そんな強要をしたときの夫の形相と声のすごみ、幼稚園児から知っているが、はじめてみせる別人であったと。
企業生き残りをかけ株式公開買付等のM&Aののちは世界第五位、日本最大の製薬会社となったその新薬開発部の部長兼平取締役をつとめている夫は、むかし人間で会社に忠誠をつくす、サラリーマンの鏡のような男だった、ようだ。
しかも、合流会議の冒頭で誓約書をしたためさせられたこともあり、プロという名の仕事人としてはさすがに、議題についての具体までを漏らすことはしなかったのである。
「わかった、決して口外しない。約束するわ。だからお願い。もっとわかるように言って!」
初めてじぶんに見せた形相のウラにひそむ原因を知りたかったのだ。いな、知らずにはおれない心境の妻であった。「霞が関の役人に、なにを言われたの」
「……」興味本位では無論ないことくらい、わかってはいたのだが。
「まるで、悪霊か死神にでも憑りつかれたみたいな顔色よ、あなた…。悪質な違法行為って何がなの、誰にもいわない、約束する。だから私にだけは正直にうち明けて、ね、このとおりだから」
だが無言のままであった、やはり。
「黙っていてはわからないわ、なにがあったというの…。お願い、お願いだから」と、真剣の光をたたえた目のまま手を合わせたのだった。
しかしいくら懇願されようとも、ただただ首を横にふるのみ。額から噴きでている汗をぬぐうことも放置したままに。
そしてようやく、
「すまないが、内容は、口が裂けてもいえない。恃(たの)む、会社での立場をわかってくれ」とただそれだけ。あとは首(こうべ)をさげたまま、口を開こうとはしなかったのである。