利家は辛抱づよく、おし黙ったまま弁明に耳をかたむけていた。じぶんがもしおなじ立場、おなじ状況であればどう行動したか?愚行をしなかったとする自信はなかった。
幾多の戦をのり越えてきたが、幸いにも、じぶんの肉親に戦死したものはでなかったのである(養子にだされた弟の佐脇良之が、三方が原のたたかいで負傷し、あわれにもそののち没しただけだった)。
だからといって、仇を討ちたいと念じていた家臣の気持ちを、わからない利家ではなかった。
しばしののち、ようやくしのび泣きへと変じていった少年兵であったが、「ご家中におかけいたしまする難儀など、そのときはかんがえる余裕もなく…、」ここで、鼻をおおきくすすり上げた。
「誠にもって、もうしわけのしようもござりませぬ」早口で叫ぶようにいうと、こんどこそは泣き伏してしまったのである。
利家は、目のまえでボロ雑巾か弊履(へいり)(やぶれた履物)のごときと化した城兵が、あわれになった。できれば救ってやりたいともおもった。が、いまはそれどころではない。
なにをおいても救わねばならない家臣が数千、しかもすくうこと自体、難事中の難事だったからだ。
「馬をひいてまいれ。で、利長。そちもついてまいれ!また、奥(まつ)にも、身分をさとられぬいで立ちで、あとからまいれと伝えよ」
利家は腹をかためたようすで、宣言するようにさけんだ。じぶんたちの命に拘泥していては、前田家をささえ、繁栄させてくれた家臣たちやその家族を救えない。
との発想、いかにも利家らしい。
剛勇ではあったが、才気機知とはいいがたい人物。いわば、切れ者ではなかったかわりに、報恩の精神や誠実さがかれの身上であった。
その人格を、信長は愛し、秀吉は、比類なき一刻者(頑固なまでにじぶんを曲げない人)として信じ、めでていた。
誠実さのきわみ。それは、嫡男の利長を同行させることでも、うかがいしれよう。つまり敵に、あと継ぎの身まで任せようというのだから。まずもって、豪胆ですらある。
「さても、どちらへ」傍(かたわら)にひかえていた重臣村井長頼が、おもわず尋ねた。答えはわかっていたのだが。
「しれたことよ、筑前殿の陣にまいるだけのこと」なにごともなさげに。まるで、友軍のところにでもでかける風情である。
「なりませぬ!」長頼は身を挺してとめようとした。「殿にもしものことあらば、家臣一同、いかが相成りましょう。荷が重うござりまするが、某(それがし)がまいりまする」
「たわけめ!」一喝した、長頼がせりふ、人となりから想定していてのことだ。
この事態を引きおこした少年兵には声を荒げなかった。
にもかかわらず、長年つかえてくれ、兄弟以上に信頼し、なんども命を救われた得がたき家臣の長頼には、きびしい叱責をくれた。
「そのほうで、あい務まるとおもうか!」両肩に重たくのしかかった危急存亡の秋(とき)(肝心である、“とき”につかう秋)ゆえに、はしなくも一喝してしまった。長頼こそが、心ゆるし心底からあまえられる側近中の側近だったからだ。
で、すぐに声をやわらげた。「又兵衛が申し出、衷心よりありがたきことぞと…」感激家のかれの目頭は、おのずと熱くなっていった。
主君の姿にまた、ひかえていた家臣たちもしのび泣きしはじめたのである。
「されど、このような事態なればこそ、主君たるもの、おのが務めをはたさねば、あいならんではないか!まさに、今この秋こそぞ!」自然とこぶしに力がはいり、「なにごとかなさざらん」そう、みずからを鼓舞したのである。
それから「そちに幾度となくたすけられたるこの命、けっして無駄にはいたさん。いまこそ千金のはたらきをなし、そのほうらに報いるべし!」利家は、家臣にというより、天にでも聴かせるかのように宣言した。
そのあと魂魄はここぞとばかり、「わが一命と引きかえに、家臣領民を救いたまえ!」まさに、天にむけたる渾身の懇請として、いい放ったのである。
刹那、その高潔に「父上!」まだわかい利長は嗚咽し、
「殿っ!」と長瀬、すがるように発したが、そのあとは絶句してしまったのだった。
もはや、だれひとり声を発するものはなかった。
さすがの主従の目に、万感の涙が、ただ光ったのである。
また、はなれてはいたが、やがて情景を耳でしった城兵たちも堪えきれず、声をあげて泣いたのであった。