いつもの居酒屋に、矢野係の面々と星野管理官が揃った。星野が慰労の会を設けてくれたのだ。むろん、一部を除きほぼ彼の自腹。だが領収書を受け取ってはいない。
「おかげで府警の面目が立ったと本部長も…。だが、些事はこの際おいておく」府警の面目を些事というあたりに、星野の人格や思考のベースを垣間見ることができる。「金一封授与と併せて皆への報告がてらの雑談もこれで終わる。そんなことより今日までの約一カ月、本当にご苦労さま…」このとおりと、はにかみの笑顔で謝礼の低頭をした。「ただ、遺憾にも送検できん事件がひとつだけあったが、あれは君たちの責任やない。責められるはこの僕や。この場を借りて、力量不足やと皆に心から謝るしかない」星野は唇頭だけの軽い発言をする男ではない。悲しげな眉は謝罪を、きつく結んだ唇は謝意と無念を滲ませていた。
「管理官、頭をあげてください」矢野がすかさず言った。
星野の言、藤浪が当初扱った渡辺直人溺死の件であるが、最後まで自殺で処理しようとする上層部が頑として譲らなかったことを指している。
「そうです。管理官には何の責任もありません。自殺との断を下したこの僕が言えた義理ではありませんが、問題は、体面ばかりの上層部です」一番年若い熱血は、堪らず小さく叫んだ。早くも矢野色に染まった藤浪の吐露であった。不本意な断を下した六カ月強前の苦汁が心底よりこみ上げてきたが、それは自分個人のことと、おくびにも出さなかった。
そんな心中まではわからない藍出たち四人も、藤浪と同意の首肯をした。
「上層部への批評はおいておくとしても、管理官の力不足なんてとんでもないこと…。一同、同意見だと確信しますが、陰に陽にお力添えがあったればこその事件解決です」と、真情を吐いた和田も言葉以上に心地は熱い。
性格も年齢も持ち味もバラバラだが、矢野流デカ心得その二【犯罪者を決して野放しにはさせない】の想いだけは寸毫の違いもない彼らだ。異体同時に肯いた。
「ありがとう…」普段はクールな星野も、刹那熱いものがこみあげてきた。彼らの想いを手にとれたから。そしてなにより嬉しかったからだ。冷徹な素顔の奥、真っ赤な血潮がときに血管を破らんばかりの勢いで激しく流れる星野であった。激するからではない。自身の矜持(きょうじ)と信条のゆえだ。腹を決め、社会正義を構築せんがために警察官になった、その初心を片時も忘れず今に至っているのだ。経済の世界では“悪貨は良貨を駆逐する”のだが、彼の刑事哲学はそんな定理を許さない!しかし理想は孤立す、つまり孤高なのだ。それだけに彼らが同志であることを再確認でき、感謝の念が心に満ちたのだった。「さて、料理もビールや酒も準備万端。さあ、今や遅しや。今夜は痛飲しようやないか。乾杯!」
あとは無礼講となった。
ちなみに無礼講だが、鎌倉末期、幕府転覆の計を巡らす公家たちが六波羅探題(鎌倉が承久の変以降、朝廷の動向を探知するために京の都に設置した軍事・警察機構)の監視を欺くために、古来からの、禁裏を貴ぶ様式的儀礼を取っ払った形式の(偽装)酒宴を開いたと大平記にある…いわゆる正中の変。これを起源とする説が有力だ。…閑話休題
達成感からだろう、皆のピッチが速い。杯を重ねるにしたがい、多弁になっていった。
「ああ、それにしても、悲しみや辛いことの潜(ひそ)んだ事件が多かったですね」目の周りを紅くした藤川が早くも回顧しながら、溜め息とともに洩らした。
「この一連を俯瞰するに、人間の業というんかな」鼻の色だけがニワトリのとさか然の年長者和田が続いた。「人が人を害すれば怒りを生み、報復すれば恨みや恐怖が増幅する。恨みを晴らしたり、恐怖の根を力ずくで引き抜こうとすれば、あとは応酬となることも…」溜息をつくと「滅多にないことやが、応酬はのっぴきならない憎悪の泥沼の中に身を落とさしめ、ついにはその身をも滅ぼす」とし、やがて持論へ話題が向かった。「そんな愚かを幾度も繰り返し経験しても、否、し尽くしても、いまだ懲りず愚昧に明け暮れている。これが人類の歴史かもしれん。戦争はその最たるもんや。嗚呼、いつになったら、人間はこんな悪の連鎖を断ち切れるんやろ…」彼の心の響きであった。社会の拙さ、人間の頑蒙を嘆いているわけだが、決して美味な日本酒がすすんだせいではない。愚蒙を何とかしたい、その想いがデカの塊の和田を常に突き動かしており、今もつい洩らしてしまったのだった。
が、熱情家は和田一人では、もちろんない。「こんな席でないと考えないことですが」たしかに彼らは忙しい。「運命に抗えない人生は悲哀そのものですね」とこれも哲学的。藍出は性分からなのか矢野の前では正座である。楽にしろと言われても膝を崩そうとしない。
ならばと矢野は、いつも座布団を二枚敷かせる。
「社会的弱者ほどその傾向が強いのではないでしょうか。むろん、統計を取ったわけではありませんが」生真面目が四角四面の相に出ている。正直者がバカをみる社会が健全なはずはなく、「自分は警察官として何もなせていないのではと思うと、非力を憂い、もどかしさで歯ぎしりする思いです」と嘆いて盃を置いた。彼も酔っているわけではない。
「それは僕も、いや、皆も同じやろう」星野は隣に座る藍出の肩を抱くと、「だからせめて、犯罪者をのさばらせないよう、頑張るしかない。違うか」自分の想いを伝えた。好もしい健気な部下たちを見ているといじらしいなり、年の離れた弟を、いい子いい子する兄のような心境になるのだ。「社会における役割分担として、我々は悪い奴らを捕まえる。それによって、次の犠牲者を出させない。悲劇の拡大を最小限に抑える。その意味だけでも、藍出もそして矢野係の他の皆も社会に貢献してる、少なくとも僕はそう確信してるぞ」
たしかにそのとおりなのだが、矢野の眸はどこか虚ろげだ。悲哀と怨嗟に満ちた事件がかくも続き、それでも人は性善であると信じたい彼としては正直、ぐらつき出したからだ。嗚呼。絶望に沈んだ菅野拓子の父親の顔が、その言辞とともに脳裏に浮かんだ。事情聴取した折の、愛娘を手にかけてしまった夫婦の地獄の相貌。この人たちは、どれほどに大切な存在を喪ってしまったのか。今もまた、胸が絞めつけられるように痛くなったのである。
こうして、各自、デカたちの想いが溶けこむ宵は更けていった。
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