くだんの極秘会議における決議の二日後(だったらしいのだが)、固定の六人以外の、部外者をまじえた合流会議が、こちらも秘密裡にひらかれたのだった。
ところが、というよりも案に大いに反してというべきだろうが、端を発した(ほころびが生じた)のは、じつはこの合流会議のすぐあとにおいてである。
そういえば、と続けたいのだがここですこし横道にそれ、会議について、私説をのべたい。
トラファルガーの海戦での敗退やロシア遠征における歴史的大敗走(トルストイは“戦争と平和”を執筆す)などが因となってのナポレオンのエルバ島流刑。
そののちの“鬼のいぬまに洗濯”ではないが、欧州各国ではそれぞれが利害をあらわにしつつ、それでもウイーン会議をまずはひらいたのである。
だが喧々囂々(けんけんごうごう)、混乱に混迷をかさね、そんななか悶着のすえ “ウイーン体制”をつくりだしたのだった。ちなみに、ナポレオンの島脱出を知ったがゆえにだが。
ところでウイーン体制とは、フランスも含む絶対君主による王政復古、いわばごく一部の特権階級のための制度のことだ。
いっぽうで、民衆が絶対的権力にたいし抵抗を旨とする自由主義運動などを、結果まねいたのである。
まずはドイツで。ついでイタリア、スペインと。さらにはベルギーやギリシャの独立などと激化拡大し、やがてこの体制は崩壊していったのだ。 また、中南米においても独立運動が惹起。1810年代以降、アルゼンチン、チリ、コロンビアと次々に国家独立をうんでいったのである。