翌朝、藤川のパソコンを中心に皆が扇型を描くようにして犇(ひしめ)きあい椅子に座っていた。
拓子の実家から前夜持ち帰ったUSBメモリーに収録されていた秘密のブログを、藤浪の翻訳で聞き終えた直後の情景である。寝耳に水であり、驚天動地の内容に、誰ひとり、声を発する者はいなかった。なぜなら自白だけでなく、ブログには妹殺害の犯人を特定していった経緯も、米・日の警察等で受けたひどい応対についても詳述されていたからだ。
沈黙を破ったのは和田だった。「確かな証拠ですね、菅野拓子が犯人だったとの」さすがに重い口である。「それにしても、動機が妹の仇討ちだったとは…。意外でした」
しかし、恥態を曝したまま絞殺された警部が拓子の妹の仇だったというのは事実なのか。拓子の思い違いの可能性も、今の段階では否定できない。当然、検証する必要があった。
のみならず、じつは検証すべきことが他にも存在したのである。
「妹と二人だけの写真の裏にこれを隠していたのは、仇討ちしたことを暗黙のうちに妹に伝えたかったからでしょうか」フェミニストの藍出が続いた。
「おそらくな。プラス、他にも理由があるとみてる。妹の死の背景(俊子は婚前旅行と思っていたが、厳格な父親はそれをふしだらとして許さないだろうゆえ)と仇討ちを果たした件を両親には知られたくなかった、辛く酷(むご)いだけでなく、一層悲しむからな。それで、万が一見つかったときのために英文にした。さらには、鎮魂としての意義と秘密の共有のためもあったかもしれん」矢野の暗い声は小さく、そして明らかに打ち震えていた、悲しみと怒りでだ。その怒り、じつは自分たち警察にも向けていたのである。
ところで、動員された二百人近い警察官を手玉にとって迷宮入り寸前にまで追いこんだ拓子だ。怜悧でないはずがない。それほどに聡明な彼女がブログにあったように、捜査依頼を結実させようと涙ぐましいほどに精一杯の言動で説得し、なんとか妹殺しの捜査をと必死で懇願したのである。また、真相究明のために東奔西走もしたのだった。
一方、記述は虚偽で、それをブログに残したとする見方も可能ではある。が、虚偽を残す理由など皆無であると矢野。彼女は、ひとに見せるつもりなど全くなかったからだ。
さらには拓子のことだ。説得に失敗しても諦観を排し、警察が捜査を開始するための方途を考え抜いたに違いない。また、働きかけもしたであろう。それは、想像以上に孤独な闘いではなかったか。矢野警部は、彼女のひたむきで健気な姿を思い浮かべたのである。
だが警察という組織は、ついに、被害者家族の懸命の声に耳を傾けることをしなかった。
絶望に堕する扱いをされ、日ごと夜ごとのぼうだの中、諦めざるを得なくなった。最悪の事態にもはや、腹をくくるしかなかったのである。結句、復讐以外に、鎮魂の手段は無くなってしまったのだった。そしてまごうことなき、最悪の結果をもたらしたのである。
それでも復讐以外の選択を考えなかったのか?と問えば、大切な肉親を殺されていない人の質問だと即座に答えたであろう。察してあまりある被害者家族の憾みが、矢野なればこそ心に痛かった。
ともかくも、警察は仕事をしなかったのである。それが口惜しいのだ。そのうえで、被害者家族を犯罪者にしてしまい、さらに犠牲者まで出したことに、激憤したのである。
「曽根多岐署に問い合わせてもいいですか。こんな通り一遍の応対をしたとは考えたくないですが、今日までの警察一連の不祥事を具(つぶさ)にすると、拓子が虚偽を記したとはとても…」藤浪が、憤怒を押さえて提案した。藤川をはじめ、矢野係の総意であった。
「そうしてくれ」矢野は当然だと即答した。「それから、藍出はこの動画を“こば”さんに頼んで解析してもらってくれ」と、件(くだん)のUSBメモリーを手渡した。
その“こば”さんとは、鑑識課の係長、小林繁男のことである。

