紆余曲折としたが、
1577年の八月、似つかわしくもないが短慮から夫は、まさに軍紀違反をおこしてしまった。主君の命にしたがわなかったのだ。
とうぜんのことだが信長の逆鱗にふれ(太田牛一の信長公記による)、大げさではなしに、あすの命がしれぬという大ピンチに陥る。「謹慎のうえ、のちの沙汰を待て」と、そう使者がつげたのだ。
ふつうなら震え上がるのだが、そこは信長を知悉する秀吉。切り抜ける機転として、まさかの行動をとることにきめた。常人ならば妻として制止するのだろうが、侍女に命じつつそれにすすんで協力したのだ。そのかいがいしい姿が、見えるのである。
具体的には、謀反など微塵もかんがえていないと示すために、秀吉は呑めや唄えのドンチャン騒ぎを演出したのだった。伝えきいた信長が、謹慎をゆるすか、ぎゃくに激怒するか、まさに命がけの賭けだったとボクは見る。とはいえ、信長の性格を見抜いていた秀吉とねねだったからの驚天動地ではある。
また、それよりまえのこと。たしか、長浜城主時代のころだったとおもうが、夫の浮気のひどさを信長に直訴したことがある。もし凡庸な女性であったならば、機嫌がいいときでも信長は無視したであろう。
どころかなんと、天下布武の朱印のついた、とは、たとえば家康にだすような公式のという価値をもつ、しかも心をこめた手紙をししためさせたのだ。ねねを慰撫し、秀吉をしかりつける、ねね全面勝訴の内容であった。
そんなねねなのだ。豊家を護るためには、「まず家康を討ちはたたせ、そのうえで三成を亡き者にすればよいではないか」と云々。そういえたはずだ。ならば、そんな渾身の訴えを、虎之助たちが聞き入れないともかんがえにくい。
ついでの以下の判断、断定はできないのだが、三成、大谷吉継との関係においては、けっして悪くなかったと見える。
なぜなら、①三成の三女辰姫を秀吉の死後に養女とし、1610年には弘前藩主に嫁がせている。②ねねの側近に、大谷吉継の母がいる。③小西行長の母も、侍女として仕えていた。などなど。
こうしてみると、かのじょの人物像を知るに、一筋縄ではいかないようだ。
はたして、北政所の所存はどこにあったのだろうか?自分たち一代で築いた豊家ならば、みずから葬り去るのもよしと、諦観したのだろうか。
夫が、「大坂のことは夢のまた夢」と詠んだように…。