矢野警部が係長を務めるデカ部屋は、一昨日の宵から昨日そして今日と、凶悪事件に煩(わずら)わされることのない、平穏な日を送っていた。
ただし、今日はまだ始まったばかりだが。

彼らがいるのは、大阪府警察本部庁舎だ。二期工事も2007年に竣工、威風堂々としていてしかもまだ真新しい。
ときに、当時で六百十七億円の巨費を投じた、国内最大級の警察庁舎である。他県警等も羨む造形だ。
各階には大きなガラス窓が設置されている。そのため、今朝のような好天に恵まれると、まだまだ眩しい、とはいえようやく秋らしくなった陽光が射(い)こんでくるのだ。

日溜まりと、事件を抱えていないという久々の手持ち無沙汰のおかげで、すっかり気の緩んだ藤川巡査長。コンピュータに対する精通度は大阪府警察本部随一なのだが、間延びした声とともに思わず大欠伸を、上司の前で披露してしまった。図体がでかいぶん、音声もそれに見合っていたから目立たないわけなかった。

同じ藤川姓でも、元阪神タイガースの背番号22はクローザーとして試合を閉める達人だったが、こいつは名前負けしていて、呆けた顔はどうにも締まらない。のっぺりした凹凸の少ない平板面で、表情にも乏しい。動物にたとえるなら、精悍とは対極のナマケモノにまさに生き写しか(これは失礼)。そこまではないにしても、かなりの馬鹿面なのに、救いがたい間抜け顔を皆にお披露目したのである。しかしご面相からは想像できないが、正義感と勇気は人一倍だ。また同僚として付き合ってみないとわからないが、観察力や記憶力、それと機動力にもみるものがあった。

矢野警部は、そんな有能をかっている。

藤川の斜め向かいに座る、先日昇進したばかりの藍出警部補。彼の、切れ長の眼から発した鋭い光がほんの一瞬、藤川を射た。ネコ科の、さしずめチーターに似て精悍な顔つきをしている。中肉中背、デカとしては恵まれた体躯とはいえないが、見た目どおりの行動力だけでなく、知能でも一目置かれる存在だ。だがじつは逆境にも強く決して諦めない忍耐の人、また努力の人でもある。そんな藍出だが、矢野警部ならやんわりたしなめるやろうなと考えながらも、あえて咎(とが)めだてはしなかった。一つの係とはいえ、捜査一課が暇ということ自体喜ばしいことで、たまには無聊を満喫させてやるのもいいと思ったからだ。
そこへ、朝一番の番茶が運ばれてきた。運んできたのは新米デカの西岡巡査、二十六歳である。今年の春に刑事に昇格し矢野警部の下に配属されてまだ二カ月だけに、さすがに、欠伸(あくび)を披露するようなぶざまはしない。仕事面では暇を持て余しているのだが、精神的には緊張感で張り詰めているからだ。そんな彼の第一印象はシャープそのもの。吊り上がった眼に鼻筋の通った相貌、身体も細作りでしかも長い四肢、そのせいでハーフかクォーターのモデルと間違われるのだが、本人は嫌がっている。デカに似つかわしくないゆえだ。

藤川は「贅沢言うな、なんなら変わったろか」と先輩風を吹かして言うのだが、どだい無理な話。無いものねだりされても…、と西岡はそのたびに心中呟くのだった。

番茶を机の上に置きながら、後輩思いの藍出に訊いた。気さくで、いちばん尋ねやすいのである。「警部補。今朝に限って遅いですね、警部は」矢野という人物は、通例なら朝いの一番に机の前に座っている仕事人間だと、着任三日目には把握したからだ。
「今日は前の奥さんの祥月命日や。それでお墓に参ってからこられる予定になっとる」藍出は、新聞の社会面に眼を据えたまま答えた。陽光のかげんか、キラリ、婚約者とのペアリングが左手の薬指で光を放っている。その、幸せの彩光以上の眩さを放っているのが彼の眸であった。自分こそが警部の一番弟子だとする自負心からの強烈な射光だ。一番弟子を自慢するほどに矢野を敬重しているのである。部下になってすでに十一年目であった。
そこへ、「まさか、ズル休みやとでも思たんか?」無聊に任せ話に割って入ってきた男。「それともあれか。いたはらへんと淋しいんか?まるで、鑑識の新井貴美子巡査といっしょやなあ」そう揶揄したのは、岡田巡査長であった。昨年、三十路を越えた独身の岡田君、他の部署の女性警察官のフルネームを知っており、しかもスラスラと披露した。それだけで恋心をさらけ出してしまったのだが、加えて、本心の露呈に気づいてすらいないのだ。被疑者を心理的に追い詰めたりの駆け引きも必要なデカとしては、まさに前途多難である。恋の成就の方はさらに、か。それでもめげないところが、岡田の良いところかもしれない。
その容貌はというと、まさに天性のデカ面だ。笑っていた子が泣きだすくらいの強面で、凶悪犯罪者の方がよほど柔和にみえる。そんなわけでイケメンばやりのこのご時世、恋愛を成就するにはやはり多事多難だ。顔など無くても構わないくらいの寛容な女性を紹介してもらうしかない、か。まあ、そんな奇特な適齢期がいればの話だが。ただ、こんな人物紹介だけで終わってしまうとどこにも救いがなくなってしまう。それでは可哀そうだ。たまに、思わぬところで代打逆転サヨナラ満塁場外ホームランを打ったり…は、残念ながらないが。これからもないとまではいえない、と思ってやりたい。それでも、ボテボテの内野安打で勝利に貢献したことは何度かあった。また、ごくたまにみせるタイムリーポテンヒットや振り逃げ勝利打点も。これらは、むろん草野球の話ではない。事件に関し、先輩への質問や普段の何気ない言動で、事件解決のヒントをポロリ提示したことが何度もあったからだ。
それで矢野は、岡田をかっている。

こいつにしかできん技やと。発想の基盤が違うからやろう、きっと。