小林を指名したのは、多少の無理も聞いてくれる信頼関係があるからだと、藍出は認識している。そして彼は、どこを解析してほしいかもわかっていて、それも伝えるつもりだ。

ところで「この動画」だが、ネットの掲示板やツイッター等を活用したおかげで情報を収集できたと秘密のブログに記している、妹の転落前後の周りの声や転落後の証拠映像を指していた。拓子はこれを根拠に妹殺しの犯人と断定、警部を全裸にし復讐したのだった。
だからおそらく、いい加減なものではないはずだが、映像や音声に不鮮明な個所があるに違いないと。冒頭を見ただけだが推測するに、観光客が市販のハンディカメラで撮影しているだろうからだ。それをそのまま事件の証拠とはしたくなかったのである、海外でのこととはいえ、一度は事故死として処理された件をひっくり返さねばならない。疑惑を差し挟めないほどに確かな証拠でなければならない、矢野はそう考えたのである。

一方、星野はこのあと、府警本部長室にて事件解決の目途が立ったと経過報告をした。

犯人逮捕には至らないが、事件解明ということでマスコミ発表できそうだと、本部長は納得七分目で黙って聞いていた。ただし、犯人がすでに死亡しているため、被疑者死亡で大阪地検へ書類を送致するしかなく、それで一件落着となる。

「菅野のブログにあったとおりでした」藍出は、息を切らしながらデカ部屋のドアを開けるなり叫ぶように言った。それから、「うちの係には便宜をはかるようにとの通達が本部長から鑑識にあったらしく、いの一番で解析してくれました」と小さく付け加えた。

ところで菅野拓子だが、名の通った映像製作専門学校卒業後、反対を押し切って映画作りの本場ハリウッドに身ひとつで渡った。そのための準備は万全で、少しも弛(たゆ)まなかった。
まずは、高校生のときから英会話力習得に励んだ。専門学校での成績も常にトップだった。在籍中に専門学校のつてを使い、ハリウッドにある大手のCG製作会社への就職希望も伝えてもらった。卒業の半年前、力量次第では採用するとの返事までもらっていたのだ。先方が提示したハードルの高い実地試験をクリアした結果、念願が叶い渡米したのである。
就職後、彼女は仕事に専念、というより没頭したというがまさに相応しく、おかげで四・五年ですでに中堅クラス以上の腕前になっていたと、父親は涙ながらに語っていた。

例の、死者を冒涜するためのAVまがいのCG映像は、彼女には朝飯前だったに違いない。また、CG-ARTS協会が主催するCGエンジニア検定試験一級合格者リストから、被疑者として浮かび上がってこなかったわけだが、矢野も和田もこれで得心がいった。彼女が腕を磨いたのは本場であり、上記の試験すら受けていなかったのである。

そういえば、菅野からの予約を受け付けたXXホテルのフロントクラ-クが、米語なまりだったと証言していたが、これも肯けた。
ただし矢野だけは、フロントクラ-クの証言や調書の検定合格者リスト云々などから、父親の述懐の前に、その可能性をすでに推測はしていたのである。
CGの本家本元は、なんといってもハリウッドなのだから。

十四の眼が凝視している解析された映像には、ナイヤガラの滝がはっきりと映っていた。
菅野拓子の妹俊子が川に転落する時間帯、そこにいた日本人観光客がハンディカメラで収めていたものだ。新婚旅行で来たカップルらしいことは、交わされている言葉でわかる。直前までは、当然ながら新妻と背景のナイヤガラの滝を写していた。さらに、別の男が発した日本語も入っていた。その部分も解析され、別物としてテープに収められていた。
この、聞き取りやすくなった声を矢野が耳にするのは、少しあとになる。
ところで藍出が先に鑑識で知ったその内容とは…拓子が殺人事件だと警察に強く主張した根拠となる言葉であった。つまるところ、俊子に(ナイヤガラ川への落下防止用)柵を跨ぐよう、男が指示しているものだったのである。声は、カメラの左側を発生点としていたが、それがじつは大事な要素であった。誰のであったかを高い確率で推定できるからだ。
男が指示する声から二十秒後、突然、
背筋の凍るような、若い女性の金切り声が響き、カメラはその方向、左へ十五度ほど角度を変え転落直前の叫びの発声点に向けられた。その地点に寸前までは人がおり、今は存在しないことが続きの映像で判断できた。観光客が皆、激流に向って指をさす姿とそれらの男女が入り乱れるように叫ぶ英語・日本語・他の外国語の興奮の声が収まっていたのだ。
崖から落下した俊子が川に呑み込まれた直後の状況を撮ったものであることは間違いない。拓子はそう解釈した。微かに、水しぶきの発生音も入っていたからだ。

