はなしを賢妻から愚甥(義理)の秀秋にもどすとして、かれの心裡だがあるいは、じぶんを天下人の後継者から引きずりおろした張本人こそ、まだ幼いとはいえ、憎き秀頼であると、ひそかに呪っていたのかもしれない。

復権など、もはやのぞめないのだからと。

ならば豊臣など不要だ、潰してしまえ!云々。案外、裏切りの根はここかもしれない。小人物かつ愚者なればこそ、の発想だ。

だがこの私説には、ざんねんながら依処は存在しない。

ただこの愚物は、岡山への国替えのさい、前領地であった筑前より多大な年貢を持ち去ったと…。大名というより盗人さながらで品格はゼロ、まさにごろつきの所業である。さらには酒乱・狼藉などの素行のワルさから導きだされた、帰結的といえる推察である。

取るにたらない輩が、ならばこその、じぶんの非を棚にあげ、他者への責めや逆恨みをするは、世の習いである。孫が恩をわすれ、祖父や祖母を殺害するなどの事件は、その例であろう。

でもっての、さらなる理由。これについては、“関ケ原”後のいくつかの結果から、断定してもいいとボクはおもう。

数人の家臣が、徳川方と内通していただけでなく、“裏切りのうま味”を秀秋にふきこんでもいた。おかげで論功行賞により青二才は九州北部の辺境から、ぐっと京にちかづける岡山城の主となれたではないか。

また、家臣にとってもうま味があった徳川との密約。状況証拠ではあるが、その存在を歴史がものがたっているのだ。無嗣が、大名家におよぼす危険性は、謙信後の上杉家を例にするまでもない。

そして二年が経過し取るにたらない事件が…。とは、愚物秀秋の突然死のことだ。せいで五十五万石は、はからずも無嗣による改易となったのだった。で、そののちの史実。

浪人となった家臣たちを、徳川家が厚遇したのである。これは見のがせない。だからそれを列挙すると、

稲葉正成と平岡頼勝は徳川家により、大名に取りたてられた。また、大名ではないが、堀田正吉と長崎元家も、数千石の知行をうけ御家再興をかなえられたのである。

これらから、密約は存在したとおしはかれよう。ちなみに稲葉正成にはべつの理由もあるが、それでも秀秋をそそのかし、徳川に利をもたらした“愛(う)い奴(やつ)”なのである。

ひとの世は、一瞬さきは闇だという。まして戦乱の時代に、ほかでもない、強大な徳川の家臣に取りたてられるという、破格の身の保証がなされたのだ。けだし、これいじょうの論功行賞はないであろう。

つまるところ俯瞰してみるに、秀秋の裏切りの理由は単純ではなく、伏線や仕掛けも複数あったのだ。そのすべてが事実だったとする証拠は、たしかにない!

 しかしながら、こんなふうに推量することも、歴史をふりかえりつつの、ひとつの興なのである。