移封された大名は、歴史的にみて、そのほとんどが一・二年は苦労をさせられている。動乱の世をおえた江戸期ですらそうであった。まして戦国時代、さらには百五十万石という巨大所帯の大移動であり、当初はあらたに検地も必要となった。
それよりなにより、縁もゆかりもない関東の領民にとってはよそ者でしかないのだ。そのうえで、いまだ北条氏の残党がのこっており、不穏なうごきをみせていた。
人心をまだ掴めていないということは、攻めこまれたときに、領民が味方になってくれる可能性はひくいことを意味するのだ。
つまり、豊臣家にとってまさに千載一遇の、願ってもないチャンスが到来したのである。この機に、因縁をつけてでも攻めていれば徳川家を滅亡させることは難しくなかったはずだ。
なのにしなかった。小牧・長久手の戦いの敗北で、家康に臆したのか。影武者に、機をみるそこまでの才がなかったからなのか。
もし臆したのだとしてもだ、後継者として指名した実子鶴松(秀頼の兄。三歳で病没するが、家康の関東移封直後は存命)のためには、やはり後顧の憂いは排しておくべきだったのではないか。
執拗ではあるが、機をみるに敏な本物の秀吉ならば、肉親への情にはとくにあついだけに、そうしたと確信する。
秀吉が老いたからと反論するひとは、二度の朝鮮出兵を説明できない。
でもって、もうひとつの疑義。
知略においても群をぬく秀吉が、なにを血迷ったか、外征にうって出たのもしんじられない愚行である。
天下統一後の閉塞感打破のための遠征との説や脳梅毒の弊害説もあるが、あまり信をおけない。
なぜなら、外征などせずとも、秀吉が発令した惣無事令(1587年十二月の私戦禁止令)を無視し、戦をおこした罪状のある伊達政宗や、土佐一国に押しこめるにあたり一度は戦となった長宗我部家などを次々と平定(家康はあとまわしにしたとしても)していけば、身内だけでなく譜代・外様をもとわず、家臣たちの領土を拡大できたはずだから、である。
そうなれば、家臣団の閉塞感をかんたんに打破できたであろう。また、秀吉自身も直轄領を、二百二十万石超から三百万石以上に拡張することも可能であった。
そうでなくてもすでに豊臣家は、金山・銀山・海外交易など、金のなる木を有していたのだ。