直後、一人の男の背中が画面の左側を占めることとなる。撮影者の左側に立っていて、そこから前方へ移動したからだろう。一瞬だが、背中が走っていった。右手首には、用無し扱いのカメラがぶら下がって揺れていた。いやいやをしているようにみえた。二秒後、他の観光客を押しのけ、崖に設置されている柵に対し何かをしているようにも見てとれた。短い時間だが、両手がゴソゴソ動いているふうだったからだ。しかしそれは、拓子の隠しブログの記述に影響を受けた観察といえなくもない。なにせ、男の後ろ姿が撮影角度的に死角を作り、男の行動をそうだと断言できる状態にはなかったからだ。そのあと振り返った男の右手に、幅4センチほどの黒くて長いものがとぐろを巻くようにして、あった。
その物体は、拓子のブログによると、“男のベルトに違いない”だった。
ところで一瞬だったが、ふり返った男の顔が彼らの眼に留まった。カメラを向けられていたことに気づいたのだろう、男はすぐに顔を伏せて隠したのだが。
「あっ!」皆が息を呑んだ。その顔には全員、見覚えがあったからである。

じつは妹俊子の、この転落の時間帯、拓子はハリウッドにあるCG製作会社の一室で仕事をしていた。ようやくその日の仕事を終えての帰宅後、事故と断定した警察発表を、“観光客ナイヤガラ川転落”の続報として、テレビニュースによって初めて知ったのだ、自宅のリビングでテイクオフの中華を仕事疲れの身体が食べながら。
ちなみにこの時点では、転落者の遺体はまだ発見されておらず、氏名は当然わかっていなかった。翌日、溺死体として発見されるのだが、数分程度の検視のみで解剖にはまわされなかった。すでに、事故として処理されていたからだ。
もし検死解剖していたら、俊子が妊婦であったことを姉は知ることになったであろう。
由って拓子は、男の殺害動機を推測できたに違いない。結婚を迫られ続けたからだと。
ついでにいうと、海外からの観光客の事故だから、まさかその姉がロスにいるとは、地元警察も思っていなかった。彼女に連絡がいなかったのもいた仕方なかったのである。

ときに、このニュースを見た途端、拓子の箸がピタッと止まった。
(非科学的と揶揄(やゆ)する向きもあろうが)きっと虫の知らせや、と姉は信じた。たった一人の可愛い妹のことは、太平洋をはさんでいても片時も忘れたことがない。そんな俊子が、
婚前旅行と称し渡来した。幸せ満身の妹が彼と、今日はナイヤガラの滝に来ていることも知っていた。出発一カ月前から何度か、その旨をメールで送ってきていたからだ。関空からも送信してき、ロス経由バッファロー行きの到着時間、ナイヤガラ観光等も書かれていた。そのあと、ニューヨークでの観光を済ませたら、彼を紹介するために“ハリウッドに行くから待ってて。それまでは彼の全貌、一切、内緒ね。サプライズとして楽しみにしてて”ハートマークで締めくくられていたのだった。
――姉の私が嬉しくなるくらい、本当に幸せそう――と、拓子までがフワフワになった。
そんな浮かれの極みの俊子が、まさか最悪の奈落に墜ち、濡れネズミで果てようとは。
論理ではなく、拓子はそうとした。一方で矛盾と自覚しつつ、受け入れ難くあり得ないと否定したいのである。だいいち、根拠が薄弱だ。が、それでも涙の確信をしたのだった。

ときに、拓子という女性は元々、《虫の知らせ》なるものを信じる質ではなかった、にもかかわらず、刹那、感じたのである、妹の弱々しい声を。――私の亡きがらを引き取りに来て――との妹の悲痛が、耳の奥底(おくそこ)で直接響いた気がしたのだった。

