慶長の役において秀秋は総大将として、秀吉の命により十六歳(1597年)で駆りだされている。ちなみに本格的な初陣としては、けっして早くはない。
でもって、清正や正則などの名だたる歴戦の猛将が連日たたかっている、まさに修羅の日々であった。
だからだろうか、たしかにかれも、槍を手に敵を十数人、討ち果たしている。総大将だったにもかかわらず。
そんなさなかにおいて、立場上、夜ごと、酒をあびられたであろうか?夜があければ、戦闘がまっている。二日酔いなどゆるされないのだ。
それでもかりに乱行があったとしてだが、じつは、補佐すべき付家老としての山口宗永がそばにつかえていたのである。強諫しなかったはずがない。なぜならば宗永は、天下人秀吉がつかわした目付け役だったからだ。
いじょうの理由により、不本意ながらも飲めない日すくなからずであったろうし、自然、いわゆる休肝日をもうけざるをえなかった、にちがいないと。むろん、ときおりの酒宴にうち興じた日もあったとはおもうが。
以上は想像の域だが、まちがいないことが一つ。何といっても敵地だということ。八方が敵というなかでの兵站を考慮にいれると、食料や武器弾薬、医薬品の補給こそが最優先となり、憶測ではあるが、二の次の酒を入手できない日がつづくこともあったはずだと…。
そうだとしたら秀秋のばあい飲酒歴にかんがみ、代償性(ていどの軽い)肝硬変だったのではとも想像できる。
よって相応の肝臓疾患だったとしても、それが死因(だとする医学者もいるが)とはかんがえにくいのだ。
推量をかさねる・
ならば“唐突な”死だったと、いえるのではないか?
いずれにしろ、いわくありげな変死とみるべきであろう。
現代であれば死因究明のため、“行政解剖”がなされるべき異常死だと。さりながら、問題の死体についてはその地域が岡山(関ケ原後の論功行賞で岡山城主に)なので、政令がさだめる“狭義”の行政解剖は、監察医制度がないため不可ではあるが…。いやはや、これは座興の余談である。
ところで、度をこえた飲酒が原因で“病にいたる”ことは、中世十六世紀末(このおとこの飲酒癖を確認できた時期)、未発達の医学とはいえど、それでも当時からしられていた。
そんななかでしかも秀秋とて、世継ぎをもうけねばならない立場の主君であった。サケに狂って伽(直截表現すると、子作りのこと)をおろそかにするは、それ自体、家臣にたいする背信となる。
諫言を軽んじたうえで、伽という義務の不履行がたび重なるようならば、いまだ戦火の臭いがくすぶる時代(家康健在時の大坂の役、あるいは三代家光統治時の島原の乱までを戦国時代とする説もある)ゆえに、極論のようだが、秀秋はしょせん養子でしかなく、義父はむろんのこと、主筋である毛利家始祖の元就の血流でもない主君であり、よって道義的にみても、そのすげ替えやさらにいえば、下克上すらもまだ不可能ではなかったはずと云々。
というのも、秀吉が制定した惣無事令(私闘、とくに大名間の)は有名無実化(関ヶ原の戦いはまさに)しており、家康による武家諸法度はいまだ制定されていない、そんな端境期であったのだから。
ちなみに下克上においては、成りあがりの“蝮(まむし)の(斎藤)道三”はその常習犯として、ついに国盗りまでなしとげており、ことに有名である。
流れをもどすとしよう。