その遠因……嗚呼、かれがまだ十歳のときにこそ見いだせよう。それは、
ふだんの生活において想像できるはずのない、とつぜん感受したる刹那の悲嘆。
それが悲憤に変わるか変わらぬうち、心身をこおりつかせるにあまりある衝撃を、まだ庇護者がひつようなちいさな命は経験したのである。
凝視はむごすぎて、寸秒ももたなかった。ちょくごに気絶したからである。それでも、紅色におおいつくされた記憶は、角膜はむろんのこと、指のさきにまでいまなお刻まれている。
しんじられようか、目のまえによこたわった両親の、血でそまった刺殺死体。
それこそ、筆舌につくしがたい…絶望。
盆のひるすぎにかわした、「暗くなるまえに帰っておいで」とのなにげないいつものやりとりが、今生のわかれになろうとは。
それから二十七年。辛酸をわが身でしりつくしたがゆえに、他人の、とくにおなじような苦悩にたいしやさしく寄りそいつつ、さらにはひとに慈しみすらいだく度量の、それが源泉なのであろう。
どうじに、矢野一彦がデカになった、その基(もとい)でもある。
つまの真弓も上司の星野もぶかの藍出たちも、少年矢野がどれほどに過酷な体験をしたかよくしっている。
両親を惨殺されたばかりか、第一発見者となってしまったことを。紅い海に横たわる変わりはてた父と母をまえにし、そのまま昏倒したことも。
それでも小学校五年生はめげなかった、いや、その悲劇をじんせいの糧にまで昇華させた矢野に、かれらはみな、敬意すらいだいているのである。
「場壁は、目的達成のためならたとえ恩恵をうけない人々(“犠牲となる国民”と表現しなかったのは、場壁への愛の所以(ゆえん)か)が出たとしても切りすてるなさけ容赦のない政治家だと、世間では吹聴されています。ですが、個人のたちばにかえったときには、ほんとうに心優しいひとになります」
過去形にしなかったのは、愛するひとの死をいまだうけいれられないからか。「ですから特定の恨みをもつ、そういう個人をわたしは思いえがくことができません」
かのじょのまえでは政治家を脱ぎさったひとりの男であったと。事実であろう。ならば、政治や経済、およびそれにかんする人物のはなしなどという野暮をもちこまなかったのではないか。
「そうですか」犯人を逮捕してほしいにちがいないかのじょを斟酌(しんしゃく)(心情をくみとる)しつつ、ざんねんとの嘆息のこもった「そうですか」であった。
捜査の材料をえられないということは、犯人逮捕がとおざかるということだ。かのじょも辛かろうと。「ではどうでしょう、命のキケンをかんじられていたというようなことは?」
「以前、わたし軽いきもちできいたことがあるんです、政治家ってたいへんなお仕事ですねって。
すると、『どんな仕事もたいへんだけれど、きみがいうように、命をねらうやからがいることには正直閉口するね。政治家がひとりいなくなったくらいで、日本の未来が劇的にかわるわけではないのに…』って、もらしていらっしゃいました」
「それはいつのことです、つまり、最近のことをさしておられたのでしょうか」ならば、秘書にきけば具体的な名前をしりえるかもしれないのだ。
しかし否定のいみでちいさく首をふりながら、「国会議員になったときからずっと、だそうです。『当時からテレビ出演のおおかったぼくは、政治信念をズバリいい放つ若造だったから、でる杭はうたれるってやつでね』って、さびしそうにわらっておられました」そうつげると、涙にうるんだ瞳をふせた。
嗚咽を必死でたえているふうにみえた。
かのじょから事情聴取でえられる情報はもうないと判断し、使いなれたじぶんのスマフォの番号をおしえた、なにかおもいだしたら連絡をくださいといい添えて。これ以上わずらわせるのは気の毒とかんがえたわけだ。
慰めのことばをかけたかったが、迷ったあげくやめにした。そっとしておくことのほうが親切におもえた。ときが慰め、やがて蘇生させてくれるだろうからだ。
それで、さきほどのこたえにあったのこり数人の名前と職業などわかる範囲だけをきいて辞したのである。
その足は、つぎへとむかった。
小林晴香との関係をいちばんよくしっているのは元(議員が死亡や失職したばあいは、国家公務員特別職のたちばをはずれる)公設第一秘書の片山だが、かれは最後にまわし、ほかからさきに事情聴取をこころみた。
場壁を喪(うしな)ったことで、あけ渡さねばならなくなった議員宿舎などからの撤去や事後のさぎょうおよび葬式の手配などで、中心者たる片山はいまだにおおわらわだろうと推察したからだ。(どちらも元)第二秘書と政策秘書・私設秘書などの四人からはしかし、なにもえるものはなかったのである。