心は千々に乱れ、――そんなはずない!――と否定する、こちらも根拠ない楽観として。それで思わずテーブルに置いていたスマフォを手に取ると、震える指で妹を呼び出した。
電源が入っていないとの応答が虚しく返ってきただけだった。倍加する不祥。
嗚呼。しかし今、いくらここで案じていても埒があかないと、震える指で地元警察に問い合わせた。だが夜間の捜索は、二次災害のおそれがあるだけに実施しておらず、由ってニュース以上の情報を警察としても持っていないと言下に。
他方、確証がないために警察に向け、転落者が妹だとの断言もできず、全てが中途半端なまま電話を切るしかなかったのである。

食欲がすっかり失せた拓子は睡眠導入剤を普段の二倍噛み砕き、とりあえず、今は眠ることにした、取り越し苦労だと、心配症のもう一人の自分に無理やり言い聞かせながら。
翌朝早すぎる出社をし、担当している仕事をこなし始めた。かたがつき次第、《虫の知らせ》の実体を調べるつもり、なのだ。心に浮かび上がった、根拠なき確信が事実かどうかをすぐに調べなかったのは、確証もないのに仕事を放擲するわけにはいかないからである。
つまり、今日木曜朝ぼらけの出社は、遠く数千キロメートル離れたナイヤガラに行く時間を捻出するための精勤であった。
託された木・金曜の担当分を完遂し、気づくと窓の外はすでに暗かった。同僚はもはや数人しか残っていない。そんな彼らに声を掛けることもせず、ガチガチに固まった肩と首をまわしながら、ただひたすら会議室兼休憩室へ急いだ。ともかくもテレビをつけ、二十四時間報道番組に切り替えたのである。
画面に映るニュースの内容とは全く別の報道が、テロップとして次から次へ画面の下を流れる中に、疑心暗鬼だった拓子を悶絶させるニュースがあった。
ナイヤガラ川の滝よりも下流から溺死体があがり、服の下に着けていた貴重品入れから出てきたパスポートによると、【菅野俊子、二十五歳と判明】がそれだった。

悪魔がもたらしたのごとき《虫の知らせ》が、最悪の現実となってしまったのだ。「うっ」未経験の衝撃に打ちのめされ、のどが詰まった。「嗚呼」という痛嘆の呻きは、そのせいで洩れることはなかった。ただ息を呑んだまま、意識が遠のいてしまったのだった。
失神した身体がイスから崩れ落ち、音を聞きつけた仲間が何ごとかと駆け寄ってきた。
介抱され、ようやくのこと我に返った彼女は、わけを訊かれてもただただ泣きわめくしかできなかったのである。

懇願して、地元警察が事故死と判断した、その映像を見せてもらった。米国人観光客の一人が撮っていた映像だった。事故とした判断理由の説明は、映像を見ながらであった。
ちなみに、拓子のUSBメモリーに収められていた映像とは、当然違っていたのである。だが、矢野たちがこのことを知るには、《蚊帳の外》過ぎた。結局は、この映像を見れなかったわけだが、しかし、事件解決に影響を与えるものではなかった。
――普段から慎重な俊子が、柵を跨ぐだけでもあり得へんのに、まして川側に身を反らすなんて、信じられへん!――
こちらの映像(ナイヤガラフォールを撮影していた米国人観光客が、叫び声のした右方向へ角度を変えたもので、俊子の恋人とおぼしき男の背中は画面の右側にあった。撮影者の右隣にいたからであろう)にも、さきほど藍出が聞いたのと同じ声が入っていた。当然ながら、こちらは右側から収録したものであった。
聞いた瞬間、拓子は確信した、殺人だと。妹が川に落ちたのは、恋人の欺きの指示に従った結果だったと、拓子は向かいに座を移した白人警察官に懸命に説明した。
が、映像からの言葉を理解できない地元警察署員は、突然やってきた東洋人の言をまともに聞く気などないというような応対で終始した。二日も前に事故死で処理した件である。なにを今さら、なのだ。
それでも、妹の連れの男が姿を消しているのは「おかしいではないか」と強く主張した。加えて男が妹との婚前旅行で渡米した恋人だと、スマフォを取り出しメールをみせた。
だが、地元警察は見解を変えなかった。「日本語を知らないのだから意味をなさない」とうそぶき、男の声が恋人のだと証明できるのか、そう開き直ったのである。黄色人種の、しかも感情的になった若い女の主張に耳を貸すつもりなど、端(はな)からなかったということだ。
「ならば近郊の、二人が泊まったホテルを調べてほしい。カップルだと証明できるはずだ」
「言われなくてもロッジ等も調べたよ。けど、昨日ユーが言ったトシコ・スガノの名前の宿泊客を泊めたところはなかった。別の町で泊まりまたそこに帰る予定だったのでは?」
頑として、事故死を既定の事実とする白人警察官。もはや捜査するつもりはないと言わんばかりだ。それでも拓子は怯(ひる)まなかった。「現場にあったはずの荷物や妹が所持していたスマフォが消えたのも、連れの男が持ち去ったからとみるのが自然ではないか」と詰め寄ったのである。姉として必死だった、妹の無念を何としても晴らしてやりたいと。
にもかかわらず、「置引きだと、アメリカ人なら誰でもそう考えますがね」と。耳を貸すまいと頑なになるのは、じつは、裏事情を公にはできないという本音が存在したからである。観光地として潤う地元としては、殺人事件を認めるわけにはいかない…これに尽きた。

