それでもこのときはまだ、救いはあった。創薬に忙しいさなかも、夫が支えきってくれたという真実。
それでもこのときはまだ、救いはあった。創薬に忙しいさなかも、夫が支えきってくれたという真実。
こういう事実、だからだけではないが当然のこと、愛息の死のときも精神の錯乱は(比較できないが)ひどく、また長くつづいたのである。
だからこそ支えあっていた夫婦の絆は、いっそう強固になったともいえるが。 いっぽうで、家族という視点からすると、寂しいかぎりの三人きりでしかなかった。
だが、夫婦ともにそういう存在はいなかった。こんなとき身近での頼れるひとがいないというのは、残念なことである。不幸ですらある。
せめて近しい伯父や叔母など、物心がついたころからの親族がいてくれれば違っていたのだろう。頼めばすくなくとも数日間だけでも、そばにいて慰めてくれるからだ。
たしかに、未亡人となった身を憐れみ、駆けつけてくれたのはありがたいことだと。
しかしながら、やはり違っていたのだ。
とはいえ、むろん地に足ついた状態ではなかった。
なるほど、親身になって、慰めてくれる友人たちも日替わりのようにやってきてはくれた。だがそれでも、救いとなることはなかった。
ただただ混乱のなか、警察署でおしえられるままに手続きをし、とりあえず遺体を引取ることがまずはできたのだった。
直後、年かさの担当官が個人の判断で、親切にも葬儀社に連絡してくれたのだ。
で、そこの社員に支えられ、喪主として葬礼の務めも、おかげでどうにか終えることができたのである。
ただただ混乱のなか、警察署でおしえられるままに手続きをし、とりあえず遺体を引取ることがまずはできたのだった。
しかし事実は変えようもなく、さらには人生最悪の日々も終焉することなく、綿々とつづいていたのである。
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