ところで…、
三成は、前記のごとく悪逆非道なそんな秀吉に強諫(つよくいさめる)もしたが、いっぽうで恩義にむくい、命がけで豊臣家を護ろうとしたのだ。せっかく治まった国内に、戦火を再燃させたくなかったからでもある。
この想いが、既述したように…万民はひとりのために、ひとりは万民にむけて尽くせば太平の世がおとずれる、“大一大万大吉”という標榜となり、で、安寧への願いを紋どころとし、また旗指物としてもつかったのだが、これこそまさに、万民のためであった。
そんななか、かれの想いと人間性に、盟友の大谷刑部(ぎょうぶ)は是非もなしと肚をきめ、つき従うべく1600年、不自由な重い病身に鎧をつけたのではないだろうか。だが本音、かれは不本意であった。家康との戦争に勝てるとする本気度は、かなりひくかったからだ。
ひとえに、他者との意思疎通を不得手とする三成の、人望のなさによるとかんがえた。
目から鼻にぬける三成には、加藤清正や福島正則以下が愚物にしかみえなかったし、だから懇親の情をもてないどころか、軽侮してしまったのである。
そんな欠点を、友の三成に忠告もし諫めもしたのだった。
いっぽう豊臣恩顧の大名で、武断派の清正と正則および黒田長政・細川忠興・加藤嘉明・浅野幸長・池田輝政ら、それに藤堂高虎(秀長の元家老)や前田利長らは豊臣家にたいする恩義をかえりみず、だけでなく亡き影武者秀吉の子、秀頼のあきらかな窮地にもかかわらず、家康側に与し、関ヶ原で西軍をやぶったのである。
忘恩の、いや、恩を仇でかえした非道な人非人たちではないか。もちろん、これとはことなる論義も存在するだろうが。
たとえばその論。清正など数人は、秀頼を一大名に格下げしてでも豊臣を存続させようと願っており、だからなのだがそれを危険視した家康により、清正は毒殺されたとの説が当時からあった。しかも、語りつがれるほどに有名なのである。
というのも、大坂冬の陣の三年前、清正と浅野幸長は、秀頼と家康の和解のための会見をとりもち、豊家の安泰をはかろうとしたからだ。また正則は、秀頼の警護にあたっていたとの説もある。
天下盗りの野望をもつ家康としては、愉快な事態ではけっしてなかった。
ましてや、聡明さをかもすほどに立派に成長していた秀頼。いまでいうところの、まばゆいばかりのオーラをはなっていたのだ。
だからなのだが、この会見は歴史がしめすように、かえって仇となってしまったのである。
二十五年前、小牧長久手の戦いで野戦上手の家康は、勝者となった。にもかかわらず外交戦で苦杯をなめ、けっか、秀吉の軍門にくだることに。
そのときの屈辱がよみがえり、“秀吉の血脈をうけつぐ秀頼は脅威”と。よっていまのうちに討つべしと、決したのである。
それは、“なにかにつけ弱気”の裏返しのゆえんだ。というのも、家康の履歴書を紐解くと、けっこう“あかんたれ”だった、からにほかならない。
信長から、信康(嫡男)と築山殿(正室)殺害を命じられたときにも、それにしたがった。秀吉にも、頭があがらなかった。そういえば信玄にいどんで、三方ヶ原の戦いにて敗走するさいに、恐怖のあまり脱便している。そのときの屈辱を絵にのこしたことは、有名である。さらには本能寺の変の直後、逃走中の伊賀越えにおいて、史実、敵の追手をおそれ、逃げきれないからと自刃しようとした…エトセトラ。
くわえての最大の恐怖。豊臣恩顧の大名たちが、偉丈夫で頼もしげな秀頼に接し、秀吉への恩義がよみがえり再度の寝返りで、徳川に反旗をひるがえすかもしれないと。
ところで秀頼にたいし、二条城で会見するいぜんの家康のイメージでは、子供のままであったであろう。
なぜなら1604年、“太閤殿下七回忌法要”での再会を最後に、会っていないからだ。そのさい秀頼は満で十一歳にならんとする、まだ少年であった。
だから関が原から十数年間、豊臣氏にたいする脅威など、家康はかんじなかったのだ。
豊家からみればおかげで、存続をあやぶむまでの禍はふりかかってこなかったのである。たしかに豊家の所領が、220万石から65万石へと大幅削減されはしたが…。
ところが1611年の三月以降、満をじしての、豊臣家根絶やしの戦いに着手するのだ。二度の大坂の陣は、その総仕上げである。
しかしそのためには、開戦の大義名分がひつようであった。各藩に動員要請をかけるにたる、そのための理由である。だからこそ虎視眈々と、豊家のようすを窺うにぬかりはなかった。
そしてきっかけは、意外なところから転がりこんできたのだ。