さて、その事情聴取だが、必要性のないアリバイをきいたりはしなかった。
うたがわれていると、変なプレッシャーをかけないほうが得策と判断したゆえにだ。各人には、動機をもつ可能性のある周辺人物をしらないかとだけとうたのだった。外部の人間だけでなく、秘書たちに不仲が存在すればいわゆるチクリあいをするだろうし、よって内部の被疑者の具現化も可能との手段をとったのである。
がけっきょくは、それも不首尾となったのだった。
晴香たちからえられなかった情報をもとめ、すでに元秘書となってしまった片山をたずねた。
「あくまでも犯人を逮捕するためですから、不躾(ぶしつけ)な質問があったとしてもご容赦ください」と前置きし、いまだ残務整理におわれているようすなので単刀直入にたずねた。
「小林さんが場壁氏の奥様公認だったというのはほんとうですか?」小手しらべに、かんたんかつ大事な質問からはいった。
片山は、晴香からきいたのだろうとけんとうをつけた顔で、「そのとおりです。まちがいありません。古希を再来年むかえられる奥様としては、『先生のお相手はできないから』だと、そうだいぶ以前、先生からきいておりました」とこたえた。
そういえば、場壁はまだ六十三歳であった。男として現役であってもふしぎではない。
「ほかに愛人はいましたか。とくに、捨てられたような…」
たしかに不躾だとおもいながら、「小林さん以外にもかこには五人、三年ほどまえまでのはなしですが。むろん、奥様非公認でした」そのときにもいろいろと下の世話をさせられたことをおもいだし、片山のきもちはまだらな青に変色していった。
「しかし、小林さんの愛をえるために、場壁はすべて清算しました。そのひとたちとはお金であとくされなく」元々は婿養子のくせにあつかましい、とは元秘書はいわなかった。
やりたくもない後始末だっただけでなく、ずいぶんな扱いもうけてきたのだが。
「ということは、かこの五人の愛人のなかに動機をもつ人間はいないとおかんがえなんですね」
「おそらくこの点もおききになりたいでしょうから、さきに申しあげますが」国会議員の元秘書だけあって、ことばづかいは丁寧だった。そのいっぽうで計算高かった。
「夫婦仲はとてもよろしかったです。姉さん女房だから、先生のたしょうのイタズラはゆるしておられました。そういうわけで、奥様に動機がある可能性はゼロです。それと、ああ、これはついでということで申しあげますが、ご家族にもおろかなマネをする動機をもったおかたはいらっしゃいません」妙に肩をもったくちぶりは、未亡人に、つぎの議員の第一秘書もわたくしでと、おねがいしていたからである。
場壁陣営としても、内情をしる男を野にはなつよりも活用しつつ飼いごろしにするほうが得策とかんがえ、内諾をあたえていた。片山秘書の給与なら、どのみち国費がまかなってくれることになるだろうと。
未亡人が捜査に協力的ではなかったとの報告をおもいだしながらも、さすがにそこまでは見ぬけない矢野ではあったが、仲がよかったというのは、選挙のための仮面夫婦と同義だとはかんじた。
また場壁じしんも、片山を懐刀的秘書として重宝していたのではないかと、目のまえの五十代の男性を見つめつつおもった。
「こんなことをいうと不知恩な人間だとおもわれるでしょうが、いまさら義理だてするひつようもないたちばです」現状、失業したことをさしているらしい。「ですから庇いだてはしません。ただ長いあいだ、ぼくも国家公務員特別職として税金でたべさせてもらっていた人間ですから」
在職期間等にもよるが、公設第一秘書が国から支給される給与はけっしてすくなくない。
「いらん手間をとらせて、税金のムダづかいはさけたい、ただそれだけです」
そうはいわれてもとうぜん、夫婦仲について翌日しらべた。私設をふくむ五人の秘書や場壁家の家政婦に事情聴取したのだ。そのけっか、片山の申述にウソはなかった。
というのも片山が、全員と口裏あわせをしていたからである。
「はなしがそれて申しわけありません。かこの愛人についてでしたね。確認のいみで申しますが、かのじょらはけっこうな手切れ金をもらっていましたし、それで、いわゆる愛情の縺(もつ)れ的な動機をいだく女性はいないだろうとぼくにはおもえてなりません」
かのじょたち全員が、ビジネスとして愛人関係にあったといいたいのだろうが、もってまわったような歯切れのわるいくちぶりは、政治家に倣ったのか、それとも出が官僚だからなのか?
