羽柴秀吉は、こうして、越前府中城内にて露と落ち(影武者による、辞世にあるように)消えたのである。

跡をうけた秀吉の影武者は、秀長や官兵衛たちの画策が功をそうし、抗うもののすくないなか、時流にのりやがては天下をとるのだが、途上、増大していく権力をば、おのがほしいまま,しかも奢(おご)りもあってか、次第しだいに本性を露わにしていくのだった。

それもある意味、致しかたなきことだったのかもしれない。

登りつめるに、過程や経緯において、人にはいえないほどの辛酸や汗血にまみれた思いが、通常ならばあってこそなのだが、影武者には、ほぼなかった。

所詮は、時流にのっかっての、天下人であった。秀長や官兵衛をはじむ家臣たちがつくってくれた状況のうえに、胡坐をかいていたにすぎない。戦って勝ちとったという裏うちがないのだ、つい先日まで農作業をしていた身の、血闘とは関係のうすい“影”には。

だから、後年の無茶苦茶な悪行・蛮行を、迷うことなくできたのである。

卑近な例になるが、詐欺師の、金銭のつかい方がまさにそうだ。苦汁をなめていないぶん、ばくちや異性にたいし乱用しても平気、まるで湯水のように浪費ができる。豊田商事事件の永野一男はその典型である。

常軌を逸した濫用、それは、惜しむきもちが欠落しているからだ。

流した汗や涙の対価としての収入ならば、ひとは、そんなバカはしないし、いや、できるはずもない。

つまるところ、影の行状は“悪銭身につかず”、簡単に手にいれたものは簡単に使い切ってしまってなにも残らない、とのことわざどおりであった。

でもって、後年の悪虐も、天下平定に心血をそそいだ歴史が影にはない、だからである。

もっといえば、労苦のはての天下ではなかったからこそ、けっか、豊家の滅亡をまねいたのである。

ところで、漸次(しだいに)あらわになったのだった、理性の欠如した本性が。あわれ、その魔性に、日・月・年を追うごとじょじょに残虐性もが加わってゆき、やがて棚ぼたの天下人は、殺人鬼と化すのである。

いきつく果て、朝鮮半島に死人の山をきずいていくのだった.

そしてこの影武者も慶長三年(1598年)八月十八日、満五歳になったばかりでゆくすえ、かぎりなく不安な愛息秀頼をのこし、懼(恐れ)れおののきの心を患(患って)わせつつ、身悶えながら死んでしまうのだ。

で、このおとこが不幸なのは、越前府中城での椿事のせいで余儀なくされた、代替わりの当初ではなく、跡継ぎとなる子息が、かれの晩年に誕生したこと、くわえて、秀長が天正十九年(1591年)の一月に世を去ってしまったこと、のふたつである。