真実よりも利益を優先させる地元警察の巨大な壁に、別の見方をすれば白人中心の、いわば米国そのものに対し、それでも粘りに粘り、孤軍奮闘、説得に徹しに徹したのだった。
だが拓子は、ますます固陋となる巨大な白い壁に、ついには抗しえなかった。ほんの一ミリの前進もさせることができなかったのである。

努めて冷静だった拓子もついには感情が昂り、大声でわめき罵倒してしまったのである。それが地元警察を一層頑なにしたのだろう、見せてもらった映像のコピー要求さえ、個人のプライバシーを盾にはねつけられたのだった。
やり場のない怒りを唾として、署の壁に吐き掛けたその口で、マスコミにも同じ主張を初めは大人しく展開した。が、地元新聞もテレビ局も冷淡だった。
観光産業がスポンサーになっている事情を勘案するほどの、そんな冷静さを彼女はもはや持ち合わせていなかったのである。
結局、梃子(てこ)でも動かない白いアメリカに対しては、諦めざるを得なかったのである。

彼女は日本の警察に活路を求め、帰国することにした。八年ぶりであった。
荼毘(だび)にふされた妹はその前に、慟哭の両親に付き添われ、沈黙の帰国を果たしていた。
遅れて実家に着いた姉が、荷物を解くのも忘れ真っ先にしたこと。それは仏前で泣くことではなかった。滂沱(ぼうだ)と流し尽していたからである。妹の部屋へ行き、ネットの携帯対応掲示板(携帯やスマフォとも連動したインターネットの電子掲示板システムのこと)やツイッター等に書き込みしたことだ。

菅野俊子がナイヤガラ川に転落死した前後の映像を、姉として検証したいので有料で転送してほしい、そういう内容だった。祈るような想いで、転落と同時刻に居合わせた世界中の観光客に訴えかけたのである。が、この行動が幸だったのか、あるいは次の不幸を生んだのか…。

翌々日、――心中お察し申し上げます。映像を送らせていただきます。メアドをお教えください。妹様のご冥福をお祈り申し上げます。なお、謝礼の件は気になさらないでください――との、良心的な電子メールが届いたのである。そして肝心の映像が届いたのは、その翌日のことだった。ただし、プライバシーに当たる部分を削除したものであったが。

拓子は、震える指で操作し映像と音声を検証した、微細に至るまで決して看過すまいと。
そうはいっても肝心の映像は画素不足のせいか、細かいところが不鮮明であった。音声も、瀑布が発する音響や観光客の声などの雑音で、肝心の音声が聞き取りにくかった。
それで、大阪市内日本橋の電気屋街で購入可能な機材および彼女が培ってきた技能を駆使し、映像と音声の鮮明化に取り組んだ。執念で、だった。

