秀吉の声をしらない小姓たちは、まさか影武者だとはおもわず主君の言葉として、家臣たちにつたえる。大名や家臣は、小姓の振る舞いがまったく自然なので、たとえば、疑いをもっていたとしても、その疑惑はやがて消えていくだろうとした。
ここまでの策略に、まずもって、非のうちどころはないと。さすがに比類なき知略の軍師なり、唐土の諸葛亮孔明にまさるとも劣らじと、秀長は内心、舌をまいた。
しかし、恐れいるのはまだはやかった。適確な現状認識ののち、さらに献策をうけたからだ。
「失礼ながら、殿御一代できずかれたゆえに、御当家には有能な譜代や直参は、そうおおくはござらん」
譜代とは父祖からの家臣をいうが、農民出身の秀吉には存在するはずもない。それで小身のころよりの、という意味で、官兵衛はつかった。
「僭越ながら」と前置きしたあと、「小六殿(蜂須賀正勝の通称)や長政殿(寧々の養父の養子、浅野長政)などであまりおおくは…」
_いいたいことを、歯に衣(きぬ)着せずぬかしおるわ_秀長は苦笑するしかなかった。
「されば、能あるお方以外はとおく退けられるがご賢明かと」ずばりいった。このさい、能力にとぼしい神子田正治や仙石権兵衛秀久・生駒甚助親正などを閑職においやれば、当家にとって二重の有益をもたらすといいたいのだ。
能力にとぼしいとは、ほかの秀でた武将たちと比較しての優劣であって、かれらが無能だという意味ではなかった。
ちなみに先のふたりは勘気をこうむり、史実、改易されている。
で閑職にとは、禄もけずりとることをも意味していた。
もちろんかれらからの機密漏洩の恐れがなくなる、だけでなく、有能でない家臣を格下げすることで、その地位をもっと有能な家臣にさずけられる、とのおまけも発生するのである。
もっともな意見ではある。がそれには、信長のように放逐しないだけ慈悲があると、納得させる必要もある。温和な人は、ついそうかんがえたのだった。
しかし官兵衛は割りきっていた。かりにかれらが叛心したとしても、織田家にとって脅威となった、天正六年の荒木村重の謀叛のようにはならないと、織りこみ済みなのである。
領地も兵力も人材といえる陪臣も、三人については歯牙にもかけないですむていどのものだったからだ。
「さっそく、そのように手配いたそう」窮地を、むしろ当家の有利に変換させようとのみごとな知謀は、天晴(あっぱ)れ、というしかなかった。
「(丹羽)長秀殿、久太郎殿(堀秀政、智勇兼備の武将として信長は称賛し、敵からはおそれられた)など、上様(本来なら将軍家への呼称だが、織田家では信長をさしていた)直参で信頼できる方々には、すべてを打ちあけるが得策とかんがえますが、いかん」
「うむ、そのふたりに限れば、な。とくにだが長秀殿にたいしては戦勝ののち、羽柴家の力を天下にしらしめたあとがよかろう。ただしご本人のみで、子息以下には内聞を約していただく」
雌雄が決したいま、有力大名が柴田勢に寝がえる可能性はひくいとはおもった。がそれでも、つい万が一をかんがえてしまう、との心境であった。
_勝家をたおし果たせば、織田家中において、羽柴家に異をとなえるものなどいなくなる_が、それまでは自重すべきと。
たしかに本気で、しかも単独で戦陣をしいた大名はいない。信長の次男(三男との説もある)信雄(かつ)がのみ、家康の力をかりて、戦端をひらいた。が、史実はそれくらいだ。
この次男坊も後年、豊臣家をたよることとなる。
さらには外敵の、四国は長宗我部、九州は島津、関東は後北条、といえどもそのいずれもが、戦をしかけてはいない。
秀長のよみは、ほぼ的を射ていたのである。
「まてよ。うん、そうじゃ、明かす直前に、領国を安堵するのみならず加増もするむね、つたえるとしよう」あらたな領地なら、柴田領から割けばいいとその胸のうち。
とはこの本質、羽柴家の家臣の列にくわわることを意味している。
じじつ、長秀は賤ケ岳ののち加増され、百二十三万石の領主となっている。
また、堀秀政は山崎の合戦のとき、すでに家臣の立場で参戦していたのだった。
「むろん、それとは引きかえにじゃが、身内をいわゆる人質として差しださせるが、な」裏切らせないための備えとしてである。秀長もどっこい、画策の辣腕ぶりを披露したのだった。文句のつけようのない機略といえた。
「それがよろしゅうござりまする」じつは官兵衛も同意見であったが、ここも秀長に、花をもたせたのだった。
「きまった!では明朝、出陣のまえに、主の名で触れをだすといたそう」同盟の大名の首根っこをおさえるに、はやいに越したことはないと秀長はかんがえた。
とにかく天下をとるまでのあいだ、まずはカリスマとしての秀吉の健在ぶりをしめさねばならない。そのため、賤ヶ岳の合戦以降は敵味方のどちらにたいしても、影武者をたてていくしかないと。
あす以降の戦術や将来をみすえた戦略は、じぶんたちや長秀と秀政が受けもち、“影”は単なるかざりに徹すれば問題は生じないはず。この点でも、ふたりは同じだった。
そしてこののち生じるかもしれない危惧、ひっきょう影武者の暴走についても、「多少は目をつぶるしかない」でも、一致したのである。
ただこれほどの秀長にも、やがてのとんでもない狂いが生じるのだった。三歳年長の影武者よりはやく、1591年一月二十二日に五十一歳で、自身が病没するというまさかの計算ちがいである。
それで、影武者が二種類の、とんでもない暴走をすることに…。しかしそれを制止できず、けっか、豊家を崩壊させてしまうのだ。
とりかえしようのない悲劇、みるも無残な史実を、かれは泉下(黄泉、あの世)でしることとなる。
生きていれば暴走を制止し、豊家を安泰にしてみせたものをと、滂沱(ぼうだ)の血の涙で息もできなくなったにちがいない。
「さて、のこるは、そばにて侍る若少な子飼いの衆とほか数人のみにてござりまするな」
この合戦ののちに賤ヶ岳の七本槍としょうされる、加藤虎之助(のちの清正)・福島市松(のちの正則)・加藤孫六(のちの嘉明)・脇坂安治など。さらにくわえての石田佐吉(のちの治部少輔三成)・大谷桂松(のちの刑部少輔吉継)・小西行長・増田長盛などのことをさしている。