世界が驚天動地した、1989年11月9日の夜の、ベルリンの壁崩壊だ。

あのとき、ハンマーやつるはしを手に壁を壊していたひとびとも、映像をリアルタイムでみていた全世界のひとたちも、まさか壁崩壊が、ソ連邦の瓦解の主因となるとまでは、思いもよらなかったであろう。

アリの一穴というが、このとき壊された壁は、たしかにほんの一部であった。が、歴史の大転換となったのである。

その当時のいきさつをざっと荒く綴ってみる。ただし、体制崩壊や革命であるのだから、短期日でそれがなろうはずもなく、よって記述に、タイムラグが生じるのは致しかたないと云々。

だがそのまえに、キーパーソンを記しておかねばならない。ペレストロイカを断行していたソ連のゴルバチョフ共産党書記長(当時)である。かれが存在しなければ、冷戦は終結しなかったし、だけでなく東欧各国において、多大な血が流れていたであろう。

で、1989年11月9日の夜以降に流れをもどすと、ドイツは壁崩壊後に東西統一。東欧諸国においては共産党支配体制の瓦解。チェコスロバキアではビロード革命。ルーマニアは大統領チャウシャスクの公開処刑。そしてポーランドからはじまる民主国家の成立。ウクライナやバルト三国などの独立と、ソ連邦の瓦解。

強大だったソ連ですら云々。そういえば歴史上最大だったモンゴル帝国もだが、あえなく滅んでしまっている。

停滞、あるいは固定化してみえたふたつの巨大国家による二十世紀の世界の体制も、堰をきったように多大にすぎる劇的変化をしたのである。

月並みだが歴史は、顕在化、あるいは可視化の有無はべつとして、うごいているということだ。

ついで歴史とは?の、さらなる普遍的事実。

現代、それは必然の、次の現実へとつづいていく飽くなき流れの、その瞬間瞬間の連続である。よって、その一瞬一瞬こそが現代そのものなのだ。

むろんこれも当然だが、現実を体験しているひとたちにとっては、いまのその一瞬あとからが、平時的日常であったとしてもあえていえば、それが歴史なのである。

歴史とはなにも、大事件やトピックスのことをさすのではない。むしろ、平凡な日々の一瞬一瞬が過去となった瞬間、…歴史となっていくのだ。

くりかえすが、ひごろは変哲のない日常、あるいは、ごくごくたま…にも巡りあわない前代未聞、そのどちらであろうとも、本来ならばいうまでもなく事実がそのまま、時のながれに刻印されつつ形成されていくもの、なのである。

だから事実としておこった、その現実のつみ重ねでしかないと。

いやはやこんな見解、無味乾燥でおもしろみにかけている、または教科書的にすぎるといわれれば、そのとおりである。

ならばと歴史の実体について。…歯に衣(きぬ)きせなければ、それは虚と実。いいかえれば、ウソとまことということだ。

つまりは、当代の権力者や支配者たちが、じぶんに都合のいいように事実を歪曲したり、べつの虚偽を用意して書き換えてきたものであり、極言すればそれこそが、おおむね人類の有史といえる。

例をあげよう。まずは石田三成像。徳川幕府下では、極悪人あつかいであった、豊家を乗っ取ろうとした忘恩の強欲ものとして。しかし実体は、盗人家康から豊臣を、秀頼をまもろうとしていたと既述したように、これが史家の大多数の見解である。

いまひとつは、大化の改新あらため“乙巳(いっし)の変”で殺害された蘇我入鹿。とぼしい史料のゆえ、人物像ははっきりしないが、天皇家側がのこした一方的な悪人説を、良し、あるいは鵜呑みにするのはいかがなものかと。

権力闘争に、斬殺により負けたけっか、誹謗中傷を流布されたわけで、いっぽう、遣唐使による国力増強に尽力した人物との説も。国家の枠組みが未熟そのものだった倭国を、近代法治国家にしようとしたとの、学者の見解である。

などをふまえて、ついで、世界に眼を転じるとしよう。