「女性かんけいのなかに思いあたる節はないということですね。では、視点をかえていただいて」矢野は、今日いちばんのデカの眼で、標的の瞳のうごきを凝視している。
「ほかにはどうですか、殺意をもってもおかしくない人間にお心あたりは?」
元秘書は二度ほど首をひねったあと、「政敵がすくないほうではないのはご推察のとおりですが、だからといって立場のあるかれらが殺害などという愚をおかしたとは、とても…」
「ええ、そうでしょう。けれども念のため、そのひとたちの具体的な名前をおしえてください。これは殺人事件の捜査ですから、ご協力を」念をおした。
むろんのこと、数日かけて、敵対かんけいにあった政治家数人の動機を中心にしらべた。
慎重を期すためとうぜん、人員もさいたが、殺害の動機となりうるほどのものはでてこなかった。
基本、政治家どうしのたたかいは、政策を基(もとい)とする言論や各種の工作など(とうぜんながら、ウラ工作や足のひっぱりあいをふくむ)でもって、なされるものだ。
年になんどかある、スキャンダルやオフレコでの失言などの暴露による追いおとしがウラ工作の例だ。きたないやり口だが、これでけっこう、政治家生命を断たれた、どころか、じっさいにみずから命を絶った政治屋も数人いる。
日本政治史の本をひもとけば、実名を掌握できよう。
それはそれと、国政にたずさわる政治家たるもの、チンピラやくざじゃあるまいし、やはり、ちょくせつ手をくだす切った張ったは似あわないのである。
「わたくしがしるかぎり、場壁は政敵の恥部をリークするという手はつかいませんでした。じしんも脛にキズもつ身だったからです。その手法で政敵を追いおとせば、今度はじぶんにはねかえってくるわけで…」と、あとは政治家の秘書らしくお茶をにごした。
そんなようすを、矢野はだまって観察している。
すると片山は、おもむろにじしんのかんがえを述べだした。「おもうに、政敵なんかよりもはるかにつよい動機をもつ、たとえば、規制緩和や増税などの政策により不利益をこうむった企業や団体および個人。そのなかに、殺害動機をいだいた者もすくなからず…」
未亡人に、おもねっているようにきこえた。
「ただ、だとしても、時間が経過しすぎていて、しょうじき、いまさらとしかいいようがありません」総理の辞任からでも、八年はたっているのだ。国民とマスコミのおおくがつよく反対した数種類の法律の成立からだと約九年である。
「いまさら」にはたしかに一理あると、うなずかざるをえない。くわえて、退陣でSPなどの警備が手薄になったのだから、すぐにでもことをおこせたはずだと矢野もおもった。
ぎゃくに、どんなに強烈な恨みであったとしても、例外をのぞき時間の経過とともに風化し衰微していく人間の性(さが)にかんがみ、みじかいほうの八年でも待ちすぎてはいないか。
場壁の施策による被害者が犯人だったばあい、片山に指摘されるまでもなく、じつはこの点に、矢野はずっとひっかかっていたのである。
でもって、やがてこの“八年後云々”が、犯人像を浮かびあがらせるおおきなヒントとなるのだった。
だが、いまは五里霧の中にてたたずむ、不甲斐ない身でしかない。このあともいくつか質問をこころみたが、えるものはなかった。
それは、私設をふくむ秘書五人および事務員などへの、矢野係による再度の事情聴取においてもおなじであった。犯人像すら浮かびあがってこなかったのである。
さらには、家政婦をふくむ場壁家の面々からも…前回と同様、ざんねんの、散々なけっかしかえられなかったのだった。
矢野係以外の地取り(訊きこみのこと)捜査班においても、それには地元後援会への事情聴取などもとうぜんふくまれていたが、すこしも芳しい情報はでてこなかった。
けっきょく、場壁の行動パターンをしっている人間やその周辺を洗いだしたものの、そのなかから動機をもつに足るうたがわしきを見いだすことはできなかったのである。
となると、まったくの外部犯とみたほうがよさそうだ。しかしその仮定でいくと、事実上茫漠としすぎてしまって、とらえようがなくなったのである。
なさけないの一言だが、捜査本部の一部には、口にこそださないが、はやくも士気を減退させてしまった捜査員もでたのだった。
