星野の執務室にて。矢野警部は、「拓子が大阪市近郊で独り住まいをしたのは、復讐前後の心身の異状を、両親に覚られないためだったのではないでしょうか。そして復讐のあとも両親と同居しなかったのは、大罪に穢(けが)れた身心を四六時中、両親に曝したくなかった。むしろ、曝せなかったのかもしれません。僕が感じた父親の印象ですが、《渇しても盗泉の水は飲まず》という質の人物ではないかと。それで拓子にしても、厳格な父親との同居自体、針のむしろに座らされているような日々を想像したのでしょう。しかしながらといいますか、だかかといって、特殊映像づくりの仕事に復帰するために再渡米したのでは、両親にとってはあまりにも酷だと。うちひしがれている両親にすれば、残る一人の子供まで失ったに等しくなるわけですから。それで、いつでも会える大阪に留まったのではないでしょうか」で締めくくった。こうして報告をし終えたのである。
目を瞑ったまま受けていた星野。技量を日本で活かさなかったのは、検定合格の資格がなかったからか、警察がやがて自分に疑いを向けてくることを恐れたからかとも考えつつ。
重い沈黙が、しばし二人を包んだのだった。やり切れぬ想いが二人の心を支配した。
ややあって、――果たして?…――二人同時に、疑惑が去来したのである。
「じつはな、以前から気になってたんやが、拓子の転落死…、はたして単なる事故なんやろうか?」そう、先に口にしたのは星野であった。
「ええ、疑う余地ありですよね。というのも、ブログにあった【好意を寄せられること自体迷惑】の記述です。たしかに、男からの求愛を、どこか心待ちにしていると読めなくもありません。ですが、拓子に心を寄せる男がいたとみる方が自然ではないでしょうか」
肯いた星野、「拓子という女性は自分の夢を果たすため、学生の時からCG技術習得に励み英会話力も身につけた。人生の設計図を若くして描ける、そんな聡明さを感じずにはいられない。また、証拠の映像を探し出して解析し、妹の死の真相にも辿りついた。加えて、完璧に近い計画犯罪を練り実行もした。つまり、論理的思考ができる頭の良さは並大抵ではない。そんな女性が、好意を寄せる男を望むような夢想をしたとは、僕にはどうしても思えない。拓子には似つかわしくないというのか、違和感すら懐くんや。なるほど、女心は理解しがたいし、人間という生き物は多面性を持ってる。しかし…」首を傾げた。
「僕もそう感じました。しかも、妹を失った悲しみが癒えていないのに、一方で、男関連の夢想をしたとはとても。むしろ逆で、男なんか全く信用していなかったに違いないと」
「それにな、もうひとつ気になるのが、【というより何だか怖い】のくだりや」

先述の【迷惑】に続く記述のことである。

星野は続けて、「男は裏切ったうえに、保身で妹を殺した。これがトラウマになってないはずがない。よって、愛を語りかける男がいても信じれるわけがない。【何だか怖い】は、当然の心境やと思う」そう推し量ったのだった。「それに、【社会的地位や経済力があったとしても】云々、具体的に過ぎひんか」そんな男がいたと読みとる方が自然だというのだ。
「管理官も、言い寄っていた男の存在を感じておられるのですね」自分も同感だとし、「ただし地取りからはそんな男、いや、微かな影すら浮かび上がってきてません。それで確信できないでいたのです」尊敬する上司の発言を初めて知り、心強いと受け取ったのである。

とはいっても、所詮、心証でしかない。今のところ、確証は何もないのだ。

「疲れてるやろうけど、拓子を事故死とした調書を徹底的に洗い直してくれへんか」
矢野とて、もとより、そのつもりだった。

開いた調書を前に、翌日も星野の部屋で向かい合っていた。
「拓子が勤務先で男を避けていたことは、地取りにより明らかです。男を信用できなかったからで、それなのに、夢想とか将来への予想を記したなんてどう考えても。むしろ当時、好意を寄せる男がいた、の方が自然です。だからといって、彼女の死に関係しているとは、少々飛躍に過ぎますが。そこで父親に電話しました」携帯の番号を聞いておいた。矢野の八歳年上の姉で、精神科医の幸(みゆき)が休日に実施している、“被害者とその家族、擁護と支援の会”という、心痛や心労を軽減させるためのボランティア診察を受けてほしいと申し入れる心組みだったからだ。父親の先日の呟きに対する、答えのつもりでもあった。