転送してくれた映像(鑑識の小林が解析し矢野たちが見た映像のマザー)は、ナイヤガラで拓子が見たのと逆の方向へレンズを移動していた。それで、転落者の行方を目で追おうと柵から身を乗り出す観光客を押しのけた男の後ろ姿が、画面の左側に映っていた。彼女にとって欲しかった情報を、おかげで入手できたのである。

問題の男、柵に向かう以前は右手に何も持っていなかった、手首にハンディカメラをぶら下げていたが。にもかかわらず黒いとぐろを、帰りの手は握っていた。この黒いとぐろを、拓子はズボンのベルトと推測した、しかもそれを使い未必の故意の工作が施されたと。
ところで、彼女が米国で切歯する破目に陥った原因の一つ。それは、ナイヤガラの地元警察で見せてもらった映像の限りでは、往路で男が黒いとぐろを右手に持っていなかったとは言い切れなかったためだ。柵へ走る男の右手が映っていなかったからである。
それでも地元署で見た映像で、「柵に取りつけたベルトをしっかり握ってれば安全やから、(ナイヤガラ川への落下防止用)柵を跨げ」などという、恋人が発した誘導をすでに聞いており、そこから導き出した推測をナイヤガラの地元警察に必死でぶつけたのだった。
しかし、取りつく島もなく却下されてしまった。彼らにとって都合のいい理由はいわずと知れていた。意味を理解できない日本語の百万遍より、万国共通の《百聞一見にしかず》にこそ説得力であるのだと。映像に、たとえ一瞬でも背部の右手のベルトが映っていれば、姉の主張を認めたというのか。だが、映っていなかった以上、いかんともしがたかった。
右手が映るのは、男が振り返った以降である。地元警察は、だからベルトだとしてもそれを往路において持っていなかったとはいえず、従って立証不可能だと主張し、結果、門前払いにしたのだった。

むろん拓子は、署員が「インパッシブル」の言葉を残し立ち去るまで食い下がった。「右の手首にはビデオカメラがぶら下がっていたでしょう、ということは右手でカメラを操作していたとなる。それなのにベルトを持てるでしょうか?」どうやという顔で係を睨んだ。
「小走りする前に持ち替えたのかもしれないね、ベルトを左手から右手に。理由まではわからんが」発言は金剛石のように硬く、黄金のように変質しなかった。

ところで、なぜこれほどまでに、往と復での手中のベルトの有無を問題にしているのか。
それは、男が具体的に指示する言葉を、鮮明ではなかったが確かに聞いていたからだ。「俊子、ベルトをしっかり握って絶対に離すなよ。体半分が柵の外に出ても、そのベルトを握ってる限り、絶対に落ちひんから。もっと体を反らし。折角の大自然をバックに、綺麗な俊子をカメラに収めてるんや。頼むから、普段とは違う自分を出してくれ。そやそや、なかなか決まってるで」拓子はつまり、命綱代わりに使っていたベルトだと主張したのだ。
そしてその…、【身体を預けていたベルトが切れたのだから】で絶句していた。
俊子が転落したのは必然だったとしているのだ。未必の故意を主張したのも当然だった。