だがそんなやからはむろんごく一部で、おおくはじぶんの持ち場にたいし真摯に取りくんでいた。
その筆頭はむろん矢野警部である。
晴香のもとを辞去して以来、かれは深慮していた。元首相のお忍びのうわさを確認するために、犯人はどんな手段をとっただろうか。
SNSに因(よ)らなかったことを、サイバー班があきらかにした。
むろん、秘書などにきくわけにはいかないとなると、のこるは足でかせぐ的手段、つまり場壁の夜間の行動をしるべく、毎日あとをつけまわしたのではないか。
時間も労力もかかるが、そのぶん、かくじつな情報をえることができたであろう。ただし、被害者じしんやほかの目撃者にじぶんの存在をしらしめるという、最悪の危険性をはらんでしまう。
で、こうなったら、仮説ついでだ。狙撃をヒットマンにたのんだり、すこしでもそりのあわない共犯者とくんだりすると、ちいさな不協和音が発生し、けっか、想定の完全犯罪にアリの一穴をしょうじさせる可能性がでてくる。
ナノクラスのかすかな隙間すらできないくらいの信頼をもてる共犯関係でないならば、むしろ安全な単独犯行のほうが安心できる、そうかんがえるのではないか。
それで、比率的にはたかいであろう単独犯で想定したのだが…。
じぶんならそうしたであろうからと矢野。犯人は気づかれないようにと、おそらくは服装をかえ、変装もしそしてようやく、日曜の深夜に自宅からでていく元首相の行状をしることとなった。そのあとを数回つけることで、定期性があるだけでなく、時間(月曜午前零時三十分ごろ)まできまっていたおしのびだと確信できたのではないか。
しかも場壁は人体(にんてい)をかくすために、外出時にはかならずサングラスや帽子等を着用していることも、犯人はそのときあわせてしった。
おかげで、場壁がタクシーから降りたすぐあとだというのに狙撃できたのだと。
ただ、矢野の推論はここでとまってしまった。材料がついえてしまったからだ。
かれは、じぶんの憶測を上司の星野につたえた。
うなずいた星野にたいし、「被害者の自宅周辺に地取りをかけ、防犯カメラの映像もチェック(いいながら、徒労を覚悟していた。知能犯ならば、死角に、しかも日ごと、ちがうタイプのを駐車しているはずとふんでいる)します」と、とうぜんの方針をつげた。
地取りの具体だが、場壁邸のようすをうかがっていた不審人物や長時間駐車していた不審車両をみかけなかったか、訊きこみをかけたいと申しでたのだ。
星野はむろん、全面的に同意した。犯人が、車をつかっただろうこともふくめ。
タクシーに乗車した場壁を追尾する手段としてのアイテムであり、身を人目にさらさないためにも、の乗用車なのだから。
時期的にも、また、高級住宅街にはバイクだとあまりそぐわず、しかも目だちすぎるとかんがえ、了解した。
即日から十日間、矢野係は地取りに徹した。港区白金にて、旧大名屋敷跡地がなごりの閑静な高級住宅街、場壁邸はなかでも、ひときわ立派な屋敷であった。
界隈にては、たにんのプライバシーののぞき見を、はしたないとするひとたちが大勢(たいせい)だが、それでも夜間に不審人物をみかけたとの数人の目撃者をなんとか見つけだし、すぐに、矢野の推論をうらづける情報を入手できたのである。
それらを総合すると、今年(2022年)の十月五日からすくなくとも三週間かけての犯人らしき人物の不審行動であった。
ただし、いずれのばあいも不審者がのったそれは車種だけでなく色においても不同一だった。
「たしかにそうでした。停車時間や停車位置がです、おおよそ同じでした。だからいまおもえば、不審車両だったのではないか」と、その点を指摘されればと合点する、目撃者たちの異口同音。
さらに、ナンバーを見のがさなかった車好きによると、レンタカーだったと。
なるほど、事前の憶測どおり、食堂の定食のように、車は日替わりだったようだ。
で、一定のばしょに駐車していた理由だが、やはり、防犯カメラの死角をえらんだからであろう。そのへんからも、高い計画性をみてとれる。
そんな犯人ならばこそ、場壁邸やその近隣にあやしまれ、だれかに車のナンバーをメモされたら、かんたんに人物特定されてしまうおろかを、なによりもおそれたであろう。