同じ境遇の幸も、違う立場で、犯罪被害者と家族を少しでも救援したいのだ。
「で、葬儀にそれ風の男が現れたかどうか尋ねたんやろ?けど来てへんかった」訪問時の矢野に、父親がその辺りを告げていなかったことから、葬式には現れなかったとみたのだ。
「お察しのとおりです。それにしても、何もかもお見通しとは、正直参ります」むろんお世辞や追従(ついしょう)の類いではなく、実際、感心しているのである。
ちなみに、矢野が父親に問うた内容は、列席者の中に住所が大阪市内かその近郊で、正体を明かさなかった男、あるいは悲嘆にくれすぎていた男はいなかったですか、だった。
父親自体、葬儀のときも尋常な状態ではなかったので、「断言はできませんが」と断わりを入れたうえで、そういう男の存在を否定した。「ただし、『記憶違いということもあるので、会葬帳を今夜見て、もう一度記憶を呼び覚まします』とのことでした」

翌朝のことだが、大阪市内かその近郊在住の見知らぬ男は、勤務先から一名ずつ男性が列席しただけで、あとは親戚縁者がほとんどのこぢんまりしたものだったと。同級生らしい男性も数人いたが、彼らは大阪を通勤圏にするには遠い、地元の者ばかりだったとも。

これらの情報から、思いを寄せていた男は列席しなかった可能性が高いとみていいだろう。薄情だったからか、それとも…。
「転落死に関係してしまい、これ以上拓子に関わると身の破滅に通じるから参列を避けた、そうみることもできるな」すでに写真で見知っていた星野は、美形だった拓子の容姿を思い浮かべながら、いい寄っていた男について想像した。「少しも振り返ってくれない拓子に、《可愛さ余って憎さが百倍》まではなかったかもしれんが、自尊心を傷つけられ、男は小さな復讐を試みた」こんなふうに何ごとも疑ってかかるのは、刑事の性だろうか。
「可能性ありますね、ストーカー的異質な愛情と憎悪がないまぜとなった男の匂いが、ブログから感じれますしね」【なんだか怖い】の記述を指している。「そして転落死した夜、男はその場にいた、もちろん憶測であり立証はむずかしいですが。ただ、彼女の生活パターンは定則性にすっぽり収まっていますから、ストーカーならずとも彼女を尾行、あるいは探偵社に依頼すれば、住所や勤務先それに帰宅時間くらいなら簡単にわかったでしょう」
「そうやな」星野は同意した。「喧騒な声を聞いたり、ゲソ痕などの争った形跡はなかったとあるから、揉み合ったはずみで転落したり、まして突き落としたりがあったとは考えられんが、だからといって男がその場にいなかったことにはならない。何ごともなく、ただ雨の滴に足をとられて転落したと推定するよりは、予期せぬことに驚き転落した、その方が可能性は高い」表裏(おもてうら)両ブログから感じ取れる慎重居士な性格の拓子が、両手を荷物でふさがれていたにしろ、雨の滴に足をとられるほど迂闊だったとする方が不自然というのだ。

車中での親父さんも同意見だったと思い出した。昨今の変質者等の犯罪多発から、その女性も慎重だったはずとの理由をつけて。「管理官がおっしゃったとおり、聡明な女性です。人生設計を、高校生の段階で立てていたくらいですから」と、星野と同意見の矢野。「実家を離れて約九カ月、自宅としたマンションにはエレベーターがなく、Pタイル貼りの階段でしかもところどころ滑り止めが剥がれていた。だから雨の日は滑りやすいくらいわかっていたはずです。当然気をつけて上っていたに違いありません。だとすると、特別な原因もなく足を滑らせ転落したは、いくらなんでも説得力ゼロ。雨で床が濡れてるなんてのは特別なことではありませんからね。たとえば、男が玄関前で座って待っていて突然立ち上がったとか、うしろから急に声を掛けたとか。で、その線で洗い直そうかと考えています」
「転落の原因はそんなところやろ。けど、はたして男を特定できるか、それが問題やで」とて、矢野の顔を凝視した。「はは~ん、何か思いついてるな、その眼の輝きは」
「可能性は、ゼロではありません」矢野がこの言葉を口にしたとき、自信が少なからずあると誰もが知悉している。「名刺です。拓子は、殺した警部の名刺を保存していました」

捨てるのはいつでもできる。残しておけば、あるいは何かの役に立つこともと考える女性だったのだろう。
「とすれば、告白するにあたり、彼女を安心させるためにその男は名刺を手渡し、身分を明かしたのではないかと。それは自身の肩書や身分にある程度以上の自信を持っていたからで、ならば、男の名刺が保存されていても不思議ではありません」

星野は、【たとえ社会的地位や経済力があったとしても】を基にした推測だなと思った。
「早速父親に連絡して、先方の都合がよければ再度の捜索をお願いしてみます」