ところで既述したとおり、地元警察には日本語を理解できる警察官がひとりもいなかった。だから、証拠として採用するのは無理だと、徹頭徹尾、開き直ったのだった。

そういう、非道で理不尽な経緯があり、拓子は、日本の警察を頼る以外なかったのである。もっといえば、そこにしか、もはや望みを託せなくなってしまっていたのだった。
「なるほど。妹さんと男の関係も、ベルトを命綱代わりにしていたことも、疑う余地はありませんね」
さすがに同邦の警察やと目を潤ませた。が、期待を裏切らなかったのはここまでだった。
「しかし、ベルトに切り込みなどの細工があったと確認しないことには、殺人事件だと立証できません。あるいは妹さんが、ナイフか何かでのけぞるよう強制されていたのならば話は別ですが。しかし僕には、恋人の悪気のない指示に従っていたとしか受け取れません」中年の警察官は、風貌からも仕事熱心には見えなかった。「おそらく検察も、未必の故意での殺人だとするのはもちろん、それを立証するための捜査にもゴーサインは出さないでしょう。となると、過失があったか、つまりは過失致死を問えるか、ですが、安全性の確認は、いわばお互い様でしょう。男が一方的に責任を問われる状況にはありませんね」
結局はアメリカの警察と同じかと思ったら、だんだん腹が立ってきた。むしろ、裏切られたと思ったから、よけいにだった。湧き起った憤怒を抱えたまま、すぐさま反論した。「男のベルトなら、男が責任もって安全かどうか調べるのが当然でしょう!」
「見せて頂いた映像では、男物だとは断定できませんし、言葉からも断言できません。妹さんのものでないと証明するためにも、証拠のベルトを見つける必要がありますね」警察官の態度はさきほどから同じで、いたって冷静だった。いや、冷淡であった。
――男が処分したに決まってる。見つけるなんて不可能や!――と怒鳴りつけてやりたかった。アメリカで受けた忘れがたき仕打ちが、怒りの焔(ほむら)を増大させる燃料や酸素供給源となっていたのである。だが、さすがに止した。怒らせてもひとつも良いことはないからだ。
大きな深呼吸をゆっくり数度、増大する怒りをそうやって少しでも冷やすことに努めた。

ところであろうことか、警察官はこの間、今日の昼食を何にするかで迷っていた。所詮、――面倒なことには関わりあいたくない――のである。
そこまではわからない拓子は唐突に、「いや」と鋭く言い放った。このたったふた文字に、相手の言い分に対し全否定を込めたのだ。「見つけるなんて無理です!それにどう考えてもやはり男の責任です。妹の本意ではなくまして率先しての行動でもありません。一方的に男があんな危険を強いたのだから、未必の故意に当たるはずです!」自分の口から出た言葉なのに、吐き出したあとの腹の中で勝手に増幅し、怒りがたぎる寸前に達した。しかし残っていた理性がなんとか押さえつつ、「お願いです。調べてください。でないと、妹は全く報われないまま、苦しみ続けるのです」溢れ出る涙とともに、必死に訴えたのである。
にもかかわらず、「妹さんが亡くなったのですから、ただでは済まさない気持ちもわかります。ですが二十五歳の大人なら危険だからと拒否する、そんな判断もできたはずです」またも、肉親の苦衷や悲嘆に寄り添おうとはしなかった。「結局は求めに応じた、ですよね」
と言われたのには、正直、認めたくはないが一理はあると思った。それで、しばし言葉に詰まったのである。
そんな心の隙を、担当官が衝いた。「だから、男を一方的に責めるのはどうかと。まして未必の故意云々といわれても、さきほども申しあげたように何の根拠もない状態では動けません、我々警察としては。なぜならば、動く以上、税金を使うわけですから」
まるで他人事のような警察官の態度に情けなくなり、反論の言葉をしばし失っていた。
「それに、妹さんが慎重な性格だったなら、事前に正常なベルトだと確認していた可能性が高い」だとしたら、過失致死罪の立証も難しいと言外に告げた。安全性確認という行為は、とりもなおさず柵を跨ぐことの危険性を認識していた、そう解釈できるからだ。