ならば、メモさせないよう、さらなる工夫をしたのではないか。
犯人を斟酌するいつもの矢野は、そんな予想も事前にしていたのだが、それをうらづけしてくれるとしたら、目撃者の正確なキオクである。
うまく引きだすかは、矢野係の面々にかかっていた。
期待に、和田や藍出たちはみごとにこたえた。
不審者が、日によっては中年のサラリーマンふうであったり、わかい女性やおばさんだったり、とにかくまちまちであった。たんに別人なのか、同一人物による変装なのか、断定するまでにはいたらない証言だったのが玉にキズなのだが。
ただし、各人に共通項もあった。車中の、夜間におけるサングラスの装着だ。各人、形状はちがっていたようだが、それでも、人相を曝(さら)さないためとみてまちがいない。
いずれにせよ、想定の、同一人物による変装だったのなら犯人は、矢野が当初からかんじていたように、用意周到な知能犯となるであろう。
すくなくともこれで、複数でなくても犯行は可能との矢野の予想…それを不可能ではないと目撃情報が提示してくれたのである。
ともかくも、それぞれの似顔絵をかいてマスコミにも協力をえた。
だが、このときも有力情報をひとつとしてえられなかったのである。
これも矢野ならではのこと、すでにだが、不審者についての情報をえるまえから、矢野は場壁邸を中心に半径200メートル内の防犯カメラや監視カメラの映像を入手できないか、それぞれについてしらべさせていた。
しかし二か月ちかくまえということで、いずれも日にちが経過しすぎていた。映像はのこされていなかったのである。
期待できないとおもっていた矢野に、だが落胆はなかった。のこっていればラッキーとかんがえていたていどだった。
さて、そんな矢野警部以外にも、たとえば時間をおしんで捜査にあたっている例として、防犯カメラなどの映像を、数班にわかれ精査・解析している捜査員たちがいた。
狙撃現場ちかくに設置されたカメラの、それをである。とくに、逃走用の車をとめていた可能性のたかい駐車場の監視カメラに、重点をおいていた。
ただし、半径50メートルにしぼっても十数カ所、100メートルにまでひろげると駐車場は七十カ所以上あった。
いっぽうで、全タクシー会社(個人タクシーもふくむ)をつうじ、全乗務員に、例の遠映の一件(狙撃現場から百メートル設置の防犯カメラがとらえた映像)のコピーをみてもらっている。
が、のせたという情報は、いまだ出でず、だ。
で、けっきょく出てこなかったのだった。
ちなみに、現場に隣接する各駅周辺の防犯カメラにも、当たらせてはいる。
しかしバカな犯人ならいざしらず、あちこちに防犯カメラが設置されている駅に、のこのこ歩をむけるだろうか。
しかも深夜である。乗降客がすくないぶん、雑踏にまぎれる、なんてマネは期待できない。つまり、目につきやすいということだ。
犯罪者心理は、そういう状況をけっして好まない。
だったら、それよりも意味のある、べつに目をむけて捜査する…が、ベターであろう。
それで現在、駐車場の監視カメラにたいし、ひとつずつ目をひからせている。
だが、銃がおさまっているはずのリュックやカバン類をもっていて、しかも人相をかくす帽子やマスク、サングラスをしている人物を、遠映以外、見つけるにはいまだいたっていない。
それを捜査会議できいた星野と矢野が、同時にひらめいた。
犯人は、防犯カメラだけでなく、人目もさけながら、おそらくは駐車場の車のかげなどで装着物(マスクやサングラスなど)をはずし、たとえばリバーシブルのコートを活用しつつ、分解していた銃をば、コートのなかにかくしてしまったのではないか、だった。
でもって、リュックなどを廃棄するかすくなくとも最小化した、のではないか。
凶器の銃を、おおきなリュックにおさめたまま逃走したとおもわれていた犯人だからこそ、姿をかえたことで、この地から忽然ときえることができたのである。
この憶測をきいた捜査員には、さながらイリュージョンの種あかしにきこえた。
ちなみに星野らふたりのこのひらめきだが、いちどは防犯カメラで撮影されたにもかかわらず、その直後から卒然と姿をけした理由の、説明可能な、唯一の帰結に因(よ)った。
この仮説どおりだったとしたら、圧倒的な警察力であろうとも、もはやさがしだしようがないということだ。
