。上が少し空いてる程度、ほぼ満杯だったからです』と。加えて、『中身は明らかに増えていたのに、ウイスキーのビンが空になるペースなんですが、その分に限りかなり速かったんです』や。覚えてるやろ」
「はい、もちろんです。僕も不思議には思い、理由を一つ二つ想定しました。しかし結局、納得できる説明を見つけられず、あるいは家政婦の思い違いかもしれないし、どのみち、直人の死とは無関係だろうと…」上司の指摘に対し、まだいつもの脳の活動ではなかった。
「なら、こういうのはどうや。飲みかけのボトルが予め二つあった。ひとつは眠剤未混入のボトル、もうひとつは」
藤浪は、なるほどそうかと思わず膝をたたいた。どうやら、渡辺卓の偽装工作にようやく気づいたの呈だ。
「ハルシオン0.125mg錠をグラス一杯につきおよそ二個分になるよう溶かしこんだボトルと未混入のボトル。それら二つを、直人殺害直後に入れ替えた。つまり、直人に飲ませた眠剤混入のセントニックをシンクにでも流し、ボトル内を洗って眠剤を除去、リサイクル用として家政婦が仕分している分別ゴミに紛れ込ませておけば警察も気づくまいとな」
言われてみればなんてことないのだが、「あっ、そこまでは気がつきませんでした。そういえば半ダースずつ買っていたので、卓の部屋には買い置きがあったんでしたね。見落としてました」自分の未熟さが情けなくなった。
「気を落とすな。経験を積んでいけば見落とすことも次第に無くなってくるさかい」それに、お前なら大丈夫やとは、バカ田の手前言わなかった。岡田には縁のない言葉だからだ。
「ええか、卓の行動、整理するぞ。まずは前夜帰宅後、拓子死亡と直人との因果関係を告げておく。そして当夜、帰宅した足で病院から持ち帰ったアイスボックスを手に風呂場に直行。中には氷はもちろん氷枕、水銀体温計も入れておいた。すぐに、湯船にコック全開で給水。満ちるまでの時間を利用し、自室に寄ると、犯行の数日前、新品をサイドボードに入れておいて家政婦に指紋を付けさせてた眠剤未混入のセントニックを持ち出す。その足で直人の部屋に行き、少なくとも酩酊状態にはなっているはずの彼の指紋を付ける。むろん、テーブル上には、眠剤入りのセントニックが置かれていた。例の、八時三分からの電話で指示し、直人に持ってこさせ飲ませてもいたからだ。卓は次に、直人の意識が朦朧となっていればよし、不完全だった場合はさらに飲ませるつもりでいた。ここまでは計画どおりだ。ふらつく直人を脱衣場まで手を貸しつつ連れてゆき、まずは自分が全裸に。間髪容(い)れず直人も全裸にすると服は脱衣かごに」このあと小さな、しかし必要度の高い工作をしたとみているが確証はまだない。「直後、直人を浴槽に落とし込み後頭部を押さえつけると力ずくで溺死させた。それから院長室の冷蔵庫で作っておいた大量の氷を湯船に入れ、体温計を肛門から挿入」と説明しながら、この時キラリ頭に閃いたものがあった。事故死にみせるための小さな工作をした物的証拠についてである。想像し推理を組み立てるだけでなく、言葉に出して初めて気づくこともあるということだ。問題の物を証拠写真として撮っていれば、またはその存在を家政婦が覚えていれば証拠となるはず。時期的に考えて、矢野が気づいた以外の利用法を考えにくい品だけに、立派な物証になると。「藤浪。家政婦さんに再三で悪いと頭を下げたうえで、問い合わせてくれ」訊く内容を指示したのである。
「西岡、鑑識課に行って現場写真を全て預かって来てくれ」何を捜しているかを教えた。