ながい時間をまたされた前田家親子三人であった
だが、秀長がすがたをみせるとその横顔を一瞥し、すぐさま平伏したのである。直後かれらは、安堵の表情になっていった。
あらわれた秀長の眼から、先刻のはげしい怒りはきえていたからだ。戦国乱世の戦場にて、命をおとすのはいたしかたなきこと、そうあきらめた表情とみてとったのである。
秀長ひとり、利家たちの上座にすえられた床几にすわった。
さて、どう切り出すかを思案しおえ、おもむろに口を開いた秀長は、
「北の庄(柴田勝家の居城)への先導をお願いいたす。ご案じめさるな、それだけでござる」寛大にすぎる処置を言いわたしたのだった。(史実、先陣をつとめている)
城攻めの先鋒として力をつくしてくれれば、それで片がついたこととする。つまり、処分はおこなわないというのである。
柔和になった秀長の様子から、すくなからず安堵の気持ちになったとはいえ、それでも当然のごとく、きつい処分をいいわたされるだろうと覚悟していた三人であった。
領地減封および利家の切腹ですむならありがたし、喜んでうけいれるつもりで伺候したのである。
それが、人質をさしだすことさえ要求しないというのだから、三人ともが、わが耳を疑った。
その怪訝な様子をみつつ、秀長はさらに嬉しき言葉をかけたのである。人誑しの技は、弟であるじぶんが受けつごうと決めたかのように。
「豪姫殿(利家の四女、幼くして秀吉の養女になっていた。しかし、人質としてではない)は播磨の城にて息災でござる。義姉上(ねね)にも可愛がられて、楽しき日々を送っておられる。いずれは秀家殿(宇喜多秀家、こののち加増され五十七万石余となった大大名)と妻合(めあ)わせる所存と、殿は仰せであった」秀長は、あえて亡き殿とはいわなかった。
_恩をうっておき、つよい味方にするが得策_とのもくろみと、利家はみてとった。そしてこの場で豪姫のはなしを持ちだしたのも、羽柴家としてはいつでも人質にできる、とのたがいの暗黙の了解とみた。
_いずれにせよ_これら政略をさし引いても、このうえなくありがたき言辞である。三人は衷心より感謝し、感激したのだった。
「よろこんで、先陣つかまつりまする」与力をした勝家にたいする、いうまでもない裏切りだが、これも世の習いというしかないと。ただ、両手をついた利家にも、上様(信長)の命による与力であって、家臣となったのではないとのいい分はあった。
それはそれとして、一説によると、敗走しつつも府中城にたち寄った勝家であったが、湯漬けを所望したそののち「羽柴家をたよられよ」と、独善勝手な前田陣退却にたいして、恨みごとのひとつもいわずに忠告したとされている。
前田軍退陣が賤ヶ岳の戦いの敗戦のおおきな一因とされるだけに、この逸話がほんとうであれば、戦国の世ならずとも、このうえなき清涼剤となるではないか。
さて、つねより気丈なまつではある。だが、“豪”の名を耳にしたときはさすがに、つい嗚咽をもらしたのだった。消息をしりたいが訊ける状況ではなかっただけに、望外の報せであった。
母として、戦国武将の妻として、戦にでた城主および領主の代理人(不在の夫にかわって城にのこった家臣団の統率や領民の保護にあたった)を長年務めてきたものとして、すべての感情がせきあげてきたのだった。
羽柴秀長にむけ、おもわず、掌(たなごころ)をあわせたのである。
利長も顔を伏せたまま、肩をちいさく震わせていた。
いっぽう、父であるまえに領主である利家は、前田家の行く末をかんがえずにはおれなかった。それで迷ったあげく「恐れながら」と発し、問おうとした、「筑前殿には…影」と。
しかしながら、その先をばいい淀んだのである。さすがに、軽々にすぎると思いなおしたからだ。
すぐさま、「いえ、何でもござりませぬ」とて口をすぼめ、つづきを留めたのだった。でかけた“影武者の存在“など、確証のないあて推量にすぎないためである。
それいじょうに、「前田家にはかかわりなきこと」と一蹴されるだけですめばよいのだが、せっかく消えかけた火に、空気と油をたすことになりかねないと、そう。
立ちいった問いは愚行ゆえに避けるべしとして、以下、_影武者がおり、羽柴家、いな羽柴秀長殿がそのおとこをたてて、天下平定をめざさるるならば_そう、出かかったことばを、喉の奥にもどしたのである。
_さすれば、微力ながらも助太刀いたしまする_との協力誓願はさらに、内腑へとおし込めた。_秀長殿にたいする恩義なればこそ、言葉より行動でしめせばよい_そう改めたのである、秀長の眸にむけて、感謝と敬信の光をおくりながら。
たしかに、無言実行のほうが利家らしい。信長が愛(め)でた、その性格のままだからだ。