ならば浅学のまま、ボクなりに穿(うが)つとしよう。べつの理由を探りだそうというのだ、浅薄・厚顔をさらしつつ。

手始めにだが、秀秋の人物像について。ついで、背景にもふれる必要があろう。

まずは出自から。

かれはまごうことなく、豊臣の血筋である。具体的には、ねねの兄の五男として生をうけている。

そのうえで幸運なのか、環境が急変する。

本州の近畿以西をほぼ平定し、1585年には四国をも支配下においた、秀吉のその養子となったのだ、幼児のかれの、あずかり知らぬところではあったが。

さらにいえば、大坂に巨城をきずきつつ、すでに織田家筆頭からの脱却もとげて昇華し、つまり天下人へとのぼりはじめた秀吉の、その後継者となったわけである。

だが、あざなえる縄のごとし。で、

その八年後のこと、淀とのあいだに実子秀頼が誕生したことにより、いとも簡単に破談・解消されてしまい、翌年には小早川家の養子へと。いうまでもないこと、家臣へと格をさげられたのである。

だけでなく、このあとにおきた出来事なのだが、十四歳で所領を没収されるはめに。しかしながら原因を一言でいうとなれば、分家として、わきが甘かったからであろうと。

さらにはその三年後のこと、養父隆景の隠居により譲りうけていた領地三十万石余においても、こんどは転封のうえ、十五万石に減封という憂き目にあうのである。

だからというべきか、苦労しらずのボンボン育ち秀秋を観察するに、恩をわすれて秀吉を憎んでいたであろうと。ついでの推測なのだが、遺恨をはらす機会をねらっていたところへ、“関ケ原”という好機が到来したとおそらく。

しかしそのまえに、ひとつ説明をしておく必要のある事項が。

慶長の役における総大将としての戦ぶりを、石田治部少輔が非難した(くわうるに忠臣として、長浜城主時代からつかえている秀吉へ、「大将の器にあらず」とそう進言したもよう)ことも、背景にはあったと文献に。

進言の大将の器にあらずとは、槍をふるって、敵陣にて戦闘したことをさしている。

で、三成にたいしても、私怨をいだいていたようだ。

ちなみに進言の動機だが、たんなる武人のごとき振舞いで参戦した軽挙妄動、まさに総大将にあるまじき愚行であり、豊家のためにならずとかんがえてのよし。けっして、讒言がその目的ではなかった。

一万歩ゆずって、秀秋にも言い分や弁明もあろう。

だとしても、やはり青さというべきか。かりに総大将が討ち死にともなれば、士気への悪影響は計りしれない。ぎゃくに敵陣の奮戦ぶりたるや、いや増すのである。

こんな当たり前すぎることを、いくら初陣のボンボンとはいえ、知らなかったでは済まされない。

このていどの愚昧だから、のちのことだが家康の誘いにのり、また、家臣たち数人の甘言もあり、加担、つまりは豊家を裏切ってしまったのである。

くわえてのべつの理由。秀吉の死後(関ケ原の二年まえ)のことであるが、減封と転封があらためられ復領されたのだ。

なるほどそれを、大老の家康が便宜をはかってくれたおかげとおもったようである。それで領地回復にたいし、家康に恩義をかんじたのかもしれない。

だがじつは秀吉の、事前の遺命によっただけなのだ…。

ただ以下は、証拠があるわけではないが、家康がその成果を偽装した可能性もあるのではと。なにせ謀略を、くらい灯火のもと、古ダヌキが謀臣の本多正信と密談し、あげくのこと、実行可能にまで練りあげる、なんつ~のはこの二人の、得意中の得意とするところだからである。

 だとしても、「それでもなぜ裏切りを?」の疑念は、いぜんとしてのこっている。

秀吉死後における家康の傍若無人ぶり(法度破りなどを、前田利家や三成が非難・糾弾している文献が現存)は、目にあまったはずだ。

 天下をねらっているからこそ、敵味方を識別するためにも、必然のゴリ押し法度破りをしたのだ、家康は。

だけではなく、もちろん味方をつのるための、檄文の意味あいもあり、じじつ有力外様大大名とのあらたな姻戚関係は、天下盗りにはかかせないと強行したのだった。

そんな政略結婚をあげると、以下のとおりである。

清正と正則や黒田長政(官兵衛の嫡男)らは家康の養女を継室(後妻)に。山内忠義(土佐藩二代藩主)は家康の養女を正室に、伊達忠宗(仙台藩二代藩主)は秀忠の養女を正室に、などなど。ちなみに後者の政略結婚は、秀秋の死後のことではあるが。

 このていどのあからさまな禁じ手すらも見抜けなかった、とすれば若かったとはいえ、やはりバカだった、となる。

それはおくとしても本来は、豊臣の血統をうけつぐ秀秋が、自身の血をうらぎった、そのおそらくの理由とは?