強硬な拓子も、妹ならベルトの安全を確認したはずと認めざるを得なかった。だが、人生の夢にひた走ってきたせいで恋をしたことのない拓子は、女心の微妙を見落としてしまっていた。約八年間会っていなかったことも災いしたかもしれない。俊子の心裡がわからなかったのだ。
安全確認が愛する男を疑うことに通じ、ひいては嫌われるのではないかと、妹はそれを恐れたのだった。それに、愛してくれている自分に危害が及ぶようなことを万が一にもするはずがない、ましてカレの子を宿している自分に、そう信じたのである。
「こんなことを言うのは僕も辛いのですが、以上の理由で、妹さんも納得済みの結果の、“事故”と判断するしかないのです。それとも、強要されていたとでも主張なさいますか?」応対した警察官は切り口上であった。いや、拓子にすればむしろ挑んでいるような、もっとはっきりいえば、「証拠を持って来い」と突き放しているような冷酷さを感じたのである。
同国人なら親身になってくれるはずとの当てがはずれた反動は大きかった。だから「そこまでは」のあと、口ごもったのである。拓子は、日本の警察からも否定される事態を全く想定していなかったのだ。それだけに…、単なる落胆では済まなかった。
無言になった拓子を前に、担当者は警察官の職責を果たそうとしたのか、「証拠品としてそのベルトを押収できれば、まだ捜査のしようもあるのですが…。お気の毒とは思います。が、我々としては手出しのしようがないのです。たとえば」それとも、さすがに悄然とする女性に対し、酷なことを言ったと反省したのか、アドバイスのつもりなのか、「確たる目撃者、あるいは殺人を証拠立てる何かを提示して頂ければ、当方といたしましても新たな対応をする用意があります」または、打ち萎(しお)れる女性に対する慰めなのか、そう補足した。
しかし、拓子にとっては補足になどなろうはずもなく、「殺人の証拠?…もしそんなものがあれば、現地警察も殺人事件として取り扱ってくれたでしょう」地元警察と大同小異のおざなりな応対に、先刻までは憤怒だったものが、悲嘆からやがて無力感へと徐々に変貌していきつつ「何の権限も組織力もない私にできることは全て致しました。微かな疑惑でもそれを追及するのが警察の仕事ではないのですか」涙声をふりしぼりながら言った。「それに、怪しいとは思いませんか。恋人が川に落ちたのに、心配もせず姿をくらますなんて。現に、他の観光客は警察を呼べとかレスキュー隊に連絡しろとか叫んでいるのですから」
「お気持ちはわかりますが」
――気持ちがわかるなんて。なんで軽々しく言えるんや――そうぶつけてやりたかったが、必死で抑えた。相手も人間だ、感情を害させてしまえば、頼む側にとって不利益になるだけだと。いま何が何でも促さねればならないのは、捜査を決断させることだった。
「客観的にみて、残念ながら怪しいとまでは言い切れません。もし相手の男が妻子持ちだとしたらどうでしょう。関係を隠したいと思うのでは」と冷淡のまま、ひとつ咳払いをした警察官、「あるいは、…こんなことを申し上げては失礼かと存じますが、世間によくある事例で申しますと、片一方の独りよがりといおうか、妹さんは純粋なだけに恋人だと思い込んでしまった。しかし男にすれば遊びでしかなかった。それならやはり、荷物を持ってその場から逃げるでしょう。まあそんなわけで…。もう一度、証拠を見つけたうえで来署頂けませんか」関わりあいを避け、この場を終わらせたいとの心情を露わにした。
拓子の要望を容(い)れて事件化に肩入れするとなると、まずはアメリカ地元警察の協力を仰がなければならない。加えて、協力と一言でいっても、人的・物的両面の全面的協力を得られるよう、地元警察と交渉しなければならない。
しかし、それが極めて困難なのは自明だ。彼らはすでに事故として処理し、そう見解を発表した。しかもメディアを通じ世界に向け発信したのである。これが覆ったりすれば、地元警察は面目を完全に失う。そんな、恥を世界に曝してまでして、有色の異邦人のために事件の可能性を認め、しかも協力までするだろうか。だから、府警の警察官の立場で、事件と確定もしていないのに、《火中の栗を拾う》のは避けたいと思うのもしかたなかった。
「……」拓子は全く言葉を失った。もはや何を言っても、国家の都合や威信という厚い壁に跳ね返され、個人の切なる願いなど簡単に蹂躙されてしまうからだ。
失色の唇が凍った。が、蒼ざめたのは顔だけではない。鉛と化した心もだったのである。
落胆程度ならまだ良かった。微かだが、希望を持てたからだ。
乗り越えられない絶壁を前にもはや歎息すら忘れ、途方に暮れてしまっていた…。否、この程度では、心情表現としてまだ適格ではない。さらにいえば、失望とも違っていた。
ただ張っていた気持ちが微かな残滓としてあったぶん、その場ではなんとか立ち上がることはできた。とはいえ、何も考えられないほどに頭が混乱しており、そして絶望したのである。それだけだった。次の瞬間、気の停止が身体に出た。貧血を起こしたのである。
「グワ」とも「ガッ」とも、得体のしれぬ奇妙な声が洩れた。急激に意識が混濁し、その場にて気絶してしまったのである。曽根多岐署の床は、ことのほか冷たかった。しかし、奈落に堕ちた拓子はそれを感じ取れる状態には、すでになかった。