だからといって、諦めるわけにはいかない。
それに、ほんのかすかだが希望ものこっていた。たとえ1%にみたなくても可能性はゼロではないということだ。
例せば、狙撃現場ふきんのコンビニや食事提供の店の防犯カメラ映像である。
食事提供の店と限定したのは、犯人には飲食をたのしむつもりなどなかったはずだから、で。居酒屋などで、じぶんの顔をさらす長居などしたら、よほどのアホウだ。
さて、こちらの班は駐車場担当班にくらべ、ざっと目をとおすだけでも三百倍超の労力をようしたのだった。なぜなら店舗数で十倍強(防犯カメラ不設置もかなりあったが)、確認するのべ時間でも、約三十倍見なければならなかったからである。
こんなムダばかりの労作業。
ではあるが、この捜査の意味するところ、もとは土地勘のなかったものがそれをえるためにじゅうぶんな下見をしていたであろうし、そのおりには、どこかで飲食をした可能性もあると、星野らと同意見の原が指示してのことだった。
だがけっきょく、どの防犯カメラの映像からもあやしい人物を見つけだすことはできなかった。
その理由だがつまるところ、狙撃現場ちかくの路上で、アルバイトがえりの目撃者が証言したのと同じ格好をした人間がうつっていなかったからだ。
だけでなく、歩きかた(歩容認証による個人の特定)や所作においても類似する人物を見いだすことができなかった。
だからといって、狙撃現場周辺を下見しなかったとの断定を、星野と矢野は避けた。
かつ、現在かあるいは過去において、この近辺で居住していたから、の見解もとらなかった。
狙撃をここときめたのは、犯人が場壁を追尾したけっかからだと既述した。土地勘があるから、犯人は狙撃現場をそこにきめた、は偶然にすぎるというものだ。
追尾とおそらくの下見のかいあって、あるていどの土地勘をもちえたではあろう。しかしそれだけでは、逃走経路の確保には、ふじゅうぶんなはずだ。
確保のための詳細をしるべく、下見に自転車をつかったのではとこのあと、矢野が憶測を披露、しかも、近場まで車ではこんでから?と。
なるほど、自転車だと、所作や歩きかたの癖を、映像がとらえるのは絶望にちかい。いうまでもなく、両手はハンドルにあり、足はペダルをこいでいるからだ。
星野に異論はない。
それで、駐車場の防犯カメラ映像を再点検したのである。このときも根気がいった。
狙撃現場から半径五百メートルの、月極ではない駐車場において、車から自転車をだした人物が、時期的にみて二人いた。
ところで、車のナンバープレートをみるかぎり、どちらもレンタカーではなかった。
場壁を追尾したときがそうだったからと注視したのだが、今回もおなじとはかぎらない。
で、狙撃現場方向に進路をとったのはひとり。
捜査員としては、特定するための手がかり、喉から手がでるくらいなのだが。ああ、ざんねんなことに、目撃者が指摘した被疑者の特徴といっても、帽子・サングラス・マスク・リュック・黒っぽいコートの五点だけであって、顔や手のキズとかおおきなホクロとかいうのではなかった。
狙撃ばしょや逃走経路を物色している時点では、銃をいれたとおもわれるリュックをもってはいなかったろうし、だいいち、コートや帽子・サングラスのどれひとつとして、犯行当夜とおなじものを身につけるなどは、ちょっと知恵のある犯罪者ならしなかったであろう。
よって、このままでは特定のしようがない。
あとは、二人のうちのどちらかでいいから、自転車を車にもどした人間を見つけるしかなかった。
憶測どおりなら、漕ぎながら逃走経路の選定をしたあと、やがて、自転車と車ともども消えさった、とふんだのだ。
だが時間経過のあと、どちらも自転車をもどすことなく、車は駐車場からでていったのだった。
映像からわりだしたナンバープレートから車の所有者を特定すると、捜査員は事情をきいてみた、ただし、交番勤務の制服警官姿になってだが。
それは、犯人に警戒心をもたせないためだった。そのうえで、「自転車盗難にあってませんか」とたずねさせたのである。
けっか、男のひとりは同棲していた女性の自転車を、出ていって日が浅いかのじょの気をひいてかんがえ直させようとおもい、渡しにいったと。気の毒にも、そんなことをしても女心にへんかなどおきないのだが…。
