いっぽうの後者集団だが、文治派と称される。財政や戦時における兵站などをふくむ行政にたけていた。ちなみに兵站とは、人員・兵器・食料・医薬などを戦地に前送・補給しつつ、後方の本営との連絡をも機能させる後方支援のことだ。
とくに、秀吉の三成への信任はもっとも厚く、そのぶん武断派はおもしろくない、ていどではなかった
ところで“兵站が延びる”という言葉があるように、杜撰(ずさん)だと、戦争を維持・続行することはできなくなってしまうのだ。後方支援の重要性をしりつくした秀吉が、有能な三成を重用したのも、とうぜんといえよう。
その三成について、いますこし触れておきたい。
武断派に比すまでもなく、欲がすくなかったということだ。
知るひとぞ知るはなしだが島左近、流浪の身とはいえ、とうじから智勇兼備の誉れたかかったこの人物を、大名級の知行二万石(一説だが、三成はちなみに当時は四万石であったから、半分を与えたことになる)で召しかかえている。
自家に、まだなんの功績もしめしていない人物だったにもかかわらず家老として、自領地から割譲するのだから、“大気者”(秀吉も貢物の多種高価でもって、信長をこう感心させた)でなければできない、度量のおおきさだ。
ついで、人物だったとする説をあえて。
有名な旗印、大一大万大吉。意は既述したとおり、万人はひとりのため、また、ひとりが万人のために尽くせば、太平の世となると。生き馬の目を抜く(ひとを出しぬいて利益をえる)戦国時代の武将とはとてもおもえず。その人柄がしのばれよう。
くわえて、朝鮮出兵における後方支援の功が大として、秀吉は筑前・筑後両領地を下賜しようとした。
が、三成はこの加増を辞退している。「殿下がおわす大坂や伏見からみて遠隔地ゆえに、ご奉公に支障がでる」というのが理由である。
家臣の鑑と、泣いて喜んだにちがいない。
さらになのだが、琵琶湖の東岸・滋賀県北東部(長浜市や彦根市など)では、いまだに三成の治世をほめる住民はおおい。年貢をかるくし、善政を布いたからだ。
そのせいで、領地の主城である佐和山城の普請(内装)はいたって質素であった。派手ごのみの主君とは、雲泥の差である。
ちなみにのち、信頼する井伊家に彦根一帯をおさめさせたのも、政権を守るに要衝の地だからであり、それより以前の三成にすればぎゃくに、東方、とくに家康という脅威から豊家を守るに、じぶん以外のだれが任にあたれれるか、まったくもって論をまたなかったのである。
でもって、家康の野望をうち砕こうと、さいごまで恩顧に命をはって応えていること、武断派とは天地の差ではないか。
その三成、斬首の直前まで、報恩と信念のひとであった。
また、論理を重んじ、理性のひとでもあった。よって、一利なしの朝鮮出兵の愚を一度ならず主君に説き、さらに諫めてもいる。主君であろうとも、非を非とただす信義と真の忠義の人でもあったのだ。
上意に逆らえず、やみくもに武を恃(たの)み、欲に足をすくわれ感情にうごかされがちだった武断派とは、質におおきな違いがあったのである。
そういえば中島敦の小説 “山月記”、自ら恃むところ頗(すこぶ)る厚かった逸材は、にもかかわらずのあまりの不遇を嘆くあまりついには発狂し、人喰いのトラへと変じてしまう、そんな寓話をなぜか連想してしまった。
煩悩をコントロールできなかった吠える清正や正則などの漢(おとこ)たちに、やがて来たる悲劇が頭をよぎったからだろうか。
閑話休題。