もうひとりは「残業のせいで終電にまにあわず、自宅がとおいので、カギのかかっていなかった自転車をついぬすんでしまい、翌日になって反省し」かえしにいったと、低頭しつつつげたのだった。
どちらも裏づけがとれた。
となると、下見時、犯人はあるいたのか、それともそうとおくない自宅から、自転車をこぎつつ逃走経路を選定したのか。
現段階では知りようがない。つまり、この方向からのアプローチも暗礁に乗りあげたというわけだ。
嘲笑う犯人のこえが、矢野にはきこえた気がした。
自転車を、どこかにおき捨てた可能性もあるが、犯人の指紋がわからない現在、こちらもたち往生である。
そんななか、原が執念をもって、以上の事案とは別途ながら並行してしじしていたある種の内偵捜査。ある種としたのは、巨大犯罪組織への潜入と比するには規模がちいさいからだ。
それにしても内偵捜査というやつにたずさわるのを、捜査員はイヤがる。
時間のわりに“遅々として”という表現がピッタリで、なかなかけっかがでない。それで苛立ちをおぼえることもしばしばだ。
また、捜査対象者にけどられてはいけない、という細心さに、神経をすりへらすハメに。
さらに、長びけば心身に疲労やストレスもたまる。それもこれも、ナメクジのようにおそい進展のせいだ。
そんな、スローな捜査の対象となったのが、既述の、クレー射撃をとくいとするキャリア官僚綾部だった。
かれにとって、場壁はたしかに“不倶戴天の敵”であった。
キャリアとして、順調に出世階段を他者よりも一・二年はやくあがっていただけに、天下りさきをつぶす場壁の規制改革と構造改革に、かげでだが、猛烈な異議をとなえたのだった。
そんなふうに強気になれた背景には、各省の垣根をこえたキャリア組の大同団結があった。
ところが当時、国民の支持率がまだたかかった場壁によって、足もとをすくわれたのである。
マスコミを中心に世論が白アリ官僚たたき、いや集中砲火をあびせかけてきたからだ。“諸悪の根源”とののしられつづけ、やがて大同団結は崩壊した。
それでも綾部は規制改革に頑強にはんたいし、ついには、みせしめのため閑職においやられたのだった。各省へのさらしものであり、島ながし的人事であった。
なるほど、これほどの冷遇をうけたからといって、そういうすべての人間が殺意をいだくわけではない。しかしそれでも、殺害動機としてはじゅうぶんだとおもえる。
ではアリバイはどうか。これについては内偵せず、直接本人にたしかめた。すると、確たるものがあった。日曜日もあいている行きつけのスナックでひとりでのんでおり、それを従業員のみならず、客も証言したのである。
原刑事部長を中心に刹那、諦念(あきらめ)のふかいため息がもれた。
が、矢野はちがっていた。一喜一憂せず、べつの可能性について、とうぜんといえばとうぜんの一般的な意見をのべた。
ところでべつの可能性とはいっても、あらゆる可能性を排除しないというかれの基本的理念がそういわせるのであって、ある理由から、綾部は犯人ではなかろうとじつはかんじている。
「本人にアリバイがあってもかまいません、プロのヒットマンをやとえばいいのですから。ただし、綾部を犯人と想定するにはいささかこまった点があります」
動機をいだいてから実行までに八年は、いかにもながい。今回もおなじぎもんだが、やはり、時間がかかりすぎてはいないか?という疑義は、星のない夜空のように、矢野を覆いつくしていた。
それでも犯人だとあえて仮定したばあいの、つぎの一手。「そこでです。ヒットマンを特定するか、少なくとも支払いと断定できるだけの、金線のめいかくなうごきを証明しなければなりません」
現場をしらず、捜査経験がすくないわりに手柄をたてたがる原部長にたいし、動機があることを理由に突っ走ることのないよう、ちくりと、クギをさしたのだ。
それにたいし原は「当然のことだ」と吐きすてた。不快げな眉でだった。「よって、以後も内偵をすすめてくれ」キャリアのプライドが露出した